目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
第2話

「アルトへ、私は旧ハフジャン王都フルージュにいて、これから西にあるギルガドゥ本国に行きます」

 サナートが手紙で現状を恋人に教えても、精霊せいれいが持ち帰って来るのはありふれて咲く菊や薔薇ばらの花弁ばかりだった。どちらも親愛と愛情を示すものだけど、言葉の返事がなかった。

 それでもアルトはサナートを思っている、とサナートは信じようと悲しく思った。それがこれからの心の支えになる。偽姫神子ナーミと共に、サナートは今日ギルガドゥ本国へ旅立つ魔獣まじゅう車に乗る。

 気が重かった。碧玉へきぎょく占星盤せんせいばんを持って行けないし、あまり移動が好きじゃなかった、逃げる時のことを思い出してしまう。やっとのことで落ち着いたハトヤで、アルトの傍でずっと隠れたままでいい、小さな幸せがハトヤにはあった。

 あきらめて車に乗り込むと、すぐナーミがからかうような口調でサナートに訊ねた。

わたくしの使いの神官様は、まだ姫神子の生年月日を話す気にならないの?」

「そんな事は知らないよ」

「そう。別にいいけど、候補の日はこちらでも考えてあるし」

「なら、それを使えばいい」

「本物に近い方が都合がいいし、丁度あなたがそこにいるじゃない」

 何もかも全てを自分の都合にあわせて考える、ナーミのような身勝手な人物を知らないわけではない。ただ、今回は彼女をけられなかった。

 サナートが答えずにいると、ナーミはつまらなさそうに小さな欠伸あくびをした。

「だんまり?それもいいけれど」

 ナーミはつまらなさそうに車の窓の外を眺めている。ギルガドゥで流行のドレスを着た、一流の貴婦人きふじんに見えた。

「ああ、これでやっと本国に行ける。旧ハフジャンみたいな田舎いなかはうんざり。ギルガドゥ王都の大通りにある時計塔とけいとうを早く見たい」

「ギルガドゥを知ってるの?」

「やだ、知っているわけないじゃない。わたくしはハフジャンの姫神子なんだから」

 けらけら笑い、それからぼそりと呟いた。

「ギルガドゥも知ってるけど、そのことはもういいの、私は生まれ変わったんだから、姫神子に」

「本物の姫神子様が来たらどうする気でいるの?」

「そんなの決まってる。星を写し取って、成り代わるだけよ」 サナートが眉をひそめるのを見ていたナーミは笑った。

田舎いなかの国の姫神子なんて大したことないのよ。ねえ、姫神子の産まれ日だけでも知らない?」

「さあ。そういうことを知っている者は、もうきましたので」

 ナーミは鼻白はなじろんだ様子で、それ以上は話さなかった。装った爪を見たり、思いついたことを青玉せいぎょく占星盤せんせいばんで占っていた。使い方が稚拙ちせつで、こんな占い師に手玉に取られているのをサナートは見ている事しかできなかった。

 ナーミの言葉通りサナートはギルガドゥ本国の土地を踏んだ。ここで死ぬのか、それともハフジャンに逃げ帰るのか。まだ何もわかりはしなかった。

 モーブロスキの本邸宅ではサナートをナーミの従者として扱い、ハフジャンとは違う風俗としきたりにおろおろする様を見て、邸宅の皆がサナートをハフジャンの田舎いなか者だと笑いの種にした。

 サナートは笑われるのを気にする余裕もなかった。ナーミが生贄いけにえになるのがあわれだと思っていて、どうにかならないのか手をこまねいていた。と言って、頼りの綱の占星盤せんせいばんは手元にない。どうやってナーミを救い、ギルガドゥ王国から逃げ出せるだろう?

