目を見開くサイモンに、アリアは真っ向から視線を向けていた。握りしめた手を更に握り込む。
アリアには、サイモンに断られない自信があった。
もちろん、何の根拠もないわけではない。アリアはこの三年間、毎日欠かさずサイモンから教わった鍛錬をしており、密かに自分で試行錯誤した魔法をいくつも身に着けた。前より確実に強くなっているはずである。足手まといにはならないだろう。更に言えば、自分はサイモンの一番弟子だ。弟子が一緒に旅をするのは当然のことだと、本屋のじいちゃんも言っていた。サイモンが一度目に町を出た時はなんで誘われないのかと思っていたが、今回は違う。無敵の気分だった。
(絶対に連れてってもらわなくちゃっ)
サイモンがいなくても、アリアは旅に出るつもりでいた。しかし、やはり一人での旅は不安だ。そこにやって来た〝サイモン〟という存在に、アリアは好都合だと思ったのだ。その為にアリアはシスターやウィルからも旅に出る許可をもらったし、先立つためのお金もバイトをして溜めていた。いつでも行けるよう、必要な物も買い込んである。もちろん、一筋縄じゃあいかなかったけれど。
準備は万端。心持ちも十分。足りないものはないとアリアは自負していた。
「残念だが、君を一緒には連れてはいけないよ」
「えっ」
――だからこそ、サイモンから告げられた拒否に、アリアは動くことが出来なかった。
数秒間立ち尽くすアリア。サイモンからの言葉が彼女の小さな頭をぐるぐると周り、カッと熱を持つ。
「ど、どうしてですかっ!?」
アリアの手が無意識にテーブルを叩く。派手な音がし、シスターの用意してくれた人数分の飲み物が音を立てた。サイモンの窘める声が聞こえたが、アリアはそれどころではなかった。
思考が真っ白になり、視界が一気に狭くなる。アリアの視界に映るサイモンは、驚いた表情をしていた。落ち着かせようとしている声が、アリアは余計に苛立たしく感じた。
「お、落ち着け、アリア」
「私は落ち着いてます!」
「いやっ、落ち着いてないだろう」
困ったような顔をするサイモンを、アリアはキッと睨み上げる。
叫んだ喉が、痛みに震えた。
「この三年間、私は一度も鍛錬を休んだことはありません! ウィル兄と斬り合いだって出来るようになったし、魔物の討伐だって何度もしてきました! 魔法だって、サイモンさんほどじゃないですけど使えます! 前よりすごく、すごく強くなったんです!」
「そ、そうか。頑張ったな」
「足手まといにはならないはずです! それなのにどうして駄目なんですか! 私が女だからですか!? 子供だからですか?!」
「アリア、ちょっと落ち着――」
「誤魔化さないではっきり言ってください!」
バァン、とアリアの両手が再び机を叩く。机に置かれたカップが横に倒れた。机に置かれていた誰かの本が床に落ちる。それに気づかないほど、アリアは怒りに染まっていた。
気丈にサイモンを睨みつける。サイモンの困った顔が、アリアにはわざとらしく見えた。アリアは苛立ちに任せて口を開いた。勝手に動く。
「私は確かに女ですけど、自分の事くらい自分で出来ます! サイモンさんからしたら子供かもしれませんけど、自分を守ることだってできるし、覚悟だってあります! あの時みたいに、サイモンさんに迷惑はかけません!」
「……そういうことじゃないんだ」
「じゃあどうしてなんですかッ! 私の何が――!」
アリアが再びサイモンに噛みついた、その時。アリアの視界に突然水が降り注いできた。
「へ……?」
だばー、と上から流れて来る水。頭上から降り注いでいるらしい水は、アリアの髪や肩を濡らすと火照った身体を一気に冷やしていく。屋内で雨が降るわけがないので、確実に人為的な物である。
アリアは驚くサイモンを見つめ、ゆっくりと振り返った。そこには、バケツを持って満面の笑みを浮かべた修羅が立っていた。
「アリア。怒る気持ちはわかりますが、物を粗末にすることはあってはいけませんよ」
「お、お母さん……」
「それと、人の話は〝ちゃんと〟聞きましょうね?」
にっこりと。
笑みを深める修羅の母に、アリアはカタカタと震える。怒りはとっくになりを潜めていた。
(こ、怖すぎる……!)
