――幽霊船。そんなものがこの世の中にあるなんて、未だに信じたくない。
「よし、行くぞ」
「……」
サイモンの魔法で平坦になった岩場を見ながら、アリアは涙目で兎のミツキを抱き締める。青い瞳が心配そうに覗き込んでくる。可愛らしい風貌に癒しを感じるものの、目の前に立ちはだかるものが完全に安心させてはくれない。
(うう……)
怖い。すごく。
幼い頃からそういった類のものは苦手で、ずっと避けてきた。お陰で耐性もつかず今を向かえることになってしまったのだけれど、そんなことを公開している間もないくらいには、自分の中で限界が近づいていた。
(しっかりしなさい、アリア)
ぎゅっと目を瞑って自身を叱咤する。サイモンとグレアには気づかれているらしいが、少年――シアンには未だバレていない。自分よりも小さく、年下である彼は孤児院に居た弟たちを思い出させる。
(怖がっていないで、何かあったら守ってあげないといけないんだからっ)
「あ」
「ひぃっ!」
「? そういやねーちゃん、なんでうさぎ抱えてんの?」
突然立ち止まるシアンに、小さく悲鳴を上げる。自分の情けなさにがくりと項垂れながら、アリアはにへらと笑った。
「あ、えっとこれはサイモンさんの召喚獣で」
「へぇ。で、なんでねーちゃんが抱えてんの?」
「ええっと……」
思ったよりも踏み込んでくるシアンに、アリアは苦笑いを浮かべる。
(……どうしよう)
ミツキは明らかにサイモンがアリアを気遣って出してくれた子だ。名前以外の能力なんかはよくわからないし、下手を言ってこれ以上の詮索をされても困る。きゅうっと抱きしめていれば、それに気づいたサイモンがシアンの頭を小突いた。「いてっ」と声を上げる彼に、アリアは思考の海から引き上げられる。
「何すんだよオッサン!」
「うるさい。ミツキは小動物で移動が大変だから、アリアに運んでもらっているんだ」
「サイモンさん……」
「それに、女の子とうさぎのタッグは目の保養だろう」
「たしかに!」
「サイモンさん……?」
一瞬ときめいた自分が馬鹿だった。アリアは頷き合う二人を見つめ、ひくりと頬を引き攣らせる。……いろいろ言いたいことはあるけど、助けてくれた以上、文句を言うのも憚られる。
(私が怖がりなばかりに……!)
よし、この機会に怖がりは卒業しよう。慣れればきっと幽霊だって怖くなくなる。そもそも、おとぎ話の世界にしか住んでいないような彼等だ。現実世界で生きる自分たちに干渉出来るわけがない。そして克服した暁には、変なことを言うサイモンに一発入れよう。そうしよう。
そう決意を新たにしていれば、いつの間にか船の前にまで来ていた。
「随分古いな」
「うええ、ボロすぎ……」
「これ、入れるのか?」
「どうだろうな。とりあえず足元に気を付けて進むしかないだろ」
ん、と差し出されるサイモンの手。アリアはその手を見つめるとキョトンと首を傾げた。「手が塞がってるんだ。転んだら大惨事だろ」と言う彼に、アリアはハッとして手を重ねた。反対の手には少年の手が繋がれている。そのまま風の魔法で浮き上がったアリアたちはゆっくりと甲板に降り立つ。グレアは持ち前の脚力で飛び上がると、甲板に派手な音を立てて着地した。ぐらりと甲板が揺れ、アリアは咄嗟にサイモンに抱き着いた。いくつかの木片が飛び、穴の開いていた場所に外れた木がボロボロと落ちて行く。
「グレア、もう少し静かに着地出来なかったのか?」
「無茶言うな。この高さだぞ」
「それもそうか」
納得が早い。サイモンは地面を覗き込むと、ウンウンと頷いている。アリアも地面を覗き込んで、その高さにビクリと肩を揺らした。
(落ちたら痛そう……)
アリアの身長を優に超える高さは、落ちたらひとたまりもなさそうだ。アリアはヒクリと頬を引き攣らせると、視線を船の上へと向けた。
折れた柱が甲板に突き刺さり、床を抜いている。帆だった布は破け、無残な姿になっていた。甲板には帆の他に網のようなものや、樽などが転がり落ちている。床は潮風に当てられて軋んでおり、今にも折れてしまいそうだ。いかにもな雰囲気にアリアはぎゅうっと眉を寄せる。その傍らでシアンが「わあ……!」と歓声を上げていた。彼の心情が理解できない。
サイモンの指が船の壁面を撫でる。「うっ」と声を上げたのを聞くに、ベタベタしているのだろう。マントで拭くサイモンに、アリアは眉を寄せた。
(洗濯したばっかりなのに)
