アリアは正確に言えば、孤児ではない。
ビーバーの町から少し西に向かった地。そこで生まれたアリアは、両親と姉、そして小さな弟とひっそり静かに暮らしていた。特に食べるものに恵まれていたわけでもなければ、お金や物が溢れていたわけでもない。それでも大切な家族と過ごせる日々は、アリアにとっては幸せそのものだった。
しかし、とある日を境に、アリアの世界は変わってしまった。
「お父さん、お母さん、聞いて! 王都に行けば、もっといい〝祝福〟をもらえるみたいなの!」
アリアの二個上の姉、アリスが満面の笑みで家に帰って来たのだ。
その話を聞いた両親はもちろん、子供の話だと取り合わなかった。しかし、それも最初だけで、気が付けば一緒になって盲目的に都内への憧れを口にするようになっていた。
「もっといい〝祝福〟を受けに行くために、私たちは王都に行こうと思う」
雪の降る日。お父さんはそう言った。嬉しそうにする姉と、幼い弟のはしゃぐ声を聞きながら、アリアは考えた。
(もうこんなに幸せなのに)
彼等は、一体これ以上何を望んでいるというのだろうか。アリアにはわからなかった。家族がいて、穏やかに過ごせる。それだけで十分ではないのか。
「……いきたくない」
気が付けば、そんな言葉を呟いていた。刹那、向けられる姉からの視線。敵意にも似たそれに、アリアはビクリと肩を揺らした。しかし、アリアは折れなかった。宥める両親に首を振り続け、ここにいたい、みんなで一緒に暮らしたいと訴えた。最初は困った様子だった両親も次第に勢いを失い、「仕方ないね」と口にする。その言葉にアリアはパッと顔を上げる。その言葉は姉のアリスが駄々を捏ねた時に最終的に両親が頷くときの合図のようなものだったからだ。欲しいと言ったものが買えなかった時も、食べたいものが無かった時も、二人はアリスに同じように言って翌日には用意されていたのをアリアは知っていたのだ。
だから、期待した。期待、してしまった。
「隣の村に孤児院が出来たそうだ。教会が元だから、きっと良くしてくれるだろう」
「……えっ」
「この村ではないけれど、近くに住むことは出来る。良かったな、アリア」
父の温かい手がアリアの頭を撫でる。母の喜ばしい声がアリアを祝福する。
(ちがう)
違う。そうじゃない。そうじゃないの。
縋りつこうとした手が空を切る。「さあ、私たちは準備をしよう」という父が、アリアには父の幻に見えた。意気揚々と楽しそうに準備をする家族から取り残されたアリアは、独り――幸せが崩壊していく音を聞いていた。
あの時の事は成長した今でも鮮明に思い出すことが出来るほど、アリアの中で強く印象に残っている出来事だった。
「王都が大変だって聞いて、初めに浮かんだのが家族の姿なんです。……変ですよね。もう何年も会っていないのに。向こうは私の事なんか忘れて、〝祝福〟をもらって楽しく過ごしていたかもしれない」
「アリア……」
「一目でいいんです。家族がみんな無事であるのを見られれば、それで」
あの日の両親を、アリアはいつまで経っても恨む気にはなれなかった。自分を捨てて行ったことも、不確定な幸せを求めて行った傲慢さも。それがなんでかはよくわからないけれど、アリアにとっては大切で、かけがえのない家族に変わりはなかった。
(お父さん、お母さん)
みんなで楽しい時間もたくさん過ごしたし、可愛い弟とは言葉もまともに交わせないままだ。強気な姉にはよくいびられたけれど、それでもずっと一緒にいて遊んでくれた。二人で拾った綺麗な貝殻を分け与えてくれた時もある。その貝殻も、昔の家に置いてきてしまったけれど。
「冒険の邪魔はしません。自分の身は自分で責任を持ちます。だから――私を王都へ連れてってください」
深々と、アリアは頭を下げた。ぎゅっと瞑った瞼が震える。握りしめた拳が、緊張で真っ白になる。
断られたらどうしよう、なんて考えている余裕は、今のアリアにはなかった。ただただ返される返事が怖くて、呆れられるかもしれない恐怖でいっぱいいっぱいだった。自分を弟子として受け入れてくれたサイモンに、落胆をされることが怖かった。
たっぷりと十秒……否、三十秒は経っただろうか。悪い想像が絶え間なく流れるほどの間を開け、サイモンは呟いた。
「俺は、家族というものがよくわからない」
「……え?」
「戦争孤児だからな」
ふっと軽く笑って告げるサイモンに、アリアは顔を上げ、大きく目を見開いた。
――戦争孤児。
アリアは生まれていなかったからわからないが、昔々、およそ五百年ほど前まで、この世界は戦争の絶えない世界だったらしい。それを今の王、スクルード王と付き人である五人の英雄が共に統一した話は有名な話だ。五人の英雄は名前も伝わっていないどころか、どんな人物かもわかっていないが、スクルード王曰く『僕と同じように戦争で心を痛めた者たちだ』という。
(サイモンさんも、同じなのかな)
戦争というものがどういうものかは、正直わからない。
村の人の中にも戦争を経験した人たちはいるが、なんせ遠い昔の事だ。話に上ることもないし、わざわざそんな話をする必要がないほど今は平和に満ちているのだ。
「だから、俺は君の気持ちがわからない。安否を確認したところで本当に幸せかどうかは本人たちにしかわからないだろう。……もちろん、俺にも大切な奴らはいるにはいるが……あいつらは正直殺しても死なないだろうしな。寧ろ周りに迷惑をかけていないかの方が気になって仕方ない」
「そ、そうなんですね」