アリアは何度も頷くと、サイモンに向き直った。視線を向けられたサイモンは、ビクリと肩を揺らす。怒られた本人ではないのに少々顔色が悪くなっているのは、きっと後ろの修羅を直で見てしまったからだろう。気の毒だが、アリアは言うしかない。
「す、すみません。取り乱してしまって」
「あ、ああ。いや。俺は大丈夫だが……」
心配そうな視線が、アリアに向けられる。……やはり、自分は子供としてしか見られていないのだろう。それが何となく、悲しい。
濡れた髪や服が顔に張り付いて気持ちが悪い。アリアはスカートをぎゅっと握り締めると、サイモンを見た。泣きそうになるのを堪えれば、鼻の奥がツンと痛む。
「私、ちょっと頭冷やしてきますね」
「アリア!」
サイモンの引き留める声を無視して、アリアは教会を飛び出した。
走って、走って、走って。
辿り着いたのは、三年間通い詰めた鍛錬場所だった。アリアが一人で、時にウィルと二人で、切磋琢磨した場所だ。教会から町を挟んで反対側にあるそこは、崩壊した孤児院が近くにある。木々はなぎ倒され、訓練場所は見るも無残な姿になっていた。それに心がきゅうっと締め付けられる。場所にすら自分の頑張りを否定されたかのようだった。
荒れる息を整えたアリアは、近くの木にもたれ掛かり、ずるずるとその場に崩れ落ちた。走ることにはもうずっと前から慣れているはずなのに、息が上がっている自分がおかしくてつい笑ってしまった。
「あーあ。……私、なにしてるんだろ」
アリアは存分に笑うと、小さく呟いた。虚しい気持ちが胸を満たす。自身の足を引き寄せ、その場で蹲った。頭を過るのは、ついさっきのこと。溢れる感情をサイモンに向けて無遠慮に吐き出す自分は、どれだけ滑稽に見えていただろうか。
(あんなのただの八つ当たりじゃん。私のバカっ)
溢れてくる涙を、アリアは乱雑に自分の袖で拭った。自分が悪いのはわかっていた。しかし込み上げる感情を上手く処理できず、アリアはぐすっと鼻を啜る。
「こどもっぽ」
小さく呟いた声は、波の音にかき消された。濡れた髪がアリアの顔に張り付く。
(そういえば、お母さんに水を掛けられたんだっけ)
あの時は驚いて何も言えなかったけれど、止めてくれてよかったとアリアは思った。あのままじゃ何を口走っていたかわからない。あれ以上醜い姿をサイモンの目に晒すなんて、考えるだけで嫌だ。そう思えばあそこで止まれただけ、良かったのかもしれない。お母さんにはお礼を言っておかないと。
(断られちゃったなぁ……)
アリアはポツリと内心で呟いた。まさか断られるとは思っていなかったから、どうしたらいいかわからなかった。アリアはふと、数日前にやって来た人間から聞いた言葉を思い出す。
『今、王都は大変なことになっててねぇ! もうあちこち大混乱で、商売も上がったりだよ!』
そういうのは、麻布を売っている商人だった。
偶然子供たちの新しい服を調達しに来ていたアリアは、見覚えのない店に惹かれ、店先まで足を運んでしまった。そこで運悪く彼の話し相手として捕まってしまったのだ。
彼はだいぶ鬱憤が溜まっているようで、アリアが頷いて聞いているのをいいことに、外の事情をたくさん話してくれた。スクルード王の〝祝福〟がなくなってしまったこと。王都が急に閉鎖をし、ほとんどの人間が城下町に吐き出され、今王都は混乱に満ちていること。
その話を聞いていたアリアは、どんどん顔色が悪くなっていく。それに気が付いたのか、商人は話を止めると『お嬢ちゃん、大丈夫かい?』と心配の声を掛けてきた。ハッとしたアリアが軽く受け流し、服を数枚買うと早々に走り去った。「話を聞いてくれたお礼ね」と多少会計を安くしてくれたような気がするが、アリアはそれどころではなかった。
(王都が封鎖なんて……!)
