落ちる──!
浮遊感と言えばいいのか、落下感と表現するべきか。
桐谷優子は反射的に体を強張らせようとして、自分の体の輪郭を認識できないことに驚き、混乱した。真っ暗。無音。思わず叫びたくなるが声もうまく出ない。それどころか、自分の口が動いているのかさえ分からない。うたた寝から目覚めた瞬間、状況がなんにも分からなくて焦る時のように、優子は半ばパニックになりながら何があったかを思い出そうとした。
(えぇえっと! えっとえっと! 仕事行って、今日はちゃんと終電間に合うくらいに退社して、それからコンビニでサラダパスタと唐揚げとアイス買って帰ったよね。食べた後にお風呂めんどいなって思いながらスマホ見てて……あっ、『魔奇あな』のアプリ版のリリース告知があったんだ! やっぱりオタクの皆の予想は侮れないよねぇ、十周年とはいえ突然のコラボカフェと描き下ろしグッズはさすがに気合い入りすぎてて絶対何か続報あるって思ってたもん)
『魔奇あな』──『魔法も奇跡も貴女のために』──は、優子が学生時代にドハマりしたゲームタイトルだ。ジャンルは恋愛シミュレーションファンタジー。最近忙しいせいで新しい作品を深追いできず、自分はオタクを自称していいのだろうかと懐疑的な優子だが、発売から十周年を期に新情報が出てきた馴染みのゲームのことはチェックするのを楽しみにしていた。思考を少し巡らせたことで、そっか、今のこれ、夢だ! と優子は納得し、少しだけ落ち着きを取り戻す。早く目を覚まして、アプリリリース前のプレイヤー登録を済ませて、メイク落として明日の仕事の準備しなきゃ。
『──いいえ、夢ではありません』
思考に対して返ってきた語りかけは、声と呼べるような音の波ではない。だが、優子にははっきりとその内容が伝わる。同時に、さっきは真っ暗だと思ったのに、その語りかけは闇を払ってくれるような何だかまばゆいイメージを伴っていた。落ちていく感覚が和らぐ。
(だ、誰⁉)
『とても難しい質問です。私は、あなたがこれから向かう先ではライザと呼ばれる存在。あなたが元居た世界でも、あなた方は私に様々な名を与えています。神だとか、父だとか、如来だとか』
ライザ、と名乗る相手の語る内容があまりにも突飛で、優子はうまく飲み込めない。
(か、かみさま? っていうか、夢じゃないならここはどこ⁉)
『あまりたくさんの疑問に答える時間はないのです。でも、直接伝えられる機会はそうないでしょうから、できる限りお話いたしましょう。
──あなたは今、世界と世界の狭間にいます。あなたが生まれ育った世界と、そうではない別の世界との狭間』
(狭間? 別の世界⁉)
優子は、声の正体を見据えようとしたが、方向が分からない上に自分の目が開いているのかもうまく感じ取れない。確かなのはライザからの語りかけだけ。
『そうです。別の世界ですが、あなたにはきっと馴染みがあるはず。だからこそ、あなたの魂はこの滅多とない機会に、欠けたピースを埋めるべく嵌まり込んだのです。恐れずに為すべきを為しなさい。必要な時には、使いの者が導くはずです。では』
(えっ、えっ、ちょっと……)
ライザの言葉の余韻が消え、その存在が遠ざかったと感じた瞬間、再び優子の意識は落ちていく感覚に飲み込まれた。どこかに引きずり込まれていくような、でも決して恐ろしいものに捕らわれるのではなく、温かく迎えられているような。
何が起きたのかを全く整理できないまま、やがて優子の思考は途切れた。
感じたのは明るさだった。深く眠っていたアリシアは目を覚まし、小さく「うぅん」と唸りながら体をもぞもぞと動かす。肌に触れるのは、上質で清潔なリネンシーツだ。少し甘さを含んだ紅茶の香りがただよってくる。誰かが自分にかける声が、少し遠慮がちに鼓膜を揺らした。
「お嬢様、おはようございます」
あぁ、朝なのね。カーテンを開けたから、こんなに爽やかな朝日が部屋に差し込んでいるんだ。さっきの、どこかから落っこちるような変な夢は何だったんだろう。不思議な声が聞こえた夢だった。
アリシアは体を起こすが、白いエプロンドレスを身に着けたメイドがベッドティーを載せたトレイを差し出したのに、半覚醒の状態できょとんとしている。
「アリシア様?」
「え?」
赤毛でそばかすの使用人が、令嬢の名前を呼ぶ。だが、ポーレット家の一人娘はぴんときていない様子で数回まばたきを繰り返し、首を傾げた。
──アリシア?
聞き覚えのある響きだ。えっと、何だっけ。人の名前だよね。誰だっけ、アリシアって。
少女はメイドの顔をしげしげと眺め、次いで自室を見回す。手元にある金刺繍の羽毛枕、広い部屋を覆う象牙色の花柄壁紙、豪奢で美しいペルシャ絨毯、猫足のドレッサーや机、椅子、そして自分がいる天蓋付きのベッド。
「……ここどこ……?」
「どこって、お嬢様のお部屋です」
戸惑う少女に向かってメイドは愛想よく答えるが、アリシアは困惑するばかりだ。お嬢様? 誰が? アリシアはぺち、と自分の頬に両手を当てて、それから自らのプラチナブロンドの豊かな長い髪を指先でくしけずった。おかしい、と確信する。血糖値スパイクってほどじゃないけど昨日の私はお腹いっぱい食べちゃって、メイクも落とさないで寝ちゃったのよ⁉ こんなにすべすべ肌なわけないし、ここまで髪色抜いたことない!
「アリシア様……?」
「ち、違うの! 私は──」
訝しげな表情を見せるメイドへ、実は自分は別人なのだとアリシアは説明しようとする。