その時、申し訳程度の素早くせっかちなノックの音が響いた。直後、「入るわよ」という声がして部屋の扉が開く。
「おはよう、アリシア。ニナ、お下がり」
鋭くて、高圧的なトーン。反射的にアリシアの背筋が伸びる。
現れたのは、艶のある黒髪を美しく高く結わえた女性だった。深い臙脂色のドレスはよそゆきの装いではないけれど、彼女の陶磁器のように白い肌を黒髪と共に引き立たせている。
メイドが「はい、奥様」と返事をして、紅茶を載せたトレイをテーブルへと下げ、寝台から少し離れた位置に控えた。その様子から、アリシアは、ニナというのがこのメイドの名前なのだと理解する。奥様と呼ばれた黒髪の女性が、やや冷たい声音でアリシアに告げた。
「朝一番に知らせが届きました。やはり週末の晩餐会の場で、ケイル様はあなた方の婚約について公表なさるおつもりよ。あなたの十七歳の誕生日に合わせるのがよいだろうとのご判断です」
「へ⁉」
晩餐会? ケイル様? 婚約⁉ 十七歳⁉ 寝耳に水の、身に覚えのない単語がぽんぽん飛んできて、アリシアは思わず人違いだと説明しようと口を挟む。
「あのっ、じ、実は私……!」
「おだまり! 今さら覆せるものではないのです!」
ぴえ。ここんちの奥様、ちょっと迫力ありすぎない? アリシアがたじろいだところに、咎める声が畳み掛けてくる。
「今さら何ですか、見苦しい。あの女の娘なら、黙って嫁いで子供を産んでみせてごらんなさいな。きっと母親の汚らわしい血を継いで、殿方の篭絡はあなたもさぞかしお得意でしょうね」
「はぁ?」
思った以上に大きな声が出て、アリシアは戸惑った。
自分はアリシアではない、という自覚がある。加えて、相手に強く出て自分の意見を主張するなんて苦手なほうだ。なのにどうしてだろう、このまま黙ってなんかいられないという、沸々とした熱い感情が自分の中に湧き上がってくるのだ。
自分を見下すこんな視線に、屈してなんかやりませんわ!
「お言葉ですけれど、清らかな朝のうちから、そのような品の無い言いようをわたくしの耳に入れないで頂けますかしら? いえ、午前であれ午後であれ、御免こうむりたいものですわね。後妻といえど、あなたはポーレット家の一員であり、わたくしの継母なのですから、礼を欠いた言葉でご自身の品位を落とすような見苦しい行為はやめて頂きたいわ。見苦しいのは、その若作りだけで十分」
直球でド失礼なことを言っているが、アリシアの声は美しく朗々とよく通った。まるで自分の唇が相手を罵倒する術を元々知っているかのように、嫌味な言い方がどんどん出てくる。アリシアは我ながら、この声で悪役のように高らかに笑いでもすれば、きっと堂々として伸びやかな響きとなるだろうと思った。
同時に、アリシアは自分が口にした言葉の内容に驚いていた。自分はアリシアではないのに、目の前の黒髪の女性が、大好きな母亡き後の後妻、継母のカミラだと知っている。この感覚は何なのだろう?
悪口雑言にたじろぎもせず、コホン、と継母は咳払いをしてアリシアを睨んだ。
「口の悪い者から
言い捨ててカミラは部屋を出た。扉が閉まって気配が遠ざかり、ふぅ、とメイドが息を吐く。アリシアはまだ言い足りなかったとばかりに「翼蛇が何よ。あんな辺境の絶滅危惧種、昔はモンスターとして恐れられたらしいけど、意外と人懐っこいらしいじゃない。見つけたら手懐けてペットにして、誰かを脅す時に活躍してもらうわ」とドアに向かって吐き捨てた。
「アリシア様、今日も絶好調ですねぇ」
「ニナ」
さっきメイドの名前を把握したからではない。メイドに釘を刺すための呼びかけが自然とアリシアの口から零れて、再びアリシアは困惑した。自分は確かに知っているのだ。使用人である彼女が田舎から出てきて二年ほどの娘であること。気難しい自分が側仕えの者達に遠慮なく物申していたら、いつの間にかニナ以外の人間がほとんど寄り付かなくなっていること。
どうして? こんな豪華なお屋敷も、メイド姿の使用人も、そんなの全然縁のないただのOLのはずなのに、私はなぜ──。
「お紅茶、淹れ直して参ります」
ニナがそう言ってトレイを手に部屋を出ようとするので、思わずアリシアはもったいないと「えっ、いいわよ、そんなの」と引き留めた。
「あっ、アリシア様⁉」
「えっ⁉」
ニナがとんでもなく悲しそうな顔で自分のほうへ迫ってくるので、アリシアは思わず圧倒されて怯む。
「私には、もうお嬢様に紅茶をお出しするのは許されないということですか⁉ 冷めた紅茶がどれほど失礼に当たるか、礼儀をイチから私に叩き込んでくださったのはお嬢様ですのに!」
「え、えっと……」
「淹れ直させてください!」
「べ、別にいいけど、あの……」
アリシアが返事をするやいなや、ニナは最後まで話を聞かずに「はいっ」と嬉しそうに笑顔を見せた。
「しばらくお待ちくださいませ!」
喜び勇んでニナが部屋を出て、アリシアはため息を吐いた。
「何なの、一体……」
どうやら、アリシアという人物はとっても口が悪くて、そして継母と険悪だけれど、慕ってくるメイドもいるらしい。自分がアリシアだという実感のないまま、令嬢はとりあえずベッドを降りた。これが、彼女にとっての新たな世界で初めての一歩だった。