サイモンは意外とこういうところで雑さを見せて来る。外ではしっかりしているのに、自分の部屋は汚い、みたいな人だ。
「人の気配はないな。人のいた痕跡はあるが、足跡を見るに船長の調査班だろうな」
「? そくせき?」
「足跡のことだ。こういうところだと結構見えるだろ、ほら」
「へぇ。オッサン、そんなこともわかんのかよ」
「オッサン呼びをやめたらもっと教えてやるぞ」
「んじゃいいや」
サイモンとシアンのやり取りを聞きながら、アリアはバクバクと響く心音をどうにか収めようと必死になっていた。
(大丈夫大丈夫大丈夫……)
いかにもな雰囲気に呑まれそうになる度、何度も心の中で呟く。サイモンとシアンが進むのを見つつ、アリアもゆっくりと足を進めて行った。ミツキが心配そうにひくひくと鼻を動かしているのが、何よりの癒しである。
船内へ入るための扉は潮のせいでくっ付いてしまっているようで、アリアたちは仕方なく柱を伝って甲板下へと向かうことにした。半ば滑るようにして降りるサイモンとシアン、グレアに続いて、アリアもゆっくりと降りて行く。シアンは意外と動けるようで、サイモンに褒められていた。本人曰く「盗みをした日には追いかけられるから、動けるようになった」とのこと。サイモンが複雑な顔をする気持ちが、アリアにはよくわかる。
(でも、そうしないと生きられなかったんだもんね)
仕方ないといえば、そうなのかもしれない。でもやはり盗みは良くないだろう。複雑な心境でシアンを見つめていれば「い、今はやってねーから! 本当だぞ!?」と声を上げる。あまりの必死さに、何だか自分の方が悪いことをしている気分になってくる。
「なあ。それよりなんか……変な臭いしねぇか?」
「えっ」
「なんつーか、焦げ臭いっつーか」
グレアの言葉に、アリアは首を傾げる。すんと鼻を鳴らしてみるが、グレアの言う〝焦げ臭さ〟は感じられなかった。それはサイモンたちも同じの様で、「特には」と首を振っている。ふとミツキを見れば、こてんと首を傾げている。特にグレアの言う匂いは感じていないらしい。
(オオカミは特別嗅覚がいいんだっけ)
ミツキがわからないなら、きっとその臭いはグレアだけが感じ取れる微々たるものなのだろう。体調を崩すほどではないということで、四人と一匹は船内を進むことにした。
暗い船内にサイモンとアリアが各々魔法で明かりをつける。珍しい光魔法ではあるが、これくらいならアリアでも出来る。
(暇なときにトトさんに聞いておいてよかった)
ほっと胸を撫で下ろしつつ、アリアは周囲を見回した。
船内は特に不思議なものはなく、見回す限り普通の廊下だった。所々壊れてしまってはいるものの、足元に気を付けさえすれば問題はない。部屋を覗いていくサイモンに合せて、アリアも中を覗き見る。キッチンや食糧庫、武器の置いてある倉庫や船員用の寝室など、特に変な部屋もない。
「特に異常はなさそうだな」
「ちぇー。ユーレイ船だっつーし、もっととんでもねーもんとかあるかもって期待してたんだけどなぁ」
「とんでもないものって?」
「そりゃあ、血だまりとか骸骨とか?」
「がいっ……!」
(そんな物っ、絶対に出なくていいしッ!!)
アリアはサァっと引いていく血の気を感じる。自分より幼いくせに、シアンの言うものは刺激が強すぎる。
「そろそろ進むぞー」というサイモンの言葉に、アリアは涙目になりながらもついて行く。サイモン一行は、より深い所へと向かった。
――結果は、何も出てこなかった。
「うーん。変なところもないし、普通の難破船じゃないか?」
「ええッ!?」
「そんなに驚かれても」
船から出たアリアたちは、平坦になった岩場の上で首を傾げていた。
船内に不自然なところはなく、人間や魔物が居る様子もない。気になるのはグレアの言っていた焦げ臭いにおいだが、それに関しては古くなった塗料などのにおいが混ざり合ってそういったものになったのでは、という結論に至った。グレアが居るのを考えると、調査班が入った時点で食料や腐ったものがなかったことは幸いしたと言える。
「でも怪我人が出るって!」
「俺たちは五体満足なんだが」
「う゛っ」
食いつくシアンに、サイモンが呟く。――そう。唯一の幽霊疑惑である〝怪我〟。それがアリア達全員に見られなかったのだ。
(シアンくんからしたら気落ちするよね……)
私はそれで全然いいんだけど! 全く、問題はないのだけれど!
