約束の時間に港に再び向かえば、船は出港準備が整っていた。街の様子は相も変わらず、神に祈り続けている。あんなことをして意味があるのかとサイモンは思ったが、彼等にとっては『祝福』はそれだけ重要なものだったのだろう。寝食を放り出して両手を合わせるくらいには。
「本当に、大丈夫なのか?」
「大丈夫だって! オッサンも心配性だなぁ」
船に乗る直前、振り返ったサイモンは見送りに来てくれた少年に問いかけた。しかし、返って来たのは変わらない。サイモンは自分の旅の食料を半分少年に渡すと、「元気でな」とサイズの合わないベレー帽越しに頭を撫でた。くしゃりと嬉しそうに笑う少年に、サイモンは背を向け、船に乗り込む。
出航の合図が響く。錨が上げられ、帆が張られる。大きく手を振る少年に、手を上げて応え、サイモンはシマリス街を後にした。
ゆらゆらと船体を揺らしながら海を渡る船。心地いい風に目を閉じて、揺れを感じること数十分。――サイモンは船の縁にへばりついていた。
「う、うぇぇぇ……」
込み上げる吐き気に、海へと腹の中のものをぶちまける。せっかく食べてきた朝食が海の藻屑となっていくのが、何となく虚しい。早起きして頑張って作ったのに。美味かったのに。それが自分ではなく海の栄養になるなんて。
(それにしても、船ってこんなに揺れたか……?)
ざっぱん、ざっぱんと波が船に叩きつけられる。こんなことなら面倒でも陸路で行けばよかったと後悔するが、もう遅い。どうにも立っていられず、甲板の上に大の字に寝転がり、サイモンはひーふーと息を繰り返す。……王都までの道のりは出来るだけ陸路を使おうと決心しながら、先ほど船員が気を利かせて持ってきてくれた水を口にする。一口めは口を濯ぐことに使い、二口めで水を飲み込む。喉の奥から何かがせり上がってきたが、無理矢理飲み込んだ。水がない状況で吐くのがつらいことはよく知っている。
ゴロゴロゴロ。
「ん?」
ふと、頭上から聞こえた音に、サイモンが顔を上げる。雷の音だと気づいたものの、見上げた空は真っ青の快晴が拡がっており、崩れる様子はない。船が進んでいる方角を見ても、雨雲らしきものは見当たらない。風は少し強くなってきている気はするが、海なんだから風の変動はよくあることだろう。
(まあ、何かあれば誰かが呼びに来るだろ)
高を括ったサイモンは、気だるさで回らない頭を甲板に付け、少しだけと目を閉じた。
「兄ちゃん!? 何でこんなところにいるんだッ!?」
「んがっ」
心底驚いた叫び声に、意識が覚醒する。ガコンッと体に何かが突進してきて、止まる。ぼうっとする頭で周囲を見渡せば、ここが船であることを思い出した。どうやら自分は床に転がったまま、寝てしまっていたらしい。
(なんか……暗くないか?)
さっきまで明るかったのに、いつのまに夜になっていたのか。サイモンは起き上がろうとして、船が驚くほど傾いていることに気が付いた。
「えっ」
つるりと滑る手。――途端、サイモンの身体が浮遊した。
「え?」
――えええええ!
眠気など一瞬で吹き飛んだ。
周囲を埋め尽くす豪雨。さっきまで晴天だったはずの空が暗雲に変わっている。船は右に左にと揺れ、サイモンはそれに合わせてごろごろと転がっていく。もしかして、これは。
(嵐か!?)
「た、助けてくれ船長ォオオ!」
「だから船内に入っとけって言ってただろーがッ!!」
「聞いてない聞いてない!」
「お前が寝てて聞いてなかっただけだろ! 他の奴らはもう船内に避難してんだよッ!」
船長の怒号が響く。確かに、寝ている間に少し騒がしかったような気もするが、サイモンは気にしないまま寝こけていた。自業自得であることは理解したが、だからと言ってこの仕打ちはあんまりじゃないだろうか。
サイモンは荒ぶる波を頭から被りながら、必死に船の縁にへばり付いていた。
五百年以上生きて来て、初めての出来事だ。怯えない方がおかしい。それに――サイモンには大きな問題が一つあったのだ。
(俺、泳げないんだが!?)
