その時、ジョージが「アリー?」と気遣うように名前を呼んだ。ぐるぐると考えていたアリシアの表情がわずかに曇っていることに、父親はちゃんと目を向けていたらしい。
「めでたい席ではあるが、あくまで婚約の発表のために仲人役のグラセリニ大臣が設けてくれた晩餐会だからね。アリーの誕生日祝いは、明日にきちんと改めよう」
優しい父親だ、と思う。少しずれているけれど。
そう、今のアリシアがわずかに浮かない顔をしているのは、別に誕生日祝いのパーティを当日に開かないのが理由ではないのだが、娘を思うジョージの優しさは偽りではない。
「さて」と、ジョージが参加者のリストを手元に用意して眼鏡をかけた。その姿を見て、父親が年齢を重ねているのだとアリシアは実感する。
「今日お越しになる方々のお名前だよ。現時点での最終変更を反映してあるからアリーもきちんと確認しておきなさい。場所はグラセリニ大臣のお宅だ、アリーも伺ったことがあったかな?」
「ええ、立派なお庭を覚えていますわ。庭師の方だけでなく、奥様もお花を育てるのがお好きでお世話されているとか」
「そうそう、その方だよ。到着したら、まずはグラセリニご夫妻の所へ挨拶を。その後、すでに到着されているゲストがおられたら基本的には立場が上の方からお声をかけること。それが終われば、来られた順にご挨拶できるようエントランスに近い位置で待機しておくのがいいだろうね」
「はい」
立ち上がったジョージが、招待客の一覧をアリシアに手渡す。それを受け取りながら素直に返事をしたアリシアだが、慌てて記憶の中のグラセリニ邸を思い起こした。
(えっ、エントランスってどんな風だっけ⁉ そんなあっさり当たり前みたいに貴族の振る舞いを求められても……っ)
しかし、言われた内容を忘れてしまわないうちに反復しなければと焦った割に、意外としっかり父親の説明が頭の中に残っている。
(あ、あれ?)
さっき聞いたばかりの説明だけではない。しっかり考えようとすれば、自分の取るべき行動が次々に思い浮かんでくる。時候の挨拶にどんなフレーズを選ぶべきか。失礼のないお辞儀の仕草。エントランスのどの位置で待機しておくのが使用人の邪魔にならずゲストに目を配れるか。
(……アリシアって、やっぱり貴族の令嬢なんだなぁ)
しっかり意識しておかないと貴族らしく振る舞うのは難しいけれど、この体は確かに上流社会でのあれこれを会得しているのだ。
不思議な感慨を覚えながら、アリシアは父親から受け取った招待客の一覧に目を走らせる。
(あ)
つい最近言葉を交わした貴族の名前を見つけて、アリシアは目を留めた。
(レオ・マンジュ卿もお見えになるのだわ)
今夜は、失礼のないように自分からきちんと挨拶をしに行こう。そう心づもりしながら、アリシアは父親に気になったことを尋ねる。
「ケイル様は何時頃のご到着ですか?」
「遅くとも七時半までには、と聞いているよ。王子との婚約のことは対外的には未公表だから、お着きになるまで王子について口外してはいけないからね。ゲストの方々には事前に何も知らせていないんだ。加えて、何と今夜は陛下と妃殿下、兄王子様もお越しになるそうだよ」
「ぅえっ‼」
アリシアは、思わず漏れてしまった戸惑いを隠そうと小さく咳払いする。
(あっ、兄王子ということは……私の一番の推しのジェイドが……⁉)
というか、国王ファミリーが揃ってやって来る晩餐会だなんて、かなり格式の高いものなのではないだろうか? 婚約の発表はゲストにとってはサプライズ演出のようだから、その場で客達に与える驚きはもちろんのこと、後日もかなりの話題性を持って人々の口にのぼるに違いない。
ジョージは引き続き、最終的な流れを娘と確認する。
ケイル王子が婚約について話す中で名前を呼ばれたら席を立ち、王子が自分の近くに迎えに来るのを待つ。グラセリニ大臣が進める段取りに従ってケイル王子と共に会場の正面に移動し、グラスを掲げて二人でゲストに乾杯を促す。国王陛下のスピーチ。その後、アリシアは王子の隣に席が用意されるので会の終了までその席に着く。
(待って待って待って! 今夜の流れは、まだ覚えられてないっ)
婚約の発表と聞いていたから、単に名前を呼ばれるくらいかと思っていたけれど、それは少し甘かったらしい。父親に再度確認して、何とか事なきを得る。
(そうよね、国王一家がお見えになっての婚約発表だもの。名前だけ出して終わるわけないか。
……結婚……、結婚かぁ……)
元の世界では結婚について具体的に話すような彼氏はいなかった。親戚や友達の結婚式に出席したことはあるけれど、自分が誰かと一緒になるというイメージが全然湧かない。
(……えっ、ていうか、私、ほんとに結婚するの⁉ ゲームのシナリオのことだからって思って現実感ないからあんまり意識してなかったけど、王子と結婚するってつまり……私、この国のお姫様になるってこと⁉)
ちょっととんでもなさすぎる。恐るべし、乙女ゲー。貴族の令嬢というだけでかなり元の世界との違いを実感したのに、プリンセスだなんて! だが、動揺しつつもちょっとワクワクしてしまうあたり、幼い女の子の願い事でよくある「おひめさまになれますように」という思いが大人になった今の自分の中にも眠っていたのかもしれない。
ジョージは娘に説明しつつ自分でも今夜の段取りを最終確認したことで、ようやく安堵できたような気がした。妻を亡くしてからの彼はできる限り愛娘の希望を叶えるために生きてきたが、時々不安になっていたのだ。
娘に寂しい思いをさせていないだろうか、困ったことがあったらちゃんと力になれているだろうか、望みを我慢させてはいないだろうか、と。
その彼の干渉がかつてのアリシアの悪役令嬢としての側面を助長していたのだが、根が善良なジョージには自覚がないし、娘のためにとカミラに押し切られた再婚が禍根を生んでいることなど思いもよらないだろう。今のジョージは、娘が王子と一緒になれるという幸運を女神ライザに感謝するばかりだ。
「さぁ、あわただしいが楽しもう。大切な節目の日だからね。アリーのお誕生日を祝うためのディナーパーティーは明日にずれてしまうけれど、言葉だけは今日のうちに伝えさせておくれ。お誕生日おめでとう、アリー。プレゼントは明日のお楽しみだよ」
父は微笑み、いずれの娘の晴れ姿を想像して早くも胸が詰まった。