 ハフジャン神が生贄いけにえだと示したナーミは、ギルガドゥ貴族の本邸宅から毎晩のように社交界に出かけていた。彼女は得意絶頂でいた。この頃ではあまりサナートのことを気にかけてもいなかったし、鑑定かんていに出された占星盤せんせいばんの代わりのちゃちな玩具でサロンの婦人たちを占って人気が出ていた。

 そんなナーミにあごでこき使われ、やっと取れた休みの日に精霊便せいれいびんの為に紙とペンを買い、アルトに手紙を書いた。

「ギルガドゥは静かだよ、姫神子はどちらも元気。毎日夜会なのに体力あるよね、私は夜は寝てるけど。アルトはどうしてる?」

 これに対する返事がギルド長の筆跡ひっせきだった。

「早く逃げてください」

 サナートは手紙を見て考え込んだ。一体どういうことなのか?それ以上のことが書いていない。

 サナートの手元に占星盤せんせいばんがあれば読み解くことができた。けれど占星盤せんせいばんは手元にないし、こうした場合の状況の予測の仕方も何も考えていなかった。

 姫神子の生年月日をナーミに教えずに逃げた場合、ナーミはモーブロスキに命じてサナートを追わせるだろう。とても逃げ切れる気がしなかった。

 ギルド長の返事が書かれた紙を暖炉だんろで燃やす。それから、どう動くべきかを考えたけれど、うまい思い付きがなかった。こういう時にどう行動するのか教育を受けていなかったし、どこへ行きたいという当てもなかった。

 そこに、夜会に出かけていたナーミが戻って来た報せが聞こえた。

「ただいま、サナート」

 ナーミが帰宅して、一番にサナートに会いに来たのは珍しかった。

「どうしたんです?」

「この占星盤せんせいばんが本物だと鑑定かんていがついたの」

 自信満々にサナートの前に、自分が本物である証拠の青玉せいぎょく占星盤せんせいばんを見せた。

 それが偽物にせものだとサナートには一目でわかった。自分がかつて持っていたものによく似ているが、本物ではない。けれど何も言えなかった。さもそれが当たり前というかのようにナーミは得意そうな顔をして、サナートがれた茶を美しい形で飲んだ。

「だから明日、急にだけど王宮に行くことになったのよ。エミミと準備してくれる?」

「わかりました」

 こうしてサナートは、旧ハフジャンの姫神子でありながらギルガドゥ王宮へと行くことになった。エミミと協力してナーミの支度を準備しながら、ギルガドゥの王と会うことはないと思っていた。王と面会するのはナーミで、サナートではない。控えの間にいれば終わるだろう。

 明日の準備をしながら、エミミが感極かんきわまって溜息をついた。

「ああ、本当にほこらしいわ……ナーミ姫様がついに陛下にお会いできる時が来たなんて。姫様が現れた時から普通じゃなかったもの。陛下に相応しいわ、ねえ、そう思わない?」

「そうだね」

 ギルガドゥの王の手に掛かったら、もう助けようがないのがわかる。ナーミは本当に生贄いけにえにされる。他の誰でもないハフジャン神が、姫神子であるサナートの占いにそう示したのだから、そうなるに決まっている。サナートが浮かない顔で準備をしていると、不機嫌だと思われたのか、エミミに見咎められた。

「なによ、うれしくないの?」

「え?いや、うれしいよ、もちろん、うれしい」

「本当?」

 疑わしいものを見る目で見られた。まさかエミミに自分が本物の姫神子だとサナートが話しても、下手な冗談だと思われるだけだった。

 翌日は朝の三時に起きて、風呂、美容、化粧、と始まる。使用人たちは大忙しで、美容師も金をかけて一流の者が呼ばれていた。ナーミは隅々まで磨き上げられ、装われた。その時が近づくにつれて、ナーミの機嫌はむしろ悪くなっていった。

 機嫌が悪くなって当然だとサナートは分かっていた。ナーミは偽の姫神子で、本物かどうかを試す審査しんさがこれから王宮の王の前で行われる。そしてそれはナーミのような並みの占い師が先に占って結果をどうこうできるものではないのは明白だった。