アリアは流れる冷や汗を感じながら、シスターの元へと走った。そして言ったのだ。「旅に出たい!」と。振り返ったシスターは少し驚愕していたものの、言うのがわかっていたかのように微笑んでいた。
それからは、必要なものを集めるのに必死だった。まさか旅に出る前に嵐に巻き込まれてしまうなんて思ってもいなかったけれど、それでも行きたい気持ちは変わらない。
「やっぱり、一人で旅に出るしかないのかな……」
でも一人はやっぱり怖い。どれだけ準備を万端にしていても、踏み出す勇気だけがアリアには足りなかったのだ。それを補ってくれるのがサイモンという存在であると思っていたのだが、そう都合よくはいかないらしい。アリアは自信満々だった自分が恥ずかしくなって、小さく笑ってしまった。
「よかった。ここにいたのか」
「!」
不意に聞こえた声に、アリアは振り返る。先ほど教会内に置いてきたばかりの姿があった事に、アリアは心底驚く。
「さ、サイモンさん!?」
アリアの声にサイモンは軽く手を上げる。僅かにぎこちなさが見えるのは、きっとさっきの事があるからだろう。アリアもなんだか気まずくて視線を下げてしまった。
サイモンはアリアの近くまで来ると、おもむろに隣に座る。一人分開けられた間が、アリアは心地よかった。
「……どうして来たんですか」
「あー……いや。何となく、というか。ちゃんと説明していなかったなと思って」
「説明?」
「一緒に連れて行けない理由について」
サイモンはそう言うと「聞いてくれるか?」と眉を下げた。……今日一日で何度も見た、彼の困った顔。きっとそうさせているのは自分のなのだろうと思うと、自分への嫌悪感が込み上げてくる。つくづく自分は子供で、扱いにくい人間なのだと思うと、それだけで胸が苦しくなる。こんなんじゃ、旅に連れて行ってもらえないのも当然だろう。アリアが頷けば、サイモンが小さく「ありがとう」と笑う。しかし、アリアの心は晴れない。
だんだんと俯いていく視線に、アリアはきゅっと唇を引き結んだ。なんだか泣きそうだった。
「アリアは今、世間がどうなっているか知っているか?」
「……はい。この前町に来た商人に聞きました。〝祝福〟がなくなって、パニックになっていると」
「そうか。それなら話は早い」
サイモンは適当な枝を手に持つと、地面に何かを書き始めた。よくわからないが、図で解説するようなことなのだろうか。サイモンはお世辞にも絵が得意というわけではないので、出来れば言葉で説明して欲しいのだが。
「王都が封鎖したということは、この世界は今、頭を失った蛇みたいなもんだ。脳を失い、統率が取れない体は混乱し、やがては破滅を待つしかない。もしくは干からびて死ぬか、のたうち回りすぎて自分で自滅してしまうか。まあ、何が起こるかわからないのも、頭を失った弊害みたいなもんだろう。正直、俺もまだしっかりとはわかっていないことが多い」
「それは……そうですけど」
だから何だというのだ。
アリアはそう言いたげな視線をサイモンに向ける。それに気が付いたサイモンが、苦く笑みを浮かべた。
「つまり、何かあった時、君を守り切れるかどうかわからないって言いたいんだよ」
「えっ。で、でも、サイモンさんってすごく強いですよね……?」
「魔法を使えない人間にとってはな。使える人間からすれば、俺はただの剣士でしかないだろうよ」
「そんなこと……!」
無い、と言いかけて、それはアリアの口の中で飲み込まれた。サイモンの表情が、どこか悲しそうに歪んでいたからだ。しかし、それも一瞬で消えてしまう。サイモンが笑って「ちゃんと言わなくてごめんな」なんて言ったからだ。
(ごめんなんて)
その台詞を言わないといけないのは、こっちなのに。
アリアは俯く。さっきのサイモンの表情が気になる反面、自分も隠し事をしていることに罪悪感が込み上げてくる。人が聞けば、サイモンの言葉は〝意気地なし〟と言われているような言葉だろう。守れる自信がないから連れて行かない、なんて、アリアにとっても正直納得できる理由ではない。
アリアの言った通り、サイモンは強い。彼は謙遜をしているが、その強さはきっと頭一つ飛び抜けているはずだ。孤児院が襲われた時、自分もウィルもボロボロだったところを助けてくれたのは、紛れもないサイモンである。薄っすらと残っている記憶の奥で走った稲妻は青く、通常のものではないことくらい、魔法を齧った人間なら誰でもわかる。だからこそ、サイモンの言い分には納得が出来なかった。
「本当に、それだけですか?」
「ああ。それだけだ」
「私が弱いからとか、子供だからとかじゃなくて?」
「アリアは強くなっただろ? それくらい、見ればわかる。子供……ではあるかもしれないが、旅に出るには十分な年齢だろ。拒否する理由にはならない」
「そう、ですか」
アリアの視線が下がる。ますます理解が出来なかった。強くて、年齢も問題なくて、きっと性別もサイモンは気にしていない。それなのに、『守れないかもしれないから』なんて理由で、自分は拒否された。これが年齢の差なのか、それとも経験の差なのかはわからないけれど、どちらにせよ、アリアはやっぱり納得ができなかった。
自分の手を見つめる。瞼を閉じれば思い出せる、大きな手。温かい温度を持ったそれは、アリアの唯一の記憶だった。ゆっくりと息を吸い込む。サイモンを見つめ、アリアは自分の想いを吐露した。
「私、王都に行きたいんです」
「王都? どうして?」
「――家族を、探しに行きたいの」
アリアの目が、サイモンを見つめる。
彼の目が大きく見開かれ、ああ、この人の目はこんなに綺麗なのかとアリアは密かに思った。