いとしのサナートへ。俺はハフジャン中央ガシンの野にいる。お前に手紙を書きたいと思っていた。でも
ハフジャン王国の王の旗には相応の効果があり、続々と兵士が集まって来ている。皆はハフジャン神のために集まった、とお前は思うだろう。お前はそうあるべきと神から定められているからだろう。そのお前に許して欲しいことが一つある。俺は神ではない別のことのためにこの戦いに行くが、それを許してくれるだろうか?
「アルト……」
彼の名を小さく声に出してサナートは読み返した、
サナートが戦う理由について、アルトは
アルトは神のために戦うのではないと手紙で言っている。では、何のために?
「姫様?」
「あっ、ごめん……」
レーカムに呼ばれ、サナートは元のように手紙をたたんだ。恋人から届いた手紙を読んでいたのだとレーカムは
「その手紙、そんなに大事ですか?」
「うん、とても」
「神様と、どっちが大事?」
サナートは少し胸が痛んで、
「もちろん、神様の方が大事です」
「へえ~?」
レーカムがにやにやと笑いだした。サナートが無理をしたのがすぐ分かったのだ。
「それより、
「それを僕は持ってきたんだよ。はい、これ」
レーカムと毎日、
サナートたちがいる旧ハフジャン東部の後方は平和そのものだった。エルジェノム邸を王宮とするなら、サナートとレーカムがいるのは仮の大神殿とでも呼ばれるべき神殿だった。古いが造りはしっかりしていて、姫神子のための部屋がついている。大急ぎで掃除され、そこでサナートとレーカムは腰を落ち着けた。
姫神子が来たという知らせが旧ハフジャン領土に伝えられていき、当時の王宮で神官をしていた者がぽつぽつと現われはじめていた。彼らもまとめてサナートたちがいる仮神殿に住んでいた。
姫神子がいると聞いて、活気が戻って来ている。町の有力者が神殿の周りに花を植えることを提案したから、窓の外は美しい花畑になっていた。レーカムと散歩するのに丁度よかった。
レーカムは自らを姫神子の弟子だと言い、衣装も姫神子のものを着用した。そして、実家の優しい
「ねえ姫様、僕もいつか子を産むのかな」
「それはわからない」
「そうなの?」
レーカムは多分、自分が子供を産むかどうか占っている。そしてはっきりと結果が出なかったのだろう。分かる、サナートも子供のころにそういう占いをした事があった。
「占っても分からない。神様以上の運命に出会わなくて、
「ん、うーん……わかんない」
「じゃあ、神が教えてくれるのを待つ?」
「神様はそんなことも教えてくれるの?」
「うん、あるよ。気付くか気付かないかは、レーカム次第だけどね」
「気付く?」
「そうだよ。その人と出会って、初めて自分の気持ちに気付くことってあるよ」
「じゃあ姫様は、アルト・ベレイーゼさんの赤ちゃんが欲しいの?」
「それは私達で決めることで、君が気にすることじゃないよ。ところで、この詩についての解説は八十五点だよ」
「えーっ、百点のつもりだったのに!どうして?」
「ここを間違えているんだ。大地の
後方での時は
神殿の庭に
ギルガドゥ軍が改良した
サナートはその知らせをレーカムと共に聞いた。
「陛下が無事であることが何よりです。あなたも、ご苦労様でした。お茶を淹れさせましょう」
「はっ……」
サナートのねぎらいを聞いて、伝令は引き下がった。彼は別室で茶と菓子が当たるだろう。
戦いについての知識は神官たちの中で神殿騎士に当たる者達が担当している。彼らを呼んで状況を聞いてみようかと考えていた。
そこに、神官たちの間で貴族出身の、指導力のある男が現れた。
「姫神子様にお話しがあります」
「何でしょうか?」
「
「どういうことでしょう」
「神官たちであらかじめ話していたのです。この戦い、負けた時には
そう聞いて、ギルガドゥの偽姫神子ナーミのことが思い浮かんだ。彼女は勝ち誇っているだろう。だがそれも悲しい結果にしかならないのだとサナートは知っていた。