 王宮の控えの間に到着した時のナーミの機嫌は最悪で、王の御前に行くための衣装では部屋の中を歩き回ることも不自由なのか、青白い顔で椅子に座って扇をぱちぱちと始終しじゅう鳴らし、きつい声でエミミをかわいそうなほど叱りつけた。

「早くあれを持ってきて!なんてこと、気が利かない!」

 これから一国の王と会い、だまし抜かなければならない。その恐怖と戦っているのがサナートには分かった。逆にサナートは気楽でいた、何もかもハフジャン神に任せていれば自分の結末は目の前に分かるのだと思っている。吉凶きっきょうなどよりも、神にそむかないことが重要だと思っていた。

 エミミが落ち込んだ様子で出て行った後の控えの間を、ナーミはこつこつと椅子のひじ掛けを爪先で叩いていた。それから思い立ったように占星盤せんせいばんを弄り回し、心が散っているときの占いほど頼りないものはない。

「ねえサナート……」

 彼女がそう呟いた時、軽い音を立ててドアが開いた。

「エミミ?早いのね」

 ナーミは声をかけるだけで振り返りもしなかったが、サナートは見た。禿頭とくとうの首の太い体格のいい男が、ゆっくりと靴音を鳴らして悠然ゆうぜんとこちらに歩み寄って来るのを。背後に何人も部下を従えている。

 これがギルガドゥの王だった。

「エミミ、何をして……」

「お前が姫神子とやらか?」

 低いギルガドゥの王の問いかけに、ナーミが全てを悟り、その場に平伏するかとサナートは思った。それだけの間があったが、彼女はにこやかに立ち直り、まるで亡国ぼうこくの姫神子のように微笑むだけに留めた。

「……はい。ナーミ・アルルナ・ビーシェイン・ハフジャンと申します。ギルガドゥのお方には、ご機嫌うるわしく」

 王は連れて来た官僚たちの方を振り向いた。そこに、サナートの素顔を知っている二人の元ハフジャン官僚がいた。文官のガイバリィと、武官のオンワートだ。この二人は少年だったサナートを王宮から逃がすために素顔を見ていたから、サナートのことを覚えている可能性が高い。

 二人はギルガドゥ貴族の使用人としてこの場にいるサナートに気付いているようだった。二人に王が問いかけた。

「姫神子に間違いないか?」

 二人とも、目を見かわした。ナーミは青ざめて二人の官僚を見ていた。大きな欲望に目が眩んで気付かなかったのだろうか、元ハフジャン王国の官僚がギルガドゥの王宮に務めていることが想定外だ、という顔をしていた。

 けれど、サナートもガイバリィとオンワートがそろっているのを知らなかった。ナーミの前で、兵士が槍を交差させた。ひとかけらでも問題があればこの場で突き殺す気でいるのがわかり、流石の彼女も青ざめていた。

 ガイバリィとオンワートは、ナーミの様子に気付いていなかった。二人はほんのかすかに頷きうなずき合い、文官のガイバリィが静かに答えた。

「たしかに、姫神子にございます、陛下」

「うむ」

 王は満足そうに頷いて、槍を引いた兵には目もくれず、その場にへたりこんだナーミの元に歩いて行った。上から睥睨へいげいして問いかける。

「早速だが、そなた、予の子を産む気はあるか?」

「なぜ、そのような……ことを、聞かれるのですか?」

 命からがらという所だった。やっとナーミは聞き返した。女に子を産ませるだけなら、王なのだから女の了解を取らなくてもできるはずだった。ナーミの問いに、王は重々しく頷いた。

占領地せんりょうちで反乱が起きている。むろん、旧ハフジャン王国のことだ」

「はい」

「旧ハフジャン王国の姫神子であるそなたが予の子を産めば、旧ハフジャン王国の末の民も、予のギルガドゥ王国の支配を納得するであろう。そなたには側妃そくひとして三妃さんひの格、それと土地と年金を与えよう。そなたを見つけた貴族の家は何といったか。その家にも褒美を出さねばな」

