「これがクスリの正体だ」
船長が透明な容器を揺すれば、水面が揺れる。透明なシリンダーの中に入っているのは、鮮やかな緑色の液体。どこか妖艶な色をしているそれは、じっと見つめていると妙に惹き付けられる。
(すごいな……)
数十年前、多少齧った程度ではあるが、サイモンも薬品づくりには多少の知識がある。だが、こんなに綺麗なものは見たことがない。人を廃人に変えるというのだから、もっと禍々しい物が出て来ると思っていたのに、予想外だ。
(何を混ぜたらこんな綺麗になるんだ?)
調合方法は? 効能は? 道具は何を使っているのか?
気になることが多すぎる。
「わぁ……なんか綺麗ですね」
「ああ、俺も初めて見た」
「サイモンさんもですか?」
「珍しいんですね」と呟くアリアに、サイモンは頷く。じっと視線が釘付けになる。隣にいたアリアがほぅっと息を吐いた。
「これ……どんな味がするんでしょう」
「……え?」
小さく呟く彼女の言葉がどこか遠くに聞こえる。見入っていたサイモンは反応が遅れてしまった。
(今、なんて――)
霧がかった頭で振り返る。一瞬状況が理解が出来なかったが、アリアの言葉の意味に気が付き、サイモンの脳が警鐘を鳴らす。しかし、体は上手く動かない。思考が、回転しない。まるで、現実と自身の間に薄いベールをかけられたかのようで――。
パシッ。
肌を叩く音が響く。その瞬間、靄のかかった思考が一気に晴れたような気がした。
反射的に音のした方へと振り返れば、グレアとアリアの手がマスターに掴まれている。驚いた顔をする二人は、自分の手が無意識に伸びていたことに心底驚いているようだった。
「あんまり見つめない方がいい。囚われるぞ」
「っ、すみません」
「わ、悪ぃ……」
青い顔をした二人に、サイモンは心底驚いた。
(もしかして、催眠か――!?)
勢いよく振り返る。緑色の液体は未だ透明な瓶の中に入っており、見た目もさっきと変わった様子はない。さっきのような魅惑的な感覚も、今は感じない。だがさっきは確かに、サイモンたちの思考を捕らえていた。現実との間に境目を入れ、魅了していた。
(魔法か、はたまたそういう混ぜ物もでも入っているのか)
どちらにせよ、もしそれが本当なら街にクスリが一気に出回った理由もわかる。船長はサイモンの反応にしたり顔で持っていたシリンダーを揺らした。
「ってなわけでな。持ち歩くことも出来ねーもんだから、わざわざここまで来てもらったってわけだ」
「なるほどな。……船長達は平気なのか?」
「見慣れりゃあ案外どうとでもなる。なあ?」
船長の問いかけに、船員たちが元気に応える。
(慣れれば大丈夫なのか)
本当に不思議なクスリだ。余計に製法が気になる。船長に「それ、見てもいいか?」と問えば「貴重なんだから割るんじゃねけェぞ」と手渡された。覗き込んでくるアリアとシアンの目を押し退けて、小瓶を観察する。さっきのことがあったばかりだ。また囚われても困る。
(でもやっぱり、変な物は入っているようには見えないな)
サイモンは目に鑑定魔法をかけると、小瓶をまじまじと見つめる。
(主に使われているのは、一般的に使われている薬草だけ)
街の人たちがあんなふうになるような毒草の類は一つも入っていない。普通に飲めばただの滋養強壮剤で、体はむしろ元気になるはずだ。
「……本当にこれがそうなのか?」
「ああ。間違いない。若いモンから直々に俺がひったくったもんだ」
「ひったくったって……」
もう少し言い方があっただろう。がははは、と豪快に笑う船長は、悪びれもなく胸を張っている。否、悪いとは思っていないのだろう。実際こうしてクスリを拝むことができているのは、船長のその行動があってこそだ。