サイモンは泳げなかった。幼少の頃、スクルードと海の近くで遊んでいる時に偶然深い場所に足を突っ込んでしまって、危うく溺れかけたのだ。その時の苦しさがトラウマになったサイモンは、それから泳ぐことは出来るだけ控え、魔法で何とかしてきた。そのために独自の魔法を作ったことすらもある。それほどまでに〝泳ぐ〟という行為がサイモンは嫌いだったのだ。
体が頑丈で簡単に死なないことは自負しているが、海に放り投げられたら最後だ。そりゃあ慌てもする。
「何でもいいから助けてくれ! 一生のお願いだ!」
「お前の一生は何年の話だ!? つーか今こっちは手が離せねぇんだ! 自力でどうにか這い上がってこい!」
「無茶ぶりするな!」
「テメェがいうんじゃねェ!」
ぎゃんぎゃんと船長と言い合うサイモン。完全に売り言葉に買い言葉だ。
船長は船が転覆しないように、その太い腕で舵を抑えているらしい。船長はこの船で一番ガタイが良く、力が強いのだと、宴の際に船員が言っていたような気がする。そんな彼がサイモンを助けに走れば、サイモンどころか船全体が転覆して海の藻屑になってしまうだろう。
サイモンか、その他大勢か。選ぶ方は決まっている。
(くっそ、腕が……!)
波と雨に打たれ、熱を失った手がガクガクと震える。冷たさに感覚が奪われ、しがみ付く力も削られていくのを感じる。絶対に放してやるものかと、縁を伝い、船室へと近づく。船室に繋がる扉は開けてくれている。船が傾くと同時にあそこに上手く捕まることが出来れば、中に這い上がることくらいは出来るだろう。
こんな時に不調な魔法が頭を過り、舌打ちをする。仕えたとして、船長たちの目がある以上、そう大々的に使うことは出来ないのだが。
ぐわりと船が傾き、サイモンは目を光らせる。――ここだ。今しかない。そう思った時だった。
ガラガラ、ピッシャーン。
大きな雷がサイモンの近くに落ちた。――瞬間、体を浮遊感が包む。
「あ」
「あ」
つるん、と滑る手。船長と船員たちと、目が合う。伸ばしたままの手が空を切った。
雷に驚いたサイモンの身体が大きく船から弾き出され、宙を舞う。咄嗟に魔法でどうにかしようとしたが、気が動転しているのか上手く発動しなかった。サイモンは内心で大きく舌を打った。
船の縁が遠くに見える。何時間も縋り付いたからか、愛着のようなものが心の中に込み上げてきた。――しかし、現実は無常である。
サイモンの身体は大きく翻った波に呑み込まれた。船長の叫び声を最後に、サイモンは海中へと沈んでいく。海の中をぐるぐるとかき回され、衝撃に残っていた息を吐き出したサイモンは、不意に過る記憶を見た。
あれは六百年か七百年前のこと。スクルード達と世界統一の旅をしている最中のことだ。
一度岩を伝って川を渡ろうという話になった。もちろん、魔法で落ちるのを防ごうと思っていたサイモンだったが、魔法陣を展開する前にスクルードに手を引かれ、川に浮かぶ岩へと足を踏み入れてしまったのだ。『案外何とかなるだろ?』と笑うスクルードに安心したのを覚えている。しかし、終盤に差し掛かるにつれ、テンションが上がっていた二人はふざけ始めてしまった。
結果、足を滑らせて二人一緒に滝の下へと叩き落されそうになった。あの時は大変だった。スクルードが救いようのないカナヅチだったことが発覚したのも、この時だ。救出されたかと思えば、仲間たちからの大目玉を食らう羽目になり、罰として数日間の食事を作らされた。
(懐かしいな)
あの時はまだ若かった、なんて思いつつ、サイモンはゆっくりと目を閉じる。過った記憶は走馬灯だろう。もうだいぶ昔の話だ。
サイモンは遠退く意識で、ふと最後に手を伸ばしてくれた船長を思い出した。必死そうな表情が脳裏にこびりついている。
生きていたらまた船長の船に顔を出してもいいかもしれない。その時はいい酒でも持っていくとしよう。それにはまずこの状況から生き伸びることが条件ではあるが――それは大丈夫だろう。そんな気がする。
とりあえずは、目が覚めたらどこかの陸に着いていますようにと祈っておこう。サイモンは先ほどよりも随分と冷静に状況を見ていた。