 もう決まった事のように言う王を、ナーミはにこやかに微笑ほほえんで見上げた。

「はい、陛下。何もかも陛下の思し召しのままに」

 王はナーミを助け起こすと、二人は連れて立って部屋から出て行った。

 サナートはその場に残され、ガイバリィとオンワートも王の後について出て行った。ナーミが生贄いけにえになることを、サナートは結局止めることはできなかった。そのことについて考えようとした時に、控えの間にすぐ武官のオンワートが戻って来た。おざなりだが姫神子に対する例をして、けわしく非難する表情でサナートを見た。

「なぜここに」

「それは仕事で」

「断ればいい!」

 そんなに大声で叱られるようなことだろうか。それに、オンワートはハトヤでのことを何も知らない。今まで、お互いに死んだものと思って過ごして来たのにこうして顔を合わせて会話しているのが不思議だった。

「断るなんて無理ですよ。ギルガドゥの貴族に逆らったら死ぬのも同然です。できるわけがない」

「だが、どうにかできたはずだ、どうにか、なにか手段があったはずだろう、なにせ君は、姫神子様なんだぞ」

「そうでしたか?そんなことは忘れていましたけれど。今回の事件が起きるまでは」

「聞いた。姫神子様を探して……見つかった」

 オンワートは目で合図をする。サナートは知らんふりをした。

「早く逃げて下さい」

「給料を貰っていないので。慌てて逃げだしたら追われます」

「また面倒なことを……親族が急病で、とでも言えばいい」

「必要のないうそを神は嫌います」

 サナートの返事を聞いて、オンワートはあきれた顔をした。

「それよりも、あの姫神子を名乗る娘に子を生ませるって、本気なんですか」

「ああ、陛下は姫神子を娶り、産まれた子をハフジャン総督そうとくにするつもりだ。それで地方反乱が収まると考えている」

「地方で反乱?初耳です」

「王都では常識だよ。二年前から起きている内乱だ」

「ハトヤでは聞きませんでした」

「田舎では反乱の話をさせない王の命令が出ているからだ。だけど、いつまでこれが続くか。君は知らないのか?」

 地方での反乱なら、ギルド長オヴェストやアルト、ダークンとケイナが知っていたはずだ。まさか、わざと教えなかったのか?サナートと同じ感想をオンワートも感じたようだった。

「とにかく逃げないと。当座とうざの金を渡します」

「さっきの偽の姫神子は、どこまでやると思いますか?」

「さあ、最後まで演るだろう。あの子は自ら神の歯車に取り込まれているように見える」

 神の歯車に取り込まれるというのは、神の道具になって死のうとしている、というハフジャン王国由来の言葉だった。サナートは神殿で姫神子をしている間、神の道具であることをいつも意識していたし、今もそうだった。オンワートが逃げろというのは、神の道具になり捧げられる生贄いけにえにはなるなと忠告している。ギルド長オヴェストが言うのも同じことだろう。

 逃げようが逃げまいが、サナートには同じことだった。なぜなら全てが神のてのひらの内にあるのだと分かっているからだった。なら、どこにいようと同じこと。

「さあ、これを。急いで隙を見て」

 オンワートが財布ごとサナートに押し付けた。仕方なくサナートが財布をしまった。丁度そこに、出かけていたエミミが戻って来たので、オンワートは咳払いをした。

「とにかく、そういうことですから」

 とってつけたように言い、エミミに目礼して控室を出て行った。

 エミミはサナートに訊ねた。

「今のは誰?姫様はどこ?」

「姫様は陛下の元にいる」

 エミミは驚いた顔をした。サナートが起きたことを話すと感激し、馬車まで取りに行ったクッションブラシを鏡台の上に置いた。今日この日にギルガドゥの王宮に居ることを誇らしく思っているようだった。