「それについては、私からも神官の皆さんにお話しすることがあります」
「おお、そうですか」
予想外に好感触だ、という顔をした男に、サナートは追うように言った。
「
「は?」
「それについて話しますので、皆さんを集めて下さい」
特にその朝に「偽の女が
「では姫神子は、ギルガドゥにいる偽物の姫神子がその
「はい」
サナートの素直な返事を聞いて、神官たちは口々に勝手に話し始めた。
「そんな、ばかな……その話は作り話では」
「お前は姫神子様の占いを信じない、と言うのか」
「だが、あまりにもできすぎている」
「何を言う、ギルガドゥの情報を知れば済むことだ。冒険者ギルドに行けば、ギルガドゥの偽物のこともわかるはず。姫神子様はなぜ、その女の
ざわめきが最高潮になろうとするとき、神官長の老人がガベルを叩き、その場に
「皆、姫神子の話を聞け。語り終わるまで口を挟んではならぬ」
厳めしい声が響き、サナートは語った。どうやってギルガドゥの王宮からハフジャン東方の奥地まできたのかを。神官たちはひそひそとささやき交わした。
中の一人が手をあげたのを、神官長が指名した。
「今、手をあげたもの。質問しても良い」
その男は名乗ったうえで質問した。
「姫神子様は、敵国の王宮からここに至ったと仰いました。本当ですか?」
「はい」
「つまり、ハフジャン神の
「いや、まさしくその通り!」
サナートが答える前に神官長が
「サナート・ナイスタシア・エイトリ―ナ・ハフジャンこそが真の姫神子!神の
神官長が大声で宣言すると、神官たちはどよめいた。祈り言葉を口にして、神に捧げる
「姫様、神様の
「それが、よくわからないんだ。私は私の思うままに行動してきただけで、それが神の意志だと思ったことはないよ」
「そうなの?神様の意思はわからないんだ?」
「でも、どんな時も神は見てくださると強く感じたよ。特に、ギルガドゥ王国にいる時は」
まわりの神官たちが
偽の姫神子ナーミを神に捧げるための祭りが行われることが決まり、できるだけ正式な手続きを経て、
ナーミに見立てた
各地から騎士たちが神殿に来た。神の
あるとき、
「これが神の
その騎士は若い男で、神官とサナートを見て呆れた風に聞き返した。
「はい。シナポルテの勝利を祝福し、戦死した全ての人が祝福の地に至ったことを告げました。生きている者は今後も励むようにと、
「なんだそれは。それのどこが
神官たちは戸惑っていた。無理もない、彼らの勤めは王宮の傍の神殿で、相手にするのは大人しい貴族ばかりだった。彼のような野性的な騎士と顔を合わせることなどなかった。
サナートは野性味のある
「神は自ら助くる者を助く、といいますよ。あなたが
彼はサナートが口をきいた事に驚いた顔をしたが、すぐに笑いを浮かべて、どこか嬉しそうだった。
「ふうん、
エルジェノムが既に陛下と呼ばれている事に、サナートは喜びを感じていた。
「私はサナートと言い、姫神子などをしています。勇猛な騎士よ、どうか陛下を助けて下さい」
サナートが名乗ると、その騎士はその場に膝をつき、サナートの手を取った。レースのフィンガーレスのグローブをつけた手の甲に、彼はキスをした。それから挑戦的な目つきでサナートを見た。
「美しい姫神子様に
その騎士は名乗りもせず、大股で広間を出ていき、神官たちは胸をなでおろしていた。
「なんでしょう、あの騎士は。無礼な……」
「
「ですが、あんまりな態度でした」
「位が上がればいずれ礼儀を覚えますよ。さあ、皆で陛下の勝利の為に祈りましょう」
サナートの周りは、昔のように姫神子を守ろうとする者達が増えつつあった。彼らの目を盗むようにしてアルトの手紙が届けられ、サナートは自室でそれを開いた。
サナートへ。俺はエルジェノム陛下の部下として戦場に立つことになりそうだ。そのことで気持ちが
その時は、お前はネプティサル王国へ向かうといい。南の国境を渡り、同じ神の神殿に仕えて俺の
