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第5話 婚約破棄〈9〉

 グラセリニ邸の使用人らが案内する形で、ポーレット家の三人は晩餐会のためのホールに入っていた。グラセリニ夫妻はもちろん、すでに到着しているゲストには三人揃っての挨拶を終えている。

 名だたる貴族の邸宅の中でも特に美しいと評判の建物が、このグラセリニ邸だ。招かれた客人はまず正面玄関に案内された段階で、二階に続く階段手すりの精緻な装飾や壁を飾るレリーフに目を奪われるはずだ。置かれている品々にもセンスが光る。名窯めいようが手がけたディテールの細かな水瓶すいびょうなど、流行のインテリアが空間を演出している。

 美しいのは何もエントランスばかりではない。アリシアがいるバンケットホールの天井からは豪奢なシャンデリアが下がり、客人達を照らしていた。飾られた花々は瑞々しく、楽隊が演奏するメロディーは心地よい。使用人達はテキパキ立ち働きつつも優雅な所作を見せている。さすが大臣の邸宅で開かれるパーティーだ。

(あ)

 令嬢の視界に、見覚えのある大きな背丈の獣人の姿が入った。入り口からは少し遠い、広々とした会場の壁や窓に近い位置に彼はいる。 

(マンジュ卿だわ)

 たった数日前にアリシアは彼に約束したのだ。自分から挨拶に行く、と。まだ晩餐会の開始時刻までは余裕がある。アリシアは父親に断りを入れた。

「お父様。わたくし、顔見知りの方の所へご挨拶に伺ってきてもいいかしら」

「ああ、行っておいで。ただ、あまり話し込まずに戻ってくるのだよ」

 アリシアは素直に「はい」と返事をして、ホールの中を進む。

 パーティーに出席している顔ぶれはさまざまだ。老若男女、誰もがかなり格式の高い恰好をしている。ただ、アリシアがホール内をぐるりと見回してみても、レオ以外に獣人の姿は見受けられないように思えた。

(……あら?)

 周囲の様子に気を取られて目を離したのはほんの一瞬のはずだが、さっきまでレオがいたはずの場所に彼が見当たらない。

(おかしいわね、さっきまで確かに窓のそばに……)

 目的の場所へ近付いてみて分かった。ギリシャ調だかロココ調だかの、凝ったデザインの太い柱。その陰になったせいでさっきは見えなかったが、外開きの窓が一部開いていて室内からテラスへと出られるようになっている。アリシアがそっと外の様子をうかがうと、思った通り、そこにはレオがいた。

 アリシアは、背の高い掃き出し窓の向こうへと一歩足を踏み出す。ただそれだけで、ホール内のがやがやとした雑音が遠ざかった。

「ごきげんよう」

 アリシアが獣人の後ろ姿へ向かってそう呼びかけると、レオが振り返った。彼も他のゲストと同じくフォーマルなコートを身に着けていて、以前会った時よりも畏まった様子に見える。

「これはアリシア様。先般のご無礼、大変失礼いたしました」

 胸に獣の手を当てて礼を執るレオに、アリシアも同じ仕草で返礼する。今のレオの手は、あの日アリシアが無意識に発動した使い魔カラスの魔法を打ち破った時のように、爪をむき出しにしてはいない。落ち着いて紳士然とした今のレオの態度を見ていると、先日の自分は彼が慌てて介入するほどかなり危険なことをしてしまう寸前だったのだと実感して、アリシアはいたたまれなくなる。ルークを巻き込んでしまわなくて、本当によかった。

「いいえ、わたくしが礼を言わねばならないのです。ありがとうございました」

 一陣の風が吹く。思わずアリシアはまぶたを閉じた。勢い強く吹き通ったのは一瞬で、テラスフロアのそばに植わった木々の葉擦れが響く。結い上げてまとめたアリシアの髪よりも、豊かにたくわえたレオのたてがみのほうが風を受けた。

 アリシアは目を開け、改めてレオに話しかける。

「さっき、貴殿の元へ向かおうと思っていたのに急にお姿が見当たらなくなってしまったのでびっくりしましたわ」

「そうでしたか。探して頂いたうえに驚かせたとはすみません。ここにいると、食前酒アペロを勧められることがないから気が楽なんですよ」

「まぁ」

 酒が苦手なのだろうか、意外、とアリシアは思う。自分の知る限り、宴席の大人達は食事と酒を楽しみ、社交に勤しむのが常だ。レオは言い訳のように「こればかりはどうも」とぽつりと零す。

「会が正式に始まる前のこの時刻なら、このようにテラスに引っ込んでいても年頃の方々や恋の邪魔をする心配はありませんからな」

 レオが言うように、テラスや庭園、温室はパーティーで親しくなった数人の若者や男女がゆっくり話し込む場所になりがちだ。アリシアは、獣人の彼が広間ではなく人気ひとけのないテラスにいるのは、酒だけが理由ではないような気がしてならない。ひょっとして、彼が軽んじられがちな境遇にあるせいだろうか。貴族の娘として、さらには今後王家の一族に加わる者として何かできることはないだろうか。アリシアはレオをおもんぱかる。

「ホールでは、何かと気を遣ってしまわれるでしょう。もしもお困りのことがございましたら、わたくしから──」

 アリシアは、ただ単純にレオのためにできることをしたいだけだった。だが、その浅はかな同情は冷や水を浴びることになる。

「おっと、ひょっとして私の身上を憂いてくださっていますか? その心配は無用ですよ」

 やんわりと、しかしきっぱりレオはアリシアの懸念を否定した。穏和な表情だが、ただの社交辞令ではない拒絶だということがレオの声のトーンと金色の獣の瞳から伝わってくる。「あ……」と戸惑いを漏らし、アリシアは何も言えなくなってしまった。

(今、なんて失礼なことを……!)

 出過ぎた言動だった。冷遇されているからホールを避けているのだろうか、だなんて邪推もいいところだ。仮にも爵位を受けた相手に対する言葉ではないし、侮辱ととられてもおかしくない。

 レオは別に怒った様子を見せてはいない。それがさらに、自分に対する失望を表しているようにアリシアには思えた。

 居たたまれなさにアリシアは耐えられない。

「……ではまた後ほど」

 そう言うのが精一杯で、アリシアはレオの返事も待たず、逃げるようにテラスからホールへと戻った。

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