――俺たちはただ、海を愛していた。
流れる波の音。潮風のにおい。光を反射させる水面。
遮るもののない広大な景色は俺たちにとって日常で、特別なものだった。
「おーい! カイリ! 波の様子はどうだー?」
「大丈夫っす! ええ感じに進んどると思います!」
「そうか! んじゃそのまま頼むぜ」
「はーい!」
波の行方。眩しい陽が差す太陽を見つめて、俺は見張り台から周囲を見回す。
周囲に大きな岩がないか、他の船が近付いていないか、こちらを狙う変な鳥がいないかなど、存外見張るものは多い。
(船に乗るまではホンマに苦労したけど、やっぱ楽しーわぁー)
昔から船に乗ることを夢見ていた俺は、港に漁船が来るたびに手伝いを申し出て、知識と体力をつけようと必死になっていた。もちろん最初は相手にしてくれなかったけど、根気よく頼めば乗せてくれることも多くなった。ある程度船に慣れれば、他所の船に乗せてくれと懇願して回っていたところ、この船の船長に拾われたのだ。
それからはこの船の下働きとして働く毎日。知識を買われて航海士の真似事までさせてもらえるのは、嬉しい誤算だった。
「それから俺はたっくさん旅をした。後輩ができた時は舞い上がって先輩らに怒られたわー」
海を渡り、たくさんの街を見てきて、たくさんの人と関わってきた。それは思っていた以上に苦しくて、でも予想以上に楽しくて。
ずっとそんな毎日が続くと思っていた。その為には努力を惜しまないと意気込んでいた。
――そんな日々が一変したのは、俺が正式に航海士として認められ、初めて任された航路を渡っていた時だった。
「俺は知らんかったんや。あの場所があんなに難しい航路やったなんて」
前も見えないほどの猛吹雪に船は舵を取るのも精一杯で、予定していた航路からどんどん外れて行ってしまった。
――気がつけば、”神域” に入り込んでいた。
「神様っちゅーのはホンマにいたんやな。”神域”に勝手に入り込んだ俺らは、見事に神様の怒りに触れてもうてこのザマ。船は凍りつき、俺ら人間も全員生きたまま凍らされてもうたわ」
「神様……海の神か」
「まあ勝手に入ってもうた上、勝手に神殿に入って色んなもん盗ったんは俺らやし自業自得やけどな!」
「心配を返せ」
「ええ〜、兄さん心配してくれたん〜? 嬉しいわぁ〜」
「うわっ、近寄るな」
「ひどない???」
あはは、と笑い飛ばすカイリ。その顔に反省の色はない。
「まあ、俺らもそれだけ生きるのに必死やったってことやわ」
そうして凍らされた俺たちは、そのまま十年、二十年と氷のまま世界から隔離された場所で終わることのない生をただただ過ごしていた。――そんな時だった。
急に視界にヒビが入ったかと思えば、体を縛っていた氷が砕け散った。
「魔法が解けたんかと思ったけど、そうやないことはすぐにわかったわ」
魔法を解いたらしいフードの集団は、俺らに気づかず勝手に船に荷物を乗せて船を海へと解き放った。何にも知らない俺たちはただ潮に流され、舵に触れることも許されず海を漂うことになった。
自由に動かせる体。考える頭もちゃんと動くし、潮風を感じることもできる。――けれど、こんなされるがままの航海なんて、望んだものとは全く違う。船から降りることもできず、荒波に砕ける船を助けることもできない。ポストが折れた時、自分たちに依代があることを知った。依代が壊れると、それに魂が入り込んでいる自分たちも消滅してしまうということも、数人の犠牲の後に知ったことだ。
だが、それを知ったところで触れられない自分たちにはできることはない。船長の依代である旗が飛ばされた時も、自分たちは見ている他何もできなかった。
そこにいるのにまるで存在していないかのような自分の存在に、何度心が折れそうになったのかわからない。
行く末を見ているだけしかできない俺たちは、気がつけばこの港に辿り着いていたのだ。
* * *
