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第8話


「うっぷ」


込み上げる気持ち悪さに、サイモンは口元を抑える。船の縁に捕まり、顔を海に突き出して込み上げた物を吐き出した。


「お前、本当に弱いなあ!」

「うっ。あまり叩かないでくれ、出る」

「お、おお。それはすまんかった」


バシバシと背中を叩いていた手が、擦るものに変わる。「本当に大丈夫か?」と心配そうな顔で覗き込んできた髭面の男は、この船の船長だ。

込み上げる吐き気を、更に海へと吐き出す。隣でご丁寧に背中を擦ってくれる船長は、しばらく付き添ってくれたが、部下に呼ばれ颯爽と去ってしまった。「無理すんなよ!」とかけられた声に手を上げて返事をすれば、呆れた笑顔で返された。

船員に差し出された水で口を濯ぎ、吐き出す。数回それを繰り返して、今度は水を飲んだ。ぷはあ、と息を吐き出して、サイモンはその場にへたり込む。


「ちょっ、大丈夫ですか!?」

「ああ……」

「駄目そうっすね」


冷静に言わないでくれないか。

淡々と下された診断に目だけで反論するが、船員は気づいてすらいない。「水、もう一本持ってきますね」と言って去って行く彼に内心お礼を告げつつ、サイモンは静かに寝返りを打った。

(まさか自分がここまで船に弱いとは……)

それもこれも、アイツのせいだ。

今話題の人物を頭の中に思い浮かべる。一体全体、どうしてこんなことになったのか。船に乗る前を思い出し、サイモンはもう一度大きくため息を吐いた。






――始まりは、今から五日前の事だった。


「オイ! どうなっている!」

「わかりません!」

「いやああああっ!」

「おとうさん! おかあさん!」

「……」


赤い世界が視界を埋め尽くす。どうしたらいいかなんて、自分が一番知りたいとサイモンは思っていた。

(これは……夢か)

周囲を見回し、サイモンは呟く。

数十年ぶりに見る景色は、相変わらず凄惨というか、悲惨というか。正直目にしたくない光景ばかりが拡がっていて、気持ちのいいものじゃあない。サイモンは静かに目を伏せた。

夢だとわかった以上、今の自分に出来ることはない。ただ夢が終わるまで待っているしかないのだ。


拳を握り締め、静かに立ち竦む。諦観で自身を包み込み、過ぎ去るのを待つ。今更、どうしようもないことはわかっている。痛みも感じない拳を握り締め、サイモンはじっと立ち尽くしていた。


――サイモンが見ているのは、五百年以上前の光景だった。

サイモンはうっすらと目を開け、目の前の光景を懐かしく思う。

赤い世界に響く、誰かもわからない悲鳴、罵倒、懇願。そのすべてがサイモンの耳を突く。本当に混沌とした世界だと思う。地獄と言い換えてもいいんじゃないだろうか。

(世界が統一するまでは、当たり前の日常だったのにな)

それが今は驚くほど平和になっているのだから、彼は本当に凄いと思う。

途端、ドンッと腹に衝撃を受けた。初めてのことだった。驚きつつも視線を向ければ、顔のない子供と目が合う。息を、飲んだ。


『――!』


子供が口を開く。しかしそれは音になることなく、代わりにサイモンの視界が暗転した。意識がなくなる直前に見えた子供の顔が親友のものに見えたのは――気のせいだろうか。



「ッ――!」


戻ってくる意識に、サイモンは勢いよく起き上がる。


「最悪な目覚めだな……」


口を突いて出た声が、一人しかいない部屋に響く。部屋に差し込む日差しを見れば、まだ明け方であることが分かった。窓を開ければ、朝特有の澄んだ空気が肌を撫でる。枕元に用意していた水差しから水を飲む。張り付いた喉が、少しだけすっきりした。

(……ひどく懐かしい夢だったな)


長い前髪を掻き上げ、バクバクと煩い心臓を抑える。悪夢とまではいかないが、心臓に悪い夢であることは確かだ。冷や汗がこめかみを伝い、背中は汗で拭くがへばりついていて気持ちが悪い。


「風呂、借りられるか聞いてみるか」


意味もなく声に出して、呟く。動転していた気が、少しだけ落ち着いたような気がした。ああ、頭が痛い。

(……まぶしい)

乱雑に掻いた頭に揺られ、自身の白い髪が揺れる。色素が抜け落ちたわけではない。生まれつきだ。

(そういえば、この髪を好きだとか綺麗だとか言っていた変わり者がいたな)

今ではほとんど会うこともなくなってしまったが、元気にやっているといい。そう思った時だった。


「!」


パチンと、何かが弾けるような音が頭の中に響く。クラリと眩暈がし、慌てて窓枠に手を付けた。

(な、なんだ……?)

まるで頭の中に繋いだ糸を強引に切られたかのような感覚だ。付与魔法のバフを強引に引き剥がされた感覚でもいい。同時に、明確に嫌な感覚が全身を這う。視界が大きく揺れ、吐き気を催す。

(くそ、頭が……っ!)

眩暈がどんどんとひどくなり、頭痛がし、全身に力が入らなくなる。サイモンはさっきよりも太い糸がぶつりと途切れた音を聞き、意識を失った。




「う……」


痛む頭を押さえ、ゆっくりと目を覚ます。痛む体を叱咤し、起き上がる。

(床で寝ていたのか)

窓際の床で、どうやら倒れるようにして寝ていたらしい。重い頭を軽く振り、窓の外を見る。既に日はてっぺんに上っており、今が昼時であることを理解する。と、同時に違和感に気が付いた。


「……やけに静かだな」


この辺りでも大きな港町である此処は、昼になれば毎日活気に溢れた空気がどこからともなく漂っている。しかし、今は静寂に包まれている。何かあったのかとサイモンは周囲を見回す。サイモンの視線が地上を捕え――まさに〝異常〟と言ってもいい景色に、息を飲んだ。


「な、なんだこれは!」


勢いよく立ち上がる。がたりと近くにあった椅子が音を立てた。

いつもと変わらない建物達。しかし、その間にある道は人影で覆いつくされていた。人々は皆、手を組んで祈りを捧げるような格好をしている。人っ子一人通ることも出来そうにない密集具合に、この街にこんなに人がいるのかと思ったくらいだ。人々の目の先にある方を見れば、高い位置に掲げられた十字架が見えている。教会だ。彼等はどうやら教会に向かって祈っているらしい。


「な、何が起きてるんだ……?」


(特殊な祭りでもやっているのか? いや、そんな話は聞いてないぞ)

サイモンは流れる冷や汗を感じる。ごくりと喉を鳴らして、再び地上を見た。


これは、一体何が起きているんだ。

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