「アルトへ、私は旧ハフジャン王都フルージュにいて、これから西にあるギルガドゥ本国に行きます」
サナートが手紙で現状を恋人に教えても、
それでもアルトはサナートを思っている、とサナートは信じようと悲しく思った。それがこれからの心の支えになる。偽姫神子ナーミと共に、サナートは今日ギルガドゥ本国へ旅立つ
気が重かった。
あきらめて車に乗り込むと、すぐナーミがからかうような口調でサナートに訊ねた。
「
「そんな事は知らないよ」
「そう。別にいいけど、候補の日はこちらでも考えてあるし」
「なら、それを使えばいい」
「本物に近い方が都合がいいし、丁度あなたがそこにいるじゃない」
何もかも全てを自分の都合にあわせて考える、ナーミのような身勝手な人物を知らないわけではない。ただ、今回は彼女を
サナートが答えずにいると、ナーミはつまらなさそうに小さな
「だんまり?それもいいけれど」
ナーミはつまらなさそうに車の窓の外を眺めている。ギルガドゥで流行のドレスを着た、一流の
「ああ、これでやっと本国に行ける。旧ハフジャンみたいな
「ギルガドゥを知ってるの?」
「やだ、知っているわけないじゃない。
けらけら笑い、それからぼそりと呟いた。
「ギルガドゥも知ってるけど、そのことはもういいの、私は生まれ変わったんだから、姫神子に」
「本物の姫神子様が来たらどうする気でいるの?」
「そんなの決まってる。星を写し取って、成り代わるだけよ」 サナートが眉をひそめるのを見ていたナーミは笑った。
「
「さあ。そういうことを知っている者は、もう
ナーミは
ナーミの言葉通りサナートはギルガドゥ本国の土地を踏んだ。ここで死ぬのか、それともハフジャンに逃げ帰るのか。まだ何もわかりはしなかった。
モーブロスキの本邸宅ではサナートをナーミの従者として扱い、ハフジャンとは違う風俗としきたりにおろおろする様を見て、邸宅の皆がサナートをハフジャンの
サナートは笑われるのを気にする余裕もなかった。ナーミが
ハフジャン神が
そんなナーミに
「ギルガドゥは静かだよ、姫神子はどちらも元気。毎日夜会なのに体力あるよね、私は夜は寝てるけど。アルトはどうしてる?」
これに対する返事がギルド長の
「早く逃げてください」
サナートは手紙を見て考え込んだ。一体どういうことなのか?それ以上のことが書いていない。
サナートの手元に
姫神子の生年月日をナーミに教えずに逃げた場合、ナーミはモーブロスキに命じてサナートを追わせるだろう。とても逃げ切れる気がしなかった。
ギルド長の返事が書かれた紙を
そこに、夜会に出かけていたナーミが戻って来た報せが聞こえた。
「ただいま、サナート」
ナーミが帰宅して、一番にサナートに会いに来たのは珍しかった。
「どうしたんです?」
「この
自信満々にサナートの前に、自分が本物である証拠の
それが
「だから明日、急にだけど王宮に行くことになったのよ。エミミと準備してくれる?」
「わかりました」
こうしてサナートは、旧ハフジャンの姫神子でありながらギルガドゥ王宮へと行くことになった。エミミと協力してナーミの支度を準備しながら、ギルガドゥの王と会うことはないと思っていた。王と面会するのはナーミで、サナートではない。控えの間にいれば終わるだろう。
明日の準備をしながら、エミミが
「ああ、本当に
「そうだね」
ギルガドゥの王の手に掛かったら、もう助けようがないのがわかる。ナーミは本当に
「なによ、うれしくないの?」
「え?いや、うれしいよ、もちろん、うれしい」
「本当?」
疑わしいものを見る目で見られた。まさかエミミに自分が本物の姫神子だとサナートが話しても、下手な冗談だと思われるだけだった。
翌日は朝の三時に起きて、風呂、美容、化粧、と始まる。使用人たちは大忙しで、美容師も金をかけて一流の者が呼ばれていた。ナーミは隅々まで磨き上げられ、装われた。その時が近づくにつれて、ナーミの機嫌はむしろ悪くなっていった。
機嫌が悪くなって当然だとサナートは分かっていた。ナーミは偽の姫神子で、本物かどうかを試す
王宮の控えの間に到着した時のナーミの機嫌は最悪で、王の御前に行くための衣装では部屋の中を歩き回ることも不自由なのか、青白い顔で椅子に座って扇をぱちぱちと
