一人の少女が居た。
たおやかな長い黒髪。薄い肌。大きな瞳。白いワンピースを纏った彼女は、まるで人形のようだった。
「貴方、聖歌を聞きに来たの?」
教会を訪ねた少年にそう問いかける声ですら、鈴を転がすように可愛いらしい。
戸惑う少年に、少女は悪戯っぽく笑って言った。
「ごめんなさいね、今日は聖歌、おやすみなの」
なぜ、と問うと、少女は自分自身を指さした。
「私が居ないからよ。ここの聖歌隊、私以外みーんな下手っぴなの」
その言葉に目を丸くする少年にもう一度微笑みかけて、少女はその場でくるりと一回転する。白いスカートの裾がふわりと揺れた。
「私ね、歌えなくなっちゃったの。だから聖歌隊はもうおしまい。ーーねえ、今から暇?ちょっと付き合ってよ」
どうにも誘いを断れず、少年は少女に連れられて、電車に乗る。長い距離の間、少女は何も語らなかった。ただ窓の外を見て、遠い何処かに想いを馳せるばかりだった。
だんだんと、景色の色が、匂いが変わってくる。気づけばそこは、潮の香りが漂う海辺だった。
「ああ、ここは素敵ね。教会みたいに堅苦しくないわ」
靴を脱ぎ捨て、靴下を放り投げて、少女は駆け出す。ぱしゃぱしゃと軽い水音がして、跳ねた海水が少女のふくらはぎを濡らした。
「私の家、パパとママは別に暮らしてるの。パパには、一度も会ったことない。でもね、ああ、パパだなって思う人は知ってる」
青空の向こうの太陽に手をかざし、眩しそうに少女は目を細める。
「分かるのよ。いつもミサに来て、聖歌を聞いてくれる男の人がいたの。歳の頃もママと近くて、私のことをよく見てくれる人。なんとなく私と眉毛の形が近くてね、ハンサムなの。
ああ、今日も来てくれた、って、嬉しくて。パパに届くように、思い切り気持ちを込めて歌ったわ。ありがとう、大好きって気持ちを込めて、ずっと歌ってた。
……でもね、この間から、来なくなっちゃった」
ポツリと、それは不安げな声色で呟かれた。太陽に向けられていた彼女の手が、力無くおろされる。
「珍しくお寝坊したのかなって思ったの。でもその次も、その次の次も、次の次の次も、来なかった。きっと、私の気持ち、届かなかったんだわ」
そう言って、彼女は右足で小さく水を蹴った。父親への恨めしさか、それとも己の無力さへの悲嘆か。細くて白い足は一度だけ水面を蹴って、また海水の中におろされた。
「そう思ったら、歌えなくなっちゃった。だから、聖歌隊はもうおしまい。
でも、それも良かったのかもしれない。だって見て、この広くて素敵な景色」
少女は頬を緩めて笑い、空と海を表すように、目一杯両手を広げた。太陽の光が、彼女の艶やかな黒髪を照らす。光の輪が、彼女の髪で輝いた。
「ずっと、こんな広くて自由なところで歌いたかったの」
息を吸って、吐いて。ふと、少女が口を開く。紡ぎ出されたのは、ミサで歌われるはずだった聖歌。
大聖堂の中かと思うほど、響く声。神を讃えるその歌は、この場の何よりも壮大で、荘厳で、ぶわりと肌が震えた。これ以上の歌声を、少年は知らない。この世のものとは思えないほどに美しく、伸びやかで、優しい歌声。『天使の歌声』は実在するのだと、少年は実感した。
どこまでも広い空の下、どこまでも広がる水平線に向かって、少女は歌う。白を纏い、輝きを纏って歌うその姿こそ、『天使』だった。
天使の歌声は、届かない。
行き先を失った聖歌は、何よりも自由に、空に響いた