「王様の、陛下のご用って何かしら?」

「さあ。私には想像もつかない」

「あんたって本当に性格が悪いよね。姫様に意地悪ばかりして……」

 エミミの言う意地悪とは、サナートがナーミにいちいち戒律かいりつを守らなくていいか聞いていたことを言う。ナーミは日常に疲れたように「そんなの別に、エミミのいいようにして」と答え、姫神子の戒律かいりつは一切守らなかった。

 決まりを守れば神の歯車から抜け出せるという訳ではないけれど、このままだとナーミは神の道具になり、何かのためにささげられる第一の生贄いけにえになる。

 そこでサナートはふと不思議に思った。ハフジャン神は何のために生贄いけにえを欲しているのだろう?偽姫神子という分かりやすい女を必要としているのは、どうしてなのか。祭祀さいしが他国で途切れた話も聞かないし、ギルガドゥ王国は占領せんりょう国に対して自分達の教義を広めるようなことはせず、だからか今まで反乱もなかった。

「エミミは姫様が陛下の元に行けば幸せになれると思う?」

「そうに決まってるじゃない。女なら誰だってそう」

「恋人がいても?」

「子供がいる人は別にしての話だけど、陛下と彼氏なら、私なら陛下を取る」

「男から恨まれる」

「恐くない。だってギルガドゥの陛下だよ?」

 自分が王に選ばれた女のような顔をして、エミミは窓から外を眺めた。高い場所から地上を見下ろし、しばしの王族気分を味わっているようだった。

 かなり待たされてから、ナーミが戻ってきた。自信満々の歩調で、衣服が乱れていたが気にしていなかった。エミミは丁寧にお辞儀して出迎えた。着衣の乱れをそれとなく治しながら、期待した目と口調でナーミに聞いた。

「姫様、陛下は何て?」

「陛下とお話をして、良いことがあったわ。エミミ、城を下がる準備をしてくれる?」

 にこやかに微笑んだナーミを見て、エミミは全てを納得した声で答えた。

「はい」

 エミミが荷物を片付け始めたのを見て、サナートはナーミの傍に行った。もう、ナーミが生贄いけにえになることがけられないのは明白だった。それなら、はなむけに本物に近いものを一つやろうと思っていた。それも結局偽物で、けれどないよりはいい。

「姫神子様」

「あら、何?」

「本物の生年月日を教える」

 サナートがひそやかに告げると、ナーミが驚いた表情をした。

「どうしたの?」

「気が変わった」

「まあ、何でもいいけれど……本物でしょうね?」 

占星盤せんせいばんで確かめればいい。非の打ちどころがないはずだ」

「いいわ。いくら?」

「言い値でいい」

 サナートがこんな事を言ったのは、ナーミ自身に値をつけさせてやりたかったからだ。自分の命の値段を、自分でつける。ナーミは短い間考え、すぐ結論を出した。

「ま、金貨きんか百枚ってところかしらね」

「ギルド銀行に振り込んでくれ、番号は……」

 ナーミが手早く番号を手元に書き留めたのを見て、サナートは頷いて生年月日を教えた。

「イミナールの五年シャンガの月十八日、日の出前。確か?」

「ああ」

「そう。じゃあね、さよならサナート」

 手を振る挨拶をしてサナートはナーミの前を歩み去った。急いでこの場を去らなくてはならなかった。ナーミはモーブロスキに命じてサナートを追わせて抹殺するつもりでいる。ナーミに本物の姫神子の生年月日を教えたサナートを消せば完璧な姫神子になれるとナーミが思っているのが分かっていた。

 お仕着せの貴族家の制服を脱ぐために古着屋に飛び込んで、そこでオンワートの財布から金を出す。全身を一新し、ギルガドゥ王都の冒険者ぼうけんしゃギルドに向かう。ギルドは国の別なく平等に経営されている組織で、各国におおむね受け入れられていた。第二の教会のような勢力と言えばいいだろう。