「海の神様に何かがあったのか、それとも単に遊ばれとるだけなんかはわからんけど、中途半端に魔法解くんやったらちゃんと解いてほしかったわー。あ、でも逆にちゃんと解かれたら俺ら死ぬんかな? まあ今も変わらんけどな!」
「そうか」
「あー、もうそない深刻な顔せんでや〜。俺、こう見えても案外図太いんやで? それに、先輩らは気にすんなって言ってくれとるしな」
「会話ができるのか」
「あれ? 兄さんらには聞こえてへんの?」
カイリの問いにサイモンは頷く。「へぇ、それは新発見やわ!」と声をあげる彼は、話の重さとは裏腹に楽しそうに笑みを浮かべている。
(笑い話にできるくらい軽い話じゃないはずなのにな)
本人の言う通り、彼は結構強いらしい。
「ま、今はご主人サマのお陰でこうして兄さんらと話できとるし? ケーヤクは面倒やけど、相手がアンタらやったら悪いようにはせぇへんやろうしな」
「契約?」
「お、知らん?」
ワクワクした顔でいうカイリに、サイモンは心底嫌そうな顔をした。……コイツに言われると、なんだか腹立たしく思うのは何故だろうか。
サイモンはにやけた顔をするカイリの顔を掴むと、話すように促した。「人使い荒いなぁ」と呟くカイリの声を無視すれば、彼は渋々話しを始めた。
「ケーヤクいうてもそない面倒なもんちゃうで? ただ、ご主人は俺の依代の箱を開けてくれたやろ。つまり俺を解放してくれた人っちゅーことやねん。んで、その代わりに俺はご主人が望むことを解放してくれた分、せんとあかん」
「そうやないと、ケーヤク違反っちゅーことで俺もご主人も罰を受けることになってまう」というカイリ。
(つまりなんだ? ギブ・アンド・テイクってことか?)
それが契約としてカイリの体に刻まれている。幽霊は自由そうだと思っていたが、存外縛りの多い存在なのかもしれない。
「ちなみに、俺の依代が壊れてもケーヤク違反になるでっ☆」
「それを早く言え!」
(さっきアリアを助けるために部屋壊しただろ!)
勢いよく立ち上がり、さっき出てきたところを覗き込んだ。瓦礫の奥に見える箱の存在にほっと息を吐く。「俺がこうしておるんやから大丈夫やってー」と笑うカイリに、サイモンはゲンコツを落とした。そういうことはもっと早く言え。
「持ってきた方がいいか?」
「いや、大丈夫だろ」
グレアの問いに、サイモンは首を振る。瓦礫の下に埋まっているのなら好都合だ。万一にも壊れないように依代の箱に結界を貼り、サイモンはカイリに向かい合った。
「ダメ元で聞くが、その契約を俺に移すことは可能か?」
「ムリやな。ご主人サマの枠は一人でいっぱいいっぱいや」
(だろうな)
よりにもよって幽霊が苦手なアリアにそんなものがついてしまうとは。完全に予想外だ。
サイモンは大きく息を吐く。とりあえず、アリアが目を覚ますまで待つしかなさそうだ。暗くなる空に目を向けつつ、サイモンはグレアと共に船内へと向かう。寝床になるような場所が中にしかないのだから、仕方がない。
白い人影をカイリに追い払ってもらいながら、比較的綺麗な部屋にアリアを寝かせ、サイモンとグレアも束の間の休息を取ることにした。
小一時間ほどで目を覚ましたアリアは、自分の状況を理解すると大きく項垂れた。
「本当にすみません……せっかく任せてくれたのに……」
「気にしなくていい。アリアは十分に役目を果たしてくれたよ」
落ち込むアリアの頭をサイモンは優しく撫でる。しかし、アリアは落ち込んだまま顔を上げる様子はない。
(本当に気にしなくていいのに)
気にしいなアリアにどんな言葉をかけてやればいいかと悩んでいれば、勢いよく目の前を通っていく存在が見えた。
「ちわーっす! ご主人が起きた気配がしたんで、会いに来たでー!」
「ヒイッ!!!??」
「お前な……もう少しまともに入って来れないのか」
「ええやんええやん! 俺やって仲間やのに、なーぜか部屋に入れてもらえなかったんやし! 俺やってご主人に一番に会いたかったんやでっ」