手紙を最後まで読んでサナートが実感したのは、サナートが神の
神官長は部下の神官たちを集め、秘密裏に会議を行った。
「陛下が勝利するためには、大公クレニオス殿下に参戦して頂かねばなるまい」
神官長の言葉に異論を唱える者は一人もいなかった。
クレニオス公とは先王ルネブルムの妻の叔父に当たる人物で、ハフジャンの中でもとりわけ重要な地位についていた。彼の助力があれば戦いに勝てるのだと神官長は踏んでいる。
そこで一人、会計担当の文官と親しい者が手を挙げた。
「ですが、クレニオス公は我が軍に既に五千
「なればこそだ。公の心を戦に
いくつかの案が上げられ、夜を
やがて、サナートの元に神官長がやってきた。
「姫神子。少し話しがある」
「はい、神官長様」
レーカムの教育中、人が来て呼び出された先でサナートは神官長のいかめしい態度に少し驚いていた。彼は本来優しい人物で、
神官長は黙り込んでいる。サナートはヴェールの中で考えた。最近のレーカムの話でもして場を持たせようかと思った時、神官長は言った。
「実は姫神子には、
「私が
神官長の言い出したことは、サナートには思いもかけないことだった。
「そうだ。ガシンの野に、また戦いが起こるのだ。そこに姫神子に行って欲しい」
「私が、戦場に?」
「姫神子のことは、神官騎士が必ず守るし、最後方にいて貰う事になる。どうだ?いやか?恐いか?」
神官長は、サナートを
アルトと同じ戦場に行く。サナートは頷いた。
「いいえ、恐くはありません。行きましょう、ガシンに」
「おお、それは助かるぞ」
この時、神官長はハフジャン王国の勝利を確信した。サナートが参戦すると聞いたエルジェノムから旗と盾が送られ、それを持ってサナートは参戦する。あっというまに戦いの支度がされ、戦場まで馬車に乗って移動した。
後方の丘に立てられたテントの中にサナートはいた。レーカムがついてきて、神意の
姫神子の参戦については、アルトも聞いているはずだ。立場は違っても同じ戦場に立っていることに、サナートは男として高揚を感じていた。
「姫様!クレニオス公が参戦しましたよ!」
レーカムがテントに走り込んできて、サナートの手を引いて外に出ようとする。仕方なく彼について、丘の向こうを見晴らした。手前の方がハフジャン王国の軍で、向こうがギルガドゥの軍勢になる。レーカムが指さす方に、赤染めの防具を着こんだ騎兵たちが続々と到着していた。
「あの赤い鎧がクレニオス公の
「かっこいい!」
姫神子と呼ばれていても体は男でできている。レーカムは少年のような声をあげて、遠くの戦場を見ていた。
「レーカム」
「はい」
「君は剣を握りたい?」
「神がそうを望むならそうします」
「でも、ここにいるなら剣を取る運命ではないね。神はレーカムに祈って欲しいんだと私は思うよ。陛下の力になるように、テントの中で神に祈りを捧げようか?」
「はい、姫様」
二人でテントの中に戻り、サナートが介添えをしてレーカムが主体となって祈り言葉を捧げていく。
サナートが知っている戦いは
二人が祈りを捧げている間に、
「ギルガドゥ王の首を取れ!」
「陛下を守り
ギルガドゥの王直属の堅固な守備隊と、クレニオス公の
王を失い、じわじわとギルガドゥの軍が散っていく。戦勝の
エルジェノムは戦勝の荒野をゆったり馬を歩かせ、参戦したクレニオスと馬を並べた。
「
エルジェノムが声をかけると、クレニオスは彼自身が王であるかのように頷いた。この風格は、まだエルジェノムにはなかった。
「陛下におかれては、ご
「それは
「それは、ギルガドゥの女を
つまらないことを呟くようにクレニオスは言った。
「女は国に返した。それに、聞けば姫神子様までもが
「ああ。姫神子のサナートなら、あの丘の天幕にいます」
「会いに行こう。戦勝の知らせを持ってな」
姫神子の二人の熱のこもった祈りが終わった時、日は西に傾いていた。サナートが祈り疲れたレーカムを横にしてテントの外に出ると、王と大公が