 逃げろとハトヤのギルド長オヴェストが言うなら、ギルド伝手に伝言があるかも知れない。だからギルドの窓口に行き、声をかけた。

「すみません、いいですか?旧ハフジャンのハトヤの冒険者ぼうけんしゃ白魔術師しろまじゅつしサナート名義に何か届いてませんか?」

「あ、少々お待ちください」

 窓口の者が席を離れていき、サナートはほっと溜息をついて少し窓口に寄り掛かった時、背後からぶつかってきた男がいた。ぶつかって、そのまま寄り掛かって来た。

「動くな」

「え、」

「こいつはアダマンタイト製の刃だ」

 耳の後ろから話しかけられ、かすれて乾いた声が低い。背中にごりっと何かが当たっている。刃?気持ち悪い。

「こいつで心臓を刺されたくなかったら、ついてこい」

 初めて人から刃と共に殺意を向けられ、吐きそうな気持になりながらサナートは頷いた。白魔術師しろまじゅつしとして働いてきて、荒事あらごとをいくつも経験してきていた。目の前で剣を扱うのを見たことは何度もあるけれど、自分がそうされるのは初めてだった。「よし」と男が耳元で囁いて、連れ立って歩くような形でギルドの窓口を離れた。

 そのまま馬車に乗り込んで、進み始める。ギルガドゥの見知らぬ町中をどこへ行くとも分からないまま、馬車はなめらかに進んで行った。

「誰かに言われて来たのか」

「黙ってろ」

 まさか、もうナーミがモーブロスキにサナートを掴まえろと命じたのか?何も分からない。サナートはついに神の歯車にとらわれたのだろうかと、それもいいが、誰のために何の目に遭うのか知りたかった。

 車がこぢんまりとした貴族の邸宅の中に入った。そこの裏口で降りるように促され、降りると裏から中に入れられた。後ろから小突かれるように奥へと通され、そこにこの乱暴なやり方の招待主が待っていた。

「やあ、姫神子様。本物の」

 王宮を下がったばかりのような様子のガイバリィが、そこに立って微笑ほほえんでいた。

「お久しぶりです、ガイバリィさん」

「生きてまた会おうとはね」

 にこやかに握手でもしそうなガイバリィが仕事用のローブを脱いで、そこの椅子の背にたたんで置いた。仕立てのいい上着で、確かにこの男は貴族だった。

 ガイバリィはサナートに椅子をすすめるようなこともせず、部屋の執務机しつむづくえの引き出しから煙草を取り出して一服つけはじめた。

「ええと。何から話そうか……そう。私が、ギルガドゥ王国で文官として働いているのは、ごく当然に、私が祖国ハフジャンを裏切ったからだ、ということを姫様はご存じないでしょう?手元に例の占星盤せんせいばんもないことですし」

 ハフジャン王国を裏切った?この男が。サナートはガイバリィをまじまじと見た。楽しげに煙草をふかして、ガイバリィは笑っていた。

「ルネブルム陛下はあなたを重用ちょうようしていた。なのになぜ?」

「私がハフジャン王国で麻薬の流通に手を染めていて、もうじき捕縛ほばくされる寸前だったことは?」

「初めて聞きました」

 サナートの前で、鳩が鳴くようにのどを鳴らしてガイバリィは笑った。彼はとても楽しい滑稽こっけいなことを話す時のような笑顔でいた。

「もう少しで、手が後ろに回る所でしたよ!このことはオンワートも知らないようで、そこは助かった。ハフジャンの政府内に私の話が出回る前に、私の裏切りによってハフジャン王国が総崩そうくずれになった。幸運でしたよ」

 ルネブルム陛下を裏切った男、ガイバリィ。全ての原因になったのが彼なのだ。サナートの中に、ハフジャンの神殿で暮らしていた頃のやさしい記憶きおくが次々に思い出された。やわらかい微笑ほほえみを浮かべるルネブルム陛下のことを思い出すと、目の前で煙草をふかしているガイバリィがとてもにくくなった。サナートの中に初めて知る感情が生まれていた、にくしみに触れるのは初めてだった。けれど、神と人の間にいて調整役をする姫神子は、感情に任せて行動してはならない。サナートは、

コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?