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第5話 婚約破棄〈1〉

 学内で過ごしていると、アリシアとしての記憶が次々浮かんできてとても不思議な気分だった。授業についてもそうだ。数理学、語学、化学、地理歴史、基礎魔法、体錬保健などの科目名はもちろん、元の世界の自分は到底知らないはずの、ライゼリアに生きる者としての知識が確かに自分の中に備わっている。

 そんな授業中、アリシアは真面目に勉学に励んでいるばかりではなかった。考えるのは、いったいこの世界で自分はどう振る舞えばいいのだろうか、どうすれば元の世界に帰れるのだろうか、という漠然とした疑問についてだ。今すぐ答えは出そうもない。

(ただ、早めに確かめておきたいことはあるわ)

 それは、ゲームの主人公であるヒロインについてだ。

 ゲームのシナリオにおけるアリシアの存在──通称悪役令嬢は、主人公にとっての難関の一つだ。

 メインストーリーは主人公の王立学院入学テストから始まるが、その冒頭では、まず試験を受けることになったきっかけがヒロインのモノローグで語られる。ヒロインは郊外に暮らす平凡な町娘で、貴族の地位にあるわけではない。ある日の雨の中、馬車が事故を起こすのを目撃したヒロインは乗っていた女性の応急手当をし、彼女の骨折治療のため馴染みの医者を呼んでくる。実はその怪我をした女性は主人公が暮らす国、ロアラの王妃だった。王妃はヒロインの行動に深く感謝し、王立学院の入学試験許可を恩賞として特別に用意する。ペーパーテストの成績は悲しいかな、落ちこぼれと表現されてしまいそうな下の中レベルだったが、潜在能力試験では伝承上の『奇跡』の力が扱えるという非常に珍しい結果が出たことで、ヒロインは晴れて王立学院の生徒となる。思いがけない偶然や幸運が続く中、早い段階で主人公の邪魔をしてくるのが悪役令嬢のアリシアだ。

(アリシアは、かなりしつこく嫌がらせするのよね……)

 元の世界で遊んでいたゲームの内容を、アリシアはさらに思い返す。

 嫌がらせがエスカレートした結果、悪役令嬢は学院内での盗難事件をでっち上げてヒロインを陥れようとする。だが、プレイヤーがうまく会話ロールプレイの選択肢を選び、アリシアの語った内容の矛盾を突くことで主人公は濡れ衣を晴らすことができるのだ。結果、アリシアはロアラの第二王子であるケイルとの婚約を破棄されてしまう。プレイヤーのほとんどが、意地悪な悪役令嬢の身から出た錆である転落劇の顛末によって溜飲を下げたことだろう。この事件をきっかけに、ヒロインとケイル王子は互いを意識するようになり、やがて二人が共に困難に立ち向かう中盤のストーリーに繋がっていくのだ。つまり、悪役令嬢の存在は主人公の聡明さや優しさ、健気さを印象付けるためのギミックであり、ケイル王子とヒロインが互いに惹かれ合うきっかけのための舞台装置と言っていい。

(つまり、私がヒロインに意地悪しないで過ごしていれば、多分ケイル王子とゴタゴタしないで済むはずだわ)

 しかし、アリシアが記憶の中をいくら探って思い出そうとしても、自分が特定の誰かを執拗にいびったりいじめたりといった過去は掘り起こせない。逆に言えば、かつてのアリシアは全方位に対して失礼であり、時に相手の神経を逆撫でし、時に目上の立場の人間に媚びていた。

(一体、誰がヒロインなのかしら……)

 授業後半は主人公を見つけることを考えすぎて講義を聞くのが多少おろそかになりつつ、やがて終課の合図となる鐘が響く。午前中のカリキュラムはこれで終了だ。

 さて、これからどうしようか、と考えるアリシアを呼んだのは、例の三人組の生徒のうちの一人、イリナだった。穏やかな性格の彼女らしい柔らかい声が「アリシア様、お昼ご飯、ご一緒しましょう」と誘ってくれて、アリシアはちょっとびっくりする。

「わたくしと?」

「ええ。ミラとヘルガもぜひ一緒に。お腹がすいて空っぽのままでいいことなんて、汚職聖者用の寄付金箱くらいですもの」

 独特のたとえが今ひとつぴんと来なくてはてなマークを浮かべたアリシアだが、イリナの後ろにミラと、それからヘルガがいることに気付いて少しだけ緊張する。それはヘルガも同じらしかった。アリシアと目を合わせない。でも、その互いの似た部分に親近感を覚えて、アリシアはポーズでも何でもなく心から「ぜひ」と返事をした。

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