「え、え?」
「はあ……とりあえず先に説明するから」
状況を理解できず目を回すアリアに、サイモンは今の状況を説明した。
アリアは話を聞くと、顔を真っ青にした。
「ほ、本当にすみません……」
「いやいや。むしろ彼らの存在がわかったんだし、良かったよ。それにカイリも協力してくれるみたいだしな」
「せやでー! 存分に頼ってや」
「ヒッ!」
「近いぞ、馬鹿」
アリアは幽霊が苦手なんだから、と告げれば「そうなん?」と首を傾げるカイリ。コイツに怖いものなんてないんじゃないかと思えてくる。
(とはいえ、契約を移せない以上、アリアには慣れてもらわないと困る)
このままカイリを引き連れていくわけにもいかないし、何が契約違反としてみなされるのかもわからない。そんな危険な状況にアリアを長時間晒すわけにはいかない。
アリアはしばらく困惑したように目を回していたが、状況を飲み込めたのかサイモンとカイリを交互に見つめた。
「じ、事情はわかりました。その、契約の内容ってなんでもいいんですか?」
「どういうこと?」
「あ、えっと私が本当に望んだことしかできないとか、私にしか効果のないことだけなのかなって……」
「いやいや、そんなことあらへんで! ご主人が口にしたことやったら俺はなんでも受けられんで。まあ、金持ちになりたいとか時間を戻したいとかそういうのは聞けへんねんけど……」
「! そうなんですね」
アリアはカイリの言葉に大きく息を吐き出すと、サイモンを見た。その目は自分が何をすべきか問いかけてきている。
(なるほどな)
――カイリの言う契約には、大きな穴がある。
アリアが口にさえすれば、それがサイモンからの指示だったとしても条件が成立するということだ。
「カイリ、お前意外と使えるんだな」
「兄さん俺のこと嫌いなん!?」
どちらかといえば苦手な部類ではあるが、正直どっちでもいい。
(幽体の使い道は十二分にあるだろうが、なにより今の海の神に接触した人間だ)
彼らが迷い込んだのは、きっとサイモンたちが海の神に会った時よりも随分後の話だ。今もそこにいる確証はないが、それでも聞いておいて損はないだろう。
「カイリ。海の神の神域がどこにあるかわかるか?」
「ん? もちろん、覚えとるけど」
「それじゃあ、海の神のところに案内してくれ」
「はあ!?」
「いややわ怖い!」と叫ぶカイリに、サイモンは「男の子だろ」と返す。
「男の子でも怖いもんは怖いの!」
「できるって言ったのはお前の方だろ。それに、そもそも俺たちの目的はそれなんだ。案内してくれないと困る」
「うっ……そらそうかもしれんけど……!」
「男に二言はないだろ?」
サイモンの言葉にうぐぐぐ、とカイリが唸る。視線で無理だと訴えてくるが、知ったことじゃない。カイリは唸りながら宙をのたうち回り始める。声だけじゃなく、行動までうるさいやつだ。
「ご主人のご主人めっちゃ怖いわぁ〜」とアリアに泣きつくカイリの首根っこを掴み、見下ろす。涙目になっている彼はようやく観念したのか大きな声で唸りながら「しゃーないなぁ」と呟いた。
「あーもう! こうなったら完璧にやったるわ! 案内し尽くしたるから覚悟せぇよ!」
「助かる」
「うわああああッ! ここで兄さんのデレとかずるいやろぉおお〜ッ!!」
意味不明な言葉を発し、のたうち回るカイリ。
その様子をサイモンたちは遠目になって見つめる。……いい加減落ち着いてくれないだろうか。
カイリの様子に心配そうにしているアリアに、サイモンは耳打ちをする。
「アリア、頼めるか?」
「あ、はいっ」
アリアは小さく頷くと、ベッドの上で正座をする。どうしたらいいんだろう、と迷っていた彼女に見兼ねたカイリが「そのまんま呟いたったええよ」と助言する。確かに、幽霊と契約を結ぶなんてこと、生きていてそうあることじゃない。
「えっと、『カイリさん、私たちを海の神の元に案内してください』」