とりあえず、クスリ自体から情報は得られなさそうだ。容器を船長に返却し、元にあった場所に戻してもらう。ここまで来て得られたものは、クスリの現物の存在と中身の無害性。それと今の現状が全く釣り合っていないのが気になって仕方がない。
「それにしても、祝福が無くなっただけでこんなことになるなんて……」
「ずっと当たり前にあったもんが急に無くなるってェのは、結構な不安要素になるんだよ。それに頼ってきた人間なら、尚更なんだろ」
「そういうもんか?」
「そういうもんなんだろ」
「俺たちァわからねェが、街の惨状を見ればわかる」と口にする船長に、確かにとサイモンも頷いた。だが、その意味を理解するのはやはり難しいと感じる。
サイモン自身、今のところ祝福が切れたことで困ったことはない。確かに、祝福がなくなったことで魔法の調整は揺らいだが、それも一時のこと。今では出力こそ出せないものの、安定して魔法を使うことができる。元々制約が多かったものだ。今更無くなったところで変わらない。
(見た目も変化しているんだろうが……実感はないしな)
「ま、誰もが俺らのように考えられるわけじゃねーっつーこった。理解できなくてトーゼン。だから、あんまり考えすぎんじゃねェぞ」
「……そうだな」
船長の言葉にサイモンは頷く。考えても仕方ないことは世の中ごまんとあるのだ。
(それよりも、街がこんな状況になって上が何も対策を取っていないのが気になる)
夜はゾンビになってしまうから警備が置けないのは理解できるが、昼間の巡回もなかった気がする。何も考えていないのか、それとも考えて試行したのに全く効果がなかったのか。
「上は何もしていないのか? こんな状況を見逃すほど能無しじゃないだろう」
「そりゃァ、そうなんだが」
「?」
言い淀む船長に、サイモンが首を傾げればドンッと目の前にジョッキが置かれた。置いたのはマスターだった。
「どうぞ」とぶっきらぼうに言われ、ありがたく受け取る。アリアたちの分も手渡した彼は、船長の隣の席に腰を下ろした。
「祝福がなくなってから、慌ててんのはむしろ上のほうだ。祝福がなんでもな治せるっつーことに目をつけて、色々悪どいことだってやってたんだ。それができなくなった今、下に構ってる余裕なんてないんだろうよ。それに、幽霊船の事もあるしな」
「幽霊船……!」
アリアが怯えたように声を上げる。名前を聞くだけでも彼女にとっては恐ろしいことらしい。抱きしめられたミツキが苦しそうにしているのを見て、サイモンはどうどうとアリアの背中を撫でてやる。
泣きそうな彼女には申し訳ないが、サイモンは彼らのした調査結果を知りたい。サイモンはマスターと船長に幽霊船のことについて尋ねた。アリアの忌々しそうな視線がこちらを見てくるが、頬笑み返すことでその場を収めた。
「幽霊船の調査って言ってもなァ。シー坊の案内で行ってきたんだろ?」
「行ったが……なんで知ってるんだ?」
「シー坊に情報提供したのは俺たちだぜ? しかも今日お前たちを見つけた。一緒に行ってきたと思うのは普通だろ?」
「なるほどな」
相変わらず目敏い上に抜け目のない人だ。さすがデカい船の船長をしているだけある。
(そういや、港に彼らの船がなかったような気がするが……)
まあいいか。今は幽霊船の話を聞きたい。
「で、どうだった?」と聞かれ、サイモンは「何もなかった」と答える。その返答は彼の予想内だったのか、「だよなァ」と呟き、大きく落胆の息を吐く。サイモンが逆に問いかけたものの、返ってきたのはシアンから聞いていた内容とほとんど変わりがなかった。
数ヶ月前、突然船が出現したこと。中には誰もおらず、人も物もなかったこと。クスリがはやり出したのと同時期だったこと。
(幽霊船とクスリの出処はやっぱり関係があるのか?)
