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第5話 婚約破棄〈4〉

 アリシア・ポーレットの十七歳の誕生日当日は、週末の土曜日だった。それまでは自宅と学院の往復だけで過ごしていたので、晩餐会があるのだと思うと目覚めたばかりのアリシアはほんの少し緊張する。

「お嬢様、おはようございます! お誕生日おめでとうございます!」

 満面の笑みを浮かべたメイド、ニナが扉を開けるやいなや祝いの言葉を贈ってくれて、アリシアは思わず笑ってしまう。ライゼリアで覚醒した最初の朝も、こんな風にニナが朝の爽やかな挨拶をしてくれたのだ。

「ふふ、ありがとう。ニナがお祝い一番乗りだわ」

「いいえ、残念ながら」

 そう言いながら、ニナは後ろ手に隠していた花束をまるで手品を披露する見せ場のようにアリシアに差し出す。「こちらが先に届いておりましたので」と令嬢に捧げられたのは青、白、黄、淡いピンクの花々。優しい色合いのブーケだ。

「まあ!」

 アリシアは受け取り、思わずその香りをかぐ。見ると、花にカードが添えられていた。

 ──あらたまの年 八千代の幸を。

 今どき、えらく古風な言い回しだ。誰からのプレゼントかと尋ねようとしたアリシアに先んじて、ニナが嬉しそうに「ケイル様からでございます」と告げる。アリシアはびっくりしてしまった。

(う、うそ……っ、あの不愛想な初期ケイルが! 花を⁉ カードを⁉)

 アリシアの驚きも当然で、ゲームのメインシナリオに登場するケイルはヒロインと正規ルートで結ばれる一番の主要キャラであるにも関わらず、とにかく愛想がない。序盤は特に全くない。毛ほども、露ほども、針の先ほどもない。ヒロインの存在だって、ストーリーが始まって間もない頃は一切眼中にない。恋愛にはてんで興味を抱かず、使える時間があるなら全て政策学を始めとする学びや馬術の稽古にあてるか、隣国とのパイプを強固にすべく有力者と書簡をやり取りしている。

(意外だわ。秘書的なポジションの人が手はずを整えただけかもしれないけど、ケイル王子が誰かに花を贈るイメージなさすぎだもん。兄のジェイド王子やシナリオ終盤の溺愛ケイル状態ならともかく……)

 アリシアは、二人の兄弟王子を思い浮かべる。このロアラ国の第一王子のジェイドは「花の兄」の別名を持つ梅、第二王子のケイルは「花の弟」とされる菊をそれぞれキャラクターデザインのイメージモチーフにしている。また、兄の象徴が白梅なので、弟は対になる色として黒を基調とした衣装であることが多い。ケイルの髪や瞳も同じく黒だ。ただ、真っ黒ではなくて、光を受けるハイライト部分が広いためか暗く沈んだ印象を与えることはない絶妙なビジュアル。わずかな陰を帯びた不愛想なケイルがどんどんヒロインに惹かれていき、シナリオのクライマックスに向かうにつれてプレイヤーが恥ずかしくなってしまうくらいに熱烈に素直に愛を囁く様子は、いわゆる「ギャップで風邪を引く」とファンが表現するくらいの変わりようだ。さっきアリシアが表現したように、溺愛ケイルなどとファンからは呼ばれている。

(まあ、落ち着いて考えれば私に花を贈っても別におかしくはないわよね。今日の晩餐会で正式に婚約を発表をする相手なんだし)

 ゲームの主人公視点では言及されていなかっただけで、外交にも強い弟王子のことだ、婚約者やその家の者と円満に関係を築くのは彼にとって当然のことなのだろう。とにかく今のところ、ケイルとアリシアの間に確執はないようだ。