「そいつらの不注意か、気づかなかったための不運の事故としか言えないな」と結論付けるサイモンに、記者として入った彼は期待外れにがっくりと肩を落とした。悲壮感漂うその背中に何とか声をかけてやりたい気持ちになりつつも、適切な言葉が浮かばないまま、アリアは彼の背中を眺めることしかできなかった。
アリアたちが幽霊船探索を終え、外に出ると空は既に夕暮れに染まっていた。
落ち込むシアンをせめてもと食事に誘い、四人で食事をすることにした。シアンのおすすめの店に入り、メニューを見つめる。旅をしているからか、干し肉やパンがメインの生活の中、シマリスの街では海が近いために魚介と麺類が豊富だ。アリアでも見たことのないものが並んでいるメニューは、見ているだけでも興味がそそられる。魚介の入ったパスタを頼むアリアの横で、サイモンがパエリアを、グレアが肉と魚介の盛り合わせを頼む。シアンは悩んだ末、アリアと同じ魚介パスタにしたらしい。副菜のサラダをオイル抜きで頼み、それをミツキに差し出した。
(外食なんて、どれくらいぶりだっけ)
ドーパー村でサイモンと一緒に店に入ったきりだろうか。インパの街じゃ、アリアは子供たちとジョゼフの別荘で過ごしていたし、食事も大体そこで摂っていたように思う。
「うんめー!」
「ふふふ、よかったね」
「ん、さすがオッサン! 金だけは持ってるんだな!」
「お前の分だけ支払い別にしてもいいんだぞ」
「ジョーダンだって!」
シアンの言葉に、サイモンがギロリと睨みつける。孤児院にいたアリアたちには見せなかった表情だ。
(シアンくんはサイモンさんにとって特別なのかも)
二人の出会いは知っているけど、やっぱり独特な雰囲気がある。アリアは賑やかにな二人の会話を聞きながら、運ばれて来た料理に手を合わせた。グレアは相当腹が減っていたのか、出された肉をがむしゃらに食べている。いい食べっぷりに、見ているだけで腹が膨れてしまいそうだ。
「そういや、この後オッサンたちはどうするんだ?」
「オッサンって言うな。そうだな……久々に街の様子でも見ようかと思っている」
食事の最中に話を切り出したのは、シアンだった。溢れた汁をアリアが布巾で拭く。サイモンが「汚すなよ」とシアンに苦言を示し、アリアが「まあまあ」と抑えている。シアンの面倒を見るのは嫌じゃない。幼い子供の面倒を見るのは、アリアにとっては魔法の勉強をするよりもずっと楽なのだ。
(懐かしいなぁ)
孤児院での出来事を思い出しながら、アリアは微笑ましくシアンを見つめる。――しかし、その平穏はシアンが声を荒げたことによって崩れた。
「ダメだ!」
「!?」
がたんっ!
響く椅子の音と大きな声に、アリアは持っていた布巾を取り落としそうになった。
(な、何の話……!?)
アリアは慌てて顔を上げる。喧嘩かと思ったが、息を荒げているのはシアンだけで、サイモンも驚きに目を見開いている。周囲の人々の視線がアリアたちを不思議そうに見つめている。
「ど、どうしたんだ、シアン」
「ッ……」
言葉を詰まらせるシアンに、サイモンが困惑した顔を見せる。ゆるゆると崩れ落ちるように座り込んだシアンは、さきほどまでの楽しそうな表情が一変。真っ青な顔をしていた。その表情に、アリアは思いっきり眉を寄せた。
(何だろう……)
なんか、怖がってる……?
「ッ、やっぱなんでもねー」
「えっ」
「でも、夜に街を出歩くのはやめろ」
シアンはそう吐き捨てると、食事を掻き込み始める。その様子にアリアはサイモンと顔を合わせ、首を傾げた。気になることはたくさんあるが、下手に聞いて怒らせたくはない。サイモンもそれは同じようで、食事を再開する。グレアは首を傾げるとサイモンに「おかわりしていいか?」と聞いた。マイペースな長男に、アリアはひっそりと苦笑いを浮かべた。
食事を終えたアリアたちは、足早に歩くシアンに連れられて足早に宿へと向かう。すでに陽が落ち始めており、同時に人気が一気に引いていく。店に入る前には開いていた店も、いつの間にか店仕舞いを始めている。
(まだこんな時間なのに早いんだなぁ……)
「アリア、グレア。三つ数えたら走るぞ」
「えっ」
「おう」
「っ、まさか……」
サイモンの言葉に、シアンが顔をしかめる。シアンをチラリと見たサイモンは、何も言わず視線を前に戻す。グレアも気づいているのか、顔をしかめてグルルと威嚇に喉を慣らしている。そのやりとりに、アリアは首を傾げ――しかし感じる人の異様な気配に、状況を理解した。サイモンの声が響く。
「いくぞ。三、二、一……ゴー!」
「ッ!」
サイモンの掛け声に、アリアは走り出した。