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第5話 婚約破棄〈8〉

「ではこれで」

 場を辞する仕草を見せて馬を引くエイダンに、アリシアはエールを送りたくてたまらない気持ちになる。なのに行ってしまう。引き留めようと慌てたせいで、アリシアが自分を制御しようとする意識はややおろそかになっていた。

「あなた、つまらぬことで腐ってしまっては本来持つはずの価値も半減でしてよ。貴殿はすでにマーティン家の立派な嫡子だわ。せっかくの美徳も、あなた自身に立場の自覚がなければ宝の持ち腐れというもの。情けのないことね」

「……何だと」

 ぎろり、とエイダンがアリシアをにらむ。こんな言いぐさ、相手を不快にして当然だ。彼にとって、心に少しのわだかまりも抱かず養父に信を置き、また自分が養父に相応しい息子でいられるかどうかは大切で繊細なトピックなのだから。自身のコントロールを忘れて失言したアリシアのように、エイダンも素の自分が出てしまっている。

(しっ、しまったっ。また嫌味なこと言っちゃった!)

 根が素直なエイダンの顔にはっきりと、失せろクソ令嬢、と書いてあるのが読めるとアリシアは思った。

「ママとパパのいない所じゃ、そういう陰険なこと言いやがるんだな。噂通りの憎らしいご令嬢ってわけだ。知った風な口聞きやがって」

 苛立つエイダンが手綱を持つ手が、わなわなと揺れている。完全に怒らせてしまった。

(うぅ、怒るのはごもっともなんだけど、だってほんとにいろいろ知っちゃってるんだもの!)

 アリシアは動転しつつ、ごまかそうと笑顔を作り後ずさる。

「ほほほ、最近の軍の方々はご自身の能力を過小評価しがちだとお伺いしましたので激励したかっただけなのですが少々言葉が過ぎたようですわ。大変失礼いたしました。誤解させてしまった非を心よりお詫びいたします。でもこれも全て、そちらを高く買ってのことですので悪しからずお許しくださいませ。

 では! 女神ライザのご加護があなたにありますようお祈りいたします! ごきげんよう!」

 オタク特有の早口でアリシアは無理やり会話を終わらせ、馬車の御者席付近にいるジョージとターキのところへ向かおうと考える。

「お、おいっ」

 令嬢はエイダンからの呼びかけにくるりと背を向け、逃げるように早足で歩き出した。

(やってしまったぁ……。でも、怒らせちゃったからこそ、思わぬ形で再確認できたかも)

 この世界は、ゲームのプレイヤーがストーリーを進めてさまざまな問題を解決した後のライゼリアではない。ケイル王子とアリシアの婚約は継続中だし、メインキャラはそれぞれの悩みや課題を抱えたままだ。

(エイダン、悩み過ぎないで。そしてどうかあなたの素直でまっすぐな性格のままに、今後のストーリーの分岐を選んでね。ヒロインからのサポート、ちゃんと間に合ってくれるかな。バッドエンドは絶対回避できますように……!)

 動転はしていたけれど、女神ライザのご加護、と表現した最後のあの挨拶は、アリシアからエイダンに向けられた祈りであり願いだ。令嬢は、例のフレーズを思い返す。

 ──義を尽くし、愛を為せ。

(ライゼリアに生きる者にとって、女神の言葉は大切な心の指針だもの。きっとエイダンを支えてくれるはず)

 設定資料集に書かれていた内容と、生みの母が自分を慈しみながら語ってくれたことを思い出しつつ、アリシアは父親の元へ合流する。

 エイダンはというと、イライラした気持ちを引きずったまま馬に跨り、グラセリニ邸の外の自分が警護を担当する三叉路さんさろへと引き返していた。ふざけるな、と憤る。何も知らない第三者、しかも、例のワガママ放題だと悪評高い娘に最近の自分の悩みを見透かされたような屈辱だった。

(だが──)

 エイダンは、アリシアからの最後の言葉を思い出す。意外だった。

(まさか女神の加護を受けるよう祈られるなんてな。教会のシスターでもあるまいに)

 温室育ちの貴族のお嬢様は、どうも変わっているらしい。そんな思考にふけっていたエイダンの耳が、馬の軽やかな歩様ほようと馬車の車輪の音を捉える。

「さっきはどうも」

 エイダンに声をかけたのは、ポーレット家の御者であるターキだった。

「御者殿はお帰りかい?」

「また晩餐会が終わる頃に参じますよ」

 一度顔見知りになってしまえば誰に対してもすぐに気安く接することができるのが、エイダンのいいところだ。とはいえ、軍人としての習い性のせいで、明らかに自分よりも年上であろうターキに対しては完全にくだけた口調ではなかった。

「帰りもかなり混み合うだろうから、ぜひ早めにお越しを」

「それが良さそうですね」

 ターキが会釈し、馬車をく馬達にスピードを上げるよう指示を出そうとしたタイミングで、エイダンは「あのさ」とターキに全く異なる話を切り出した。

「そちらさんのご令嬢は、尼寺にでも入る予定がおありかい?」

「まさか」

 すぐさまターキが否定して、その会話のテンポの良さが何だか無性に笑えるとエイダンは思う。

「やっぱりそうだよなぁ」

「……お嬢様が、何か?」

 ターキの目の中に、さっきまでの雰囲気とは違う種類の炎が揺らめいた気がして、エイダンは興味を惹かれる。剣術を磨いた手練れの者と相対したような気分だ。

「いやさ、さっき別れ際に女神様のご加護を、ってそちらのご令嬢に祈って頂いたもんだから。古風だよな」

 ターキはしばし考えて「それは、女神ライザがあなたのためにお嬢様を遣わされたのかもしれませんね」と返事をした。

「……どういう意味だ?」

「言葉通りですよ。あなたに伝えたいことを、女神がお嬢様を介して直接届けたのです」

 エイダンは、思わず笑う。

「まさか」

 神様に、あんなムカつく話されてたまるかよ。そう思うのに、ターキは至って真剣な顔つきのままだ。

「出来事の全てに良い意味が隠されていると考えるのが私の処世術です。もしも私の主人の無礼によってご気分を害されたなら、私から詫びさせてください。では、失礼いたします」

 馬車は速度を上げて遠ざかっていく。自分より年嵩としかさの御者は、この苛立ちをどうも見抜いていたらしい、とエイダンは気付く。

(女神が俺に伝えたいこと、ねぇ)

 ライゼリアの者にとっては当たり前すぎて、近頃はあまり深く考えることのなかった女神ライザの加護や言葉の意味。エイダンはふと思う。どの国の民も女神に信仰を寄せている。それはライゼリア全土で共通だ。いったいどれほど昔から、女神は民に寄り添ってきたのだろう。いや、待て、ならば──。

(顔も知らない俺の親も、アイザックの親父殿も、女神を信頼して、その加護を受けてるってことだよな。多分、俺も同じように)

 うまく言葉にできない何かが、心の底の方に柔らかく着地して沈殿する。自らと、世界と、自分が愛するべき人達が繋がったようなそんな気がして、近衛隊の若きホープは天を仰いだ。こういうのを、人は天啓と呼ぶのだろうか。

(この俺がこんなこと考えてるなんて、我ながら意外すぎるぜ。おもしれーもんだな)

 東から次第に暮れて、オレンジ色の光が反射する空。エイダンは夕暮れの雲の色から、アリシアの髪色を連想する。この王都にも、国の辺境にも、等しく夜が近付いていた。

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