 アリシアはしばらく花の香りを楽しみながら思考に一旦区切りを付け、「あとで花瓶に活けてくれる?」とニナに頼んだ。


 ポーレット家の屋敷は、クラシカルな構造の二階建て。主棟の他、二つの離れが増築されていて、これらは先代の頃に施工されたものだ。敷地内には庭園や厩があり、それぞれを担当する使用人が手入れや管理を行っている。アリシアの部屋は、玄関ホールから続く大階段を右に曲がった先にあった。

 アリシアは今、自室での朝食を終えて父親の書斎に向かっている。今日の晩餐会の最終打ち合わせだ。アリシアが「お父様、アリシアです」と書斎の扉をノックすると、父であるジョージ・ポーレットから「お入り」と返答があった。令嬢はドアを開ける。

 ジョージが主に仕事のために使っている書斎。主寝室よりも広さはないが、壁沿いにずらりと本棚が並んでいる。法令に関する書籍、領内の作物や納税にまつわる公文書作成に役立つ資料の数々だ。必要な書物を揃えて気に入りの執務机を置いたこの書斎は、彼がスムーズに仕事を進めるにあたって最適の環境となっている。アリシアは、小さい頃からこの書斎に入るのが大好きだった。書架には仕事に関連するものだけではなく、流行の詩や物語も含まれていたからだ。この部屋で、少女は知らない国への憧れを膨らませ、大人達が心をくだく恋愛とはどんなものなのだろうと思いを馳せた。

 ジョージが何かを書きつけていた手を止めて、娘に椅子を勧める。

「いよいよだね。嫁ぐ日が来るなんて、もっとずっと先だと思っていた。生まれたのが、まるで昨日のことのようだよ」

 ジョージの背はアリシアより高く、最近少し腹回りのサイズが大きくなった風貌はゆったりした彼の口調に似合いだ。父親はしんみりとした感情を滲ませつつもとても嬉しそうで、アリシアの脳裏にこの屋敷の自室の壁にかかっていた絵の一枚がよぎった。アリシアが赤ちゃんの頃の絵。父親は、娘が結婚を考える年になった今も、いつだってすぐに思い出せるのかもしれない。赤ん坊だった娘の、ふっくらとした頬や小さな手のひら、ほぐした上質な綿の実のような細くて軽い髪の毛、まだ歯の生えていない柔らかな口元を。

 アリシアの中に、自然と感謝の気持ちが湧き上がる。

「これまで、大変お世話になりました」

「待っておくれ、アリー。今夜はあくまで婚約の公表であって、正式な婚姻の儀礼はまだ先だ。それに、たとえ嫁いだとしても、お前はずっと私の可愛い子供だよ」

 父は優しい。複数の荘園を管理する有力な貴族の一人として多忙ではあるけれど、彼なりに娘のことを第一に考えて仕事に打ち込んできた。愛する妻に先立たれて気落ちした数年を経てジョージが仕事の幅を増やし、再婚の道を選んだのは間違いなく娘のためだ。そう分かっているのに、アリシアの胸中はほんの少し複雑な心境だった。

(元の世界から来た私がアリシアの記憶を客観的に振り返っているからこそ、この感情に気付けたんだろうけど……アリシアは父親に対してちょっと思うところがあったみたいね。いえ、後妻のカミラへの感情がそうさせるのかしら……?)

 以前のアリシアが無意識のうちに抱いていた感情は、はっきりと父親への不信感と呼べるほどのものではない。むしろアリシアは父親であるジョージを尊敬している。しかし、生みの母親への裏切りのような引っかかりを彼女はずっと心の内に秘めていたようだと、今のアリシアには分かってしまう。

(本来のゲームのシナリオの中じゃ、アリシアの内面とか葛藤なんて、一切語られなかったもんなぁ)

 父親は、娘の抱える気持ちなど知るよしもないに違いない。アリシアがどんなことを考えていたのかに思いを馳せると、彼女の誕生日に合わせての婚約発表に対する見方も多少変わってくる気がする。継母のカミラが積極的に進めたがっているような印象があるからこそ、余計に。

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