「はー……『ええで』」
瞬間、カイリとアリアが光りに包まれる。
光が収まり、アリアの腕に白いリングが付く。同時にカイリの首に同じ色の首輪が現れ、初めて見る事象にサイモンは興味深くその光景を見つめた。
「ハイハイ、これで契約はおしまいやでー! いやー、助かったわー!」
「おい。これは大丈夫なのか?」
「それはちゃんとケーヤクが成立した証みたいなモンやから大丈夫やで。体にも害はあらへんと思うし! 知らんけど!」
「は?」
「ちょっ、怖い怖い! 睨まんでやぁ!」
涙目になってアリアを盾にするカイリ。でかい体を小さめて怯える姿は、幽霊とは全く思えない。
(いい歳した男が何をやってるんだ)
サイモンは涙目になるカイリを横目に、サイモンは外を見に行った。空が僅かに白んできている。そろそろ陽が昇るのだろう。動くには都合がいい。
「早速だがカイリ、案内してくれるか?」
「あー、すまん! 俺ら夜しか動けへんねん!」
「はあ?」
突然何を言い出すんだとカイリを見れば、「俺ら幽霊やから日に当たると溶けてまうねんな!」と言われる。なんでそんな大切なことを今になって言うんだ、こいつは。
サイモンの呆れた顔にカイリがびくりと肩を震わせる。徐々に小さくなるカイリに、最初は怯えていたアリアもだんだんと慣れてきたのか恐る恐る頭を撫でている。完全に扱いがペットだ。
とりあえず、案内役が動けないのでは話にならない。夜に動けるように体力を残しておいた方がいいだろう。
「アリア、グレア。俺は朝飯を買ってくるが、何か欲しいものはないか?」
「えっ、サイモンさん行っちゃうんですか?」
「うん? アリアが行ってくれるのか? まだゾンビたちいるかもしれないぞ」
「えっ」
サッとアリアの顔から血の気が引いていく。その反応に慌てて「冗談だぞ?」と告げれば、カイリが「あーあー! 兄さんがご主人サマ泣かせよったー」と茶化してくる。一緒に街まで連れて行って、太陽で溶かしてやろうか。
サイモンはアリアを宥め終え、街へと降りていく。グレアが一緒に行った方がいいかと聞いてきたが、サイモンは首を横に振った。やりたいこともあったのでちょうどいい。
サイモンは幽霊船を降りると、街に向かった。
街に行ったサイモンがパンの入った袋を片手に帰ってきた。彼曰く、以前シアンからおすすめされたことのあるパン屋さんに行ってきたらしい。「ゾンビを叩き出しながらパン売ってて、びっくりしたぞ」と言うサイモンに、アリアは心底自分がいかなくてよかったと思った。
出来立てのサンドイッチを受け取りながら、アリアはサイモンに自分の分を強請るカイリを見る。最初は幽霊であるということに恐怖を感じていたが、こうも人間らしい姿を見せられると怖がっている自分がおかしいような気がしてくる。
「このあとどうするんですか?」
「そうだな。夜まで動けないのは誤算だが、トトからの連絡がないからな……夜まで時間を潰して夜に動けるようにしようかと思ってるが、二人は何かしておきたいことはないか?」
「俺はねーな」
「わ、私も特にないですね」
こんなに怖い街でやりたいことなんて特にない。
(そもそもこんなところ、早く逃げたいくらいだけど……)
まさか自分が幽霊の宿主になるとは思ってもいなかった。アリアは不貞腐れるカイリを見る。
サイモンを待っている間、彼はアリアやグレアと他愛もない話をしてくれている。「ご主人サマって何歳なん?」「ご主人の赤毛って綺麗よなー、ええなー。俺赤すぎて怖がられてまうのに」と話が尽きない。話が上手いのだろう。グレアにも「君、もしかして獣人!? ほんまに!? 俺初めて見たわー!」と臆せず話しかけていた。初めて獣人を見る人は怖がることが多いのに。
(それも、たくさん旅をしてきたからなのかな)
自分はまだそういうのは尻込みしてしまうので、彼の懐の深さは羨ましい。
アリアたちは今後の話をすると、それぞれ休養をとることにした。