「これは……お待たせしたようで、失礼いたしました。お声掛け下されば、もっと早く出てきましたのに」
かしこまるサナートに、クレニオスが声をかけた。
「よいのだ、姫よ。そなたが参戦せねば、私もここにはいなかった」
「恐れ多いことでございます」
「予も、そなたが参戦すると聞いた時は驚いた。だが、何ゆえだ。神の為にか?」
サナートはその場に一礼した。王と大公に、アルトのことをどう説明すればいいか少し迷った。
「落ち延びた先で婚約者ができました。その方と同じ戦場に立てるのがうれしかったのです」
「ほう、婚約者?」
「はい」
サナートの素直な返事を聞いたクレニオス公は、質問した。
「というと、今後は姫神子を辞退するる気かね?」
「いずれは」
「ほう、予の王冠授与はレーカムになるのか?」
「はい、そうなるでしょう」
「そうか。だが、あいつの修行は足りているのか?」
「ご安心ください。少しおてんばですが、陛下に王冠を授けるのは自分だと思って熱心に修行を積んでいます。私はお呼びではないようですよ」
姫神子として交替したいことを、サナートはエルジェノムとクレニオスに伝えた。サナート自身は先王ルネブルムの姫神子だったのだから、新王の御代に姫神子が交替するのは自然なことだと考えていた。エルジェノムは辞意について頷き、了解した。
勝利した王は王都フルージュへと
王都フルージュで
レーカムがエルジェノムの頭に王冠を乗せる様子を、サナートは神官の列で見つめていた。神殿からは
「サナート様は、いつご結婚されるのですか?」
正式に姫神子となったレーカムが、私的な部屋でヴェールを脱いで質問する。十代の少年が薄化粧をして少女のような顔立ちをしていて清かった。
彼もいつか恋をすることがあるだろうか?サナートはあっさりと頷いた。
「近くの神殿でもう済ませましたよ」
「僕が祝福したかったのに」
「大貴族でもないのに姫神子が来るなんて、おおげさですよ。そこの神殿の神官の方も、とても良い方でしたよ」
帰り支度をするサナートのそばに、レーカムが寄って来た。
「サナート様。またここに来てくれますか?」
「もちろん。あなたは友達ですからね」
レーカムがほっとした顔をしたのを見た。その気持ちには覚えがある。
サナートが姫神子をしている時に一番あこがれたのが、友達をつくることだった。レーカムの友人になれば、彼の心の
これからレーカムはエルジェノム王とハフジャン王国の為の占いをして、
サナートが神殿を出ると、門の所に見知った人影があった。
「アルト。きてたの」
「ああ」
アルトは宮廷騎士として返り咲いていた。ベレイーゼ家の
「ギルガドゥの姫神子が処刑されたそうだ」
知らせを聞いて、サナートは
「しかたない。あの女は自ら火の中に飛び込んだのだから、こうなることは分かっていた」
アルトはあくまで冷たい物言いをしたが、すぐに語調を変えた。
「うちの騎士団長が、お前に会ったことがあると言っていた。覚えはあるか?」
「ん?うーん、何て言ってました?」
「勇猛な騎士よ、どうか助けて下さい、と姫神子から言われたそうだ」
「ああ、多分シナポルテの出身の方ではないですか?受け答えからすると、あまり神官と縁のない方のようだったので、助け船を出したのを覚えています。確かシナポルテは勝っていませんでいたか?」
「そうだ。確かにうちの将軍は勝つのがうまい。最後の決戦の時、
「その団長の名前、知らないんですよね。名乗る前に行っちゃったので」
「あの方らしい」
笑い合って、アルトがサナートの手を握った。
隣の背の高い
「このまま帰ろう。馬車は家に戻す」
二人で歩きたがっているアルトに、サナートも
「帰りが遅くなって夕食が冷めても?」
「冷めてもだ」
笑って、二人で神殿の門を潜り抜けて王都の邸宅までの帰路につく。ベレイーゼ家の僕が用を聞きに来たのをそのまま帰し、新婚夫婦はのんびりと王都の中を散歩ついでに帰宅した。