それとも、ただの偶然なのか。現状では想像しかできない。
幽霊船も情報なし、クスリも情報なし。完全にお手上げの状態でこれ以上話すこともなく、サイモンたちは船長たちに言われるがまま休むことにした。宿に戻ることも考えたが、さすがにあの街をもう一度歩く気にはなれない。
広間の一角を借り、アリアを守るようにサイモンとグレアで挟んで座る。ベッドなんて良いものはないので、もらった毛布を体に巻きつけて座ったまま寝るしかない。一度ミツキを戻してやろうかとも考えたが、今日一日のアリアの様子を見て、ミツキ自身が戻すのはもう少し先でいいと言ってくれた。ありがたい。褒美はグレードアップしておこう。
みんなが寝静まる中、サイモンはどうにも吹っ切れない気分のままでいた。
何一つ解決しないこの状況に、首の裏がチリチリと焼けていくような感覚がするのだ。何か大きなものを見落としているような、嵐の前の静けさを目にしている時のような感覚。
「ん……サイモンさん?」
「アリア……悪い、起こしたか?」
「いえ、全然」
首を振るアリア。「寝れないんですか?」と問われ、サイモンは首を振る。
「いや。これからどうしようかと思ってな」
「ああ……」
アリアは目を擦りながら頷く。彼女の腕の中では、ミツキが気持ちよさそうに寝入っていた。獣人は性質で人より眠りが浅いと聞いたことがあるが、グレアもミツキも起きる様子はない。迷信だったのかと考えながら、サイモンは思考を戻した。
幽霊船もゾンビ化のことも、解決に繋がりそうな情報がない。アリアとグレアをつれている以上、下手に動くのはやめておきたいのだが……今回はそうもいかないかもしれない。
(できるだけ、二人を危険な目に合わせたくないんだが……)
「なんか色々と情報が出た割に、私たちにできることってなさそうですよね」
「……ああ」
「街の人たち……怪我とかしていないと良いんですけど」
アリアの小さな願いにサイモンは無言で応える。彼女もどうやらサイモンと同じ思いらしい。小さな手が、サイモンの手と重なる。アリアが赤く火照った頬に視線を逸らす。
「あ、あんまり考え込まないでくださいっ。その……サイモンさんが元気がないと調子が狂ってしまいます」
「アリア……」
「そ、それにっ! もしかしたら、私たちには何もできないかもしれませんけど……でもきっとやれることはあるかもしれませんし!」
真っ赤な顔をしながら言うアリア。握った手は少しだけ震えており、サイモンはフッと笑みをこぼした。
(緊張してるな)
自分だって苦手分野で怖い思いをしているのに、アリアはサイモンに調査を中断するように言わない。それどこか、街の人の心配をして一緒にできることがあるかもしれないと告げる。
(本当に、良い子だな)
自分には勿体無いくらいの弟子だと思う。アリアの手を握り返し、彼女の頭を撫でてやる。真っ赤な顔がより赤く染まった。
「そうだな。もう少し頑張ってみるか。アリアも協力してくれるか?」
「! は、はい! もちろんです!」
「そうか。助かる」
「もう明日も遅い。早く寝よう」とアリアに告げ、サイモンは手を離す。アリアはこくりと頷くと「おやすみなさい」と呟いた。
――聞き込みができるのは昼の間だけ。
夜は街を歩くことすらできないし、ゾンビの人たちはシアン曰く、徘徊していた夜の記憶がないらしい。だが、もしかしたら全員が全員、そうなっているわけではないのかも知れない。
幽霊船と関係があるのならそっちの線もたどりたい。が、それは要注意だろう。
(まずは昼間に街の人に話を聞こう)
本来の目的である水の神の鎮静はもう少し後になりそうだが、致し方ない。
明日から忙しなくなるだろう。そのためには、動ける体を用意しておかなければ。
サイモンはゆっくりと目を閉じ、壁に身を預けた。休息を取るのも、立派な『今やれること』だ。