ぐっと眉を寄せ、眉間にしわをくっきりと刻むサイモンに、アリアは苦笑いを浮かべて応えた。しかし、好奇心旺盛なアリアには、サイモンの言う〝大切な人達〟がどんな人間なのかという疑問がふつふつと込み上げてきている。
(殺しても死ななそうな人って、どんな人だろう)
アリアからすればそれがサイモンなのだが、そのサイモンにさえ言われるなんて、正直気になってしまうのも無理はない。頭の中に出て来るクマのような大男や、やんちゃな子供の様な人を思い描きながら、アリアはわくわくとする心を抑えていた。
サイモンは後頭部を引っ掻くと、「ともかく」と声を上げた。
「一つだけ。アリアには俺と約束して欲しい」
「約束、ですか」
「ああ」
サイモンはそう告げると、ゆっくりと立ち上がった。彼の足元に書かれた図形のようなものが目に入る。説明するのにあまり使われなかったそれは、何故書かれたのか、そもそも書く必要があったのかもわからなかったが、アリアは何も言わないことにした。
顔を上げれば、強い西日がサイモンを照らす。逆光になった彼の表情は見えず、アリアは少しだけ緊張に心臓が高鳴った。サイモンの手が伸びる。大きな手のひらがくるりと天を向き、アリアに差し出された。
「絶対に、俺から離れるな。生きて家族に会いたいのなら」
「!」
「その代わり、俺の背中はアリアに任せる」
――最大の賛辞だった。
「っ、はい!」
アリアが声を上げ、サイモンの手を取る。剣を握る、大きな手だ。強くて、頼もしい、自分の道を切り開いてくれる手。
(こんなに安心するなんて)
やっぱり彼には他人にはない、何か特別な力があるのかもしれない。……そう、アリアは思う。
サイモンがアリアの手をぐっと引っ張り上げる。背の高いサイモンを見上げ、アリアは満面の笑みを浮かべた。
「よろしくお願いします!」
「交渉成立だな」
ふっと笑うサイモンは、相変わらず困ったように眉を下げており。これが彼の独特な笑い方なのだと、アリアは今になって気が付いた。不器用な笑顔にくすくすと笑うアリアに、サイモンが首を傾げる。どうかしたのかと問いかけて来る視線に、「何でもありません」と告げたアリアは、サイモンの手を引いた。
まずは旅に出る前にこの町の復興を終えなければ。せっかくこんなところに若い男の手があるのだから、使わないわけにはいかない。その思惑を察したのか、サイモンは両眉を下げると仕方ないなぁと言わんばかりの顔で歩き出した。
町の復興はサイモンが加わったところで一気に加速した。
三年前、アリアに『人前で魔法を使わないように。使う時はバレないようにしなさい』と指南した言葉通り、サイモンはバレないようにこっそり魔法を使いながら手伝っていた。
町中の男たちが集まっても起こせなかった大木を起こすときも、こっそりと身体強化の魔法を使っていたし、水が止まってしまったという井戸に入っては、修理をするふりをして土と水魔法を使って幾つも復元させていた。極めつけには家の修理も屋根上でこっそりと魔法を使って修理をし、家の中の家具配置も風魔法でちょちょいとやってしまうものだから、一夜にしてほとんどの復興が終わってしまった。お陰で今は復興の宴が催されている。
ちなみにサイモンはこの数時間で『大木を一人で動かせるほどの力持ちで、大地と水と話ができる聖人で、家を造り守ってくれる守護神』という何とも奇妙で、大層な二つ名が出来ていた。もちろん本人は知らない。
(ていうか、流石にここまでしたらみんな気づくんじゃあ)
目の前で使ってはいないが、ここまで大々的だと『おかしい』と感じる人物がいてもおかしくない。
「いやあ! 兄ちゃんは本当に頼りになるなあ!」
「まさかこんなに早く復興が終わるなんて……あたしゃあ嬉しくて涙が止まらないよ……!」
「俺もだ。まさかパンを焼く竈まで直してくれるなんて……!」
「「「アンタはうちの町の神様だ!!」」」
(あっ、これ大丈夫そう)
アリアは瞬時に悟った。
人間は理解の範疇を超えることが起きると思考停止してしまうというが、まさかここまで振り切ってしまうとは。予想外な出来事にアリアは少し複雑な心境になったものの、これで無事旅に出ることが出来ると喜びに胸を震わせていた。シスターやウィルにはさっき挨拶してきた。旅立つのは、明日の早朝だ。
(どんなことがあるんだろう)
ドキドキと高鳴る心臓に、口元が緩む。隣に居たアラシが「え、何笑ってんの? 気持ちワルッ」と言っていたが、今は気分がいいから拳骨だけで許してやろう。
町の人に囲まれているサイモンを遠目に、アリアはこれからの事に思いを馳せる。家族を探すという名目はあるものの、好奇心旺盛なアリアは旅そのものにも興味深々だった。
騒がしい宴をほどほどに楽しんだアリアは、明日は早いのだからと自室に戻ることにした。扉を開けた途端、駆け寄ってくる子供たちにアリアは驚く。きっとどこからかアリアが旅立つことを聞いたのだろう。一人一人の頭を撫で、宥めたアリアはみんなに囲まれて最後の夜を過ごした。
「それじゃあ、行ってきます!」
「気を付けるのよ」
「うん!」
「サイモンさんも、この子をよろしくお願いします」
「はい。任せてください」
深々と頭を下げるシスターに、サイモンも頭を下げる。
大きく手を振り、アリアは浮かぶ涙を拭う。
――空が白み始める頃。人々が未だ寝静まる中、シスターとウィルに見送られながら、アリアはサイモンと共にビーバーの町を後にした。
小さな少女の旅が、今、ここから始まろうとしている。