ルーシィの姿が目の前から消え、アリシアはしばし呆然としていた。
にわかには信じられないことだけれど、自分は別の世界の人間で、今は実体化したゲーム、『魔法も奇跡も貴女のために』の世界の中で生きているのだ。
「アリシアのこと、私あんまり知らないや……」
元の世界の桐谷優子はいわゆる“ゆるオタ”というやつだ。もちろん『魔奇あな』のファンなのだが、メインキャラクターではないアリシア・ポーレットについて、そこまで詳しいわけではない。主人公に嫌がらせしてくるお嬢様、というイメージくらいだ。
ゲームの設定資料集は持っていたし、中身もあちこち繰り返し読んだけれど、彼女のことはそこまでページを割いて深くは掘り下げられていなかった。あの本に掲載されていた内容でいうと、よく覚えているのはたとえば、ライゼリアは中世の世界各地の文化とファンタジーの融合をベースにしていること、今作の舞台は春を司る花の国・ロアラであること、ゲーム中で詳しくは言及されないが夏・秋・冬をテーマにした他国も存在すること、それから、主人公と恋に落ちる可能性のある主要キャラクターの解説。特に、ジェイドの設定は細かいところもよく思い出せる。
ロアラ国の第一王子、ジェイドは優子のお気に入りだ。生真面目で優しい王道王子路線の性格も、「花の兄」という言葉に由来する白梅モチーフのデザイン──女王譲りの金髪と白を基調にした衣装──も、ファンの熱量が正規ルートの第二王子・ケイルに向かうことが多くてどうしても不遇ポジションに置かれがちなところも、どれも全部、優子がジェイドに惹かれる理由だった。
「……びっくりしたせいで、ルーシィにいろいろ聞きそびれちゃったな」
聞いておけばよかったなと思う、気になることはいろいろある。たとえば、自分がアリシアとして今ゲームの世界の中にいるというなら、元の世界の優子は一体どうなってしまったのだろう、とか。
「よ、よくある転生モノだと、トラック事故に巻き込まれたりするけど……」
想像を巡らせて、アリシアはちょっと血の気が引く思いだ。さっきルーシィは元の世界に帰れるかどうか分からない、と言っていたけれど、まさか自分は──。
「いいえ! そんな不確かな空想をしてうろたえるようなわたくしではありませんわ!」
一抹の不安を覚えたアリシアだが、口から飛び出したのは強気なセリフだった。まるで、優子の意識を受け入れた器としてのアリシアが、動揺した自分自身を鼓舞してくれたような奇妙な感覚を味わう。
ルーシィが伝えてくれた言葉を、アリシアは再び噛みしめた。
『アリシア、果たすべき役割があるからこそあなたはここにやって来た』
自分はなぜここにいるのだろう。そんな哲学っぽい疑問なんて、思春期の頃ならまだしも、仕事に追われて疲弊していた近頃は考えたこともなかった。アリシアは、ここしばらくの自分がキャパオーバーの現状をずっとだましだまし過ごしていたことを改めて実感する。では、このライゼリアで自分に何ができるというのだろうか。
「お嬢様! お待たせしました!」
部屋に戻ってきたニナが、嬉しそうにアリシアへモーニングティーを供する。ニナに促され、アリシアはワンピースタイプのパジャマのまま椅子に腰掛けた。カップから立ちのぼる紅茶の香りを含んだ湯気が、ほんのり薔薇色のアリシアの頬をくすぐる。アリシアは、元の世界の自分は特別紅茶が好きというわけではなかったのに、その豊かな芳香から、これはきっとライゼリアの南方の島々で栽培された品種だろうと判断し、湯の中でしっかりと開く茶葉の様子を想像できた。
「……おいしい」
カップに口を付けたアリシアが微笑む。彼女が漏らした感想に飛び上がるほど喜んだニナだが、わずかな違和感を覚えた。
「あ、アリシア様……あのぅ、失礼ながらどこかお加減でも?」
メイドとして、自分よりも年若い令嬢を気遣うニナの気持ちは本物だ。今のアリシアが、前とは何かが違っていることを敏感に感じ取っている。アリシアは思わず事情を打ち明けようとした。
「あ、あのね、ニナ、実は私、アリシアじゃないの」
「へっ?」
心優しい田舎娘としての素が出て、ニナはぱちぱちと数回続けてまばたきする。アリシアは説明を続けた。
「驚かないで聞いてほしいんだけど、私は他の世界から来たの。見た目はアリシアなんだけど、別の人間なのよ」
「お嬢様……」
ニナは人の好い、リスみたいにつぶらな目を見開いてしばし黙った。このまま、すんなり信じてくれそうかしら。アリシアがそう思って、「アリシアとしての記憶はなぜか所々あるんだけど、ぴんと来ないことも多いの。だから……」と言いかけた瞬間、ニナは破顔して、少し照れくさそうな、だけどどこかうっとりとしたような表情を見せた。
「そういう風に考えちゃう時期、ありますよね」
「……え?」
ニナはうんうん、と頷き、「私は十四、五の頃でしたかねぇ」とやや遠い目をする。
「自分がもしもこのロアラ国のお姫様だったらとか、代々近衛兵を務める名門、マーティン家に生まれた才女で男装の麗人として育てられたらとか……」
悪気なく「そのように空想を広げて慰みとするお気持ち、僭越ながら私にも覚えがございます!」と同調してくれるニナ。それは彼女なりの裏表のない優しさなのだろうが、今のアリシアには内心で力強くツッコむことしかできない。
(だめだ! 話は聞いてくれてるけど、全然信じてない! 中二病扱い……ッ)
アリシアはここでめげてはいけないと、「違うの! 私は本当に別人なの! だから、さっき言われた婚約のことなんかも全然覚えがなくて!」と主張する。その真剣な表情に、ニナは少々かしこまった様子を見せた。
「アリシア様……、よほどの事態とあらば奥様にすぐさまお知らせして参ります! 物忘れの病は妖精が原因かもしれませんからお医者様にも──」
「あ、いやっ、えーと、そうじゃなくて……っ。
……あの、変なこと言っちゃって悪かったわ。実はぜーんぜん大したことじゃないの。気にしないで、ニナ」
アリシアは「大丈夫だから」とごまかした 。あっさりこの場で信じてくれないなら、あのややこしそうな継母の耳に余計な情報が入る事態は避けたほうがいいだろう。そう判断してすぐさま態度を変えたアリシアだが、幸いニナは深くは考えていない様子だった。
「よろしいのですか? 何かあればいつでもお力になりますので!
さぁ、今日はいつもより少し時間が押しております。お食事をすぐお持ちして、登校のお支度をいたしましょう」
「と、登校……」
ひどく懐かしい響きに、アリシアの中の、社会人になって久しくなる優子の人格はそこそこ動揺した。