「早くあれを持ってきて!なんてこと、気が利かない!」
これから一国の王と会い、だまし抜かなければならない。その恐怖と戦っているのがサナートには分かった。逆にサナートは気楽でいた、何もかもハフジャン神に任せていれば自分の結末は目の前に分かるのだと思っている。
エミミが落ち込んだ様子で出て行った後の控えの間を、ナーミはこつこつと椅子のひじ掛けを爪先で叩いていた。それから思い立ったように
「ねえサナート……」
彼女がそう呟いた時、軽い音を立ててドアが開いた。
「エミミ?早いのね」
ナーミは声をかけるだけで振り返りもしなかったが、サナートは見た。
これがギルガドゥの王だった。
「エミミ、何をして……」
「お前が姫神子とやらか?」
低いギルガドゥの王の問いかけに、ナーミが全てを悟り、その場に平伏するかとサナートは思った。それだけの間があったが、彼女はにこやかに立ち直り、まるで
「……はい。ナーミ・アルルナ・ビーシェイン・ハフジャンと申します。ギルガドゥのお方には、ご機嫌
王は連れて来た官僚たちの方を振り向いた。そこに、サナートの素顔を知っている二人の元ハフジャン官僚がいた。文官のガイバリィと、武官のオンワートだ。この二人は少年だったサナートを王宮から逃がすために素顔を見ていたから、サナートのことを覚えている可能性が高い。
二人はギルガドゥ貴族の使用人としてこの場にいるサナートに気付いているようだった。二人に王が問いかけた。
「姫神子に間違いないか?」
二人とも、目を見かわした。ナーミは青ざめて二人の官僚を見ていた。大きな欲望に目が眩んで気付かなかったのだろうか、元ハフジャン王国の官僚がギルガドゥの王宮に務めていることが想定外だ、という顔をしていた。
けれど、サナートもガイバリィとオンワートが
ガイバリィとオンワートは、ナーミの様子に気付いていなかった。二人はほんのかすかに
「たしかに、姫神子にございます、陛下」
「うむ」
王は満足そうに頷いて、槍を引いた兵には目もくれず、その場にへたりこんだナーミの元に歩いて行った。上から
「早速だが、そなた、予の子を産む気はあるか?」
「なぜ、そのような……ことを、聞かれるのですか?」
命からがらという所だった。やっとナーミは聞き返した。女に子を産ませるだけなら、王なのだから女の了解を取らなくてもできるはずだった。ナーミの問いに、王は重々しく頷いた。
「
「はい」
「旧ハフジャン王国の姫神子であるそなたが予の子を産めば、旧ハフジャン王国の末の民も、予のギルガドゥ王国の支配を納得するであろう。そなたには
もう決まった事のように言う王を、ナーミはにこやかに
「はい、陛下。何もかも陛下の思し召しのままに」
王はナーミを助け起こすと、二人は連れて立って部屋から出て行った。
サナートはその場に残され、ガイバリィとオンワートも王の後について出て行った。ナーミが
「なぜここに」
「それは仕事で」
「断ればいい!」
そんなに大声で叱られるようなことだろうか。それに、オンワートはハトヤでのことを何も知らない。今まで、お互いに死んだものと思って過ごして来たのにこうして顔を合わせて会話しているのが不思議だった。
「断るなんて無理ですよ。ギルガドゥの貴族に逆らったら死ぬのも同然です。できるわけがない」
「だが、どうにかできたはずだ、どうにか、なにか手段があったはずだろう、なにせ君は、姫神子様なんだぞ」
「そうでしたか?そんなことは忘れていましたけれど。今回の事件が起きるまでは」
「聞いた。姫神子様を探して……見つかった」
オンワートは目で合図をする。サナートは知らんふりをした。
「早く逃げて下さい」
「給料を貰っていないので。慌てて逃げだしたら追われます」
「また面倒なことを……親族が急病で、とでも言えばいい」
「必要のない
サナートの返事を聞いて、オンワートは
「それよりも、あの姫神子を名乗る娘に子を生ませるって、本気なんですか」
「ああ、陛下は姫神子を娶り、産まれた子をハフジャン
「地方で反乱?初耳です」
「王都では常識だよ。二年前から起きている内乱だ」
「ハトヤでは聞きませんでした」
「田舎では反乱の話をさせない王の命令が出ているからだ。だけど、いつまでこれが続くか。君は知らないのか?」
地方での反乱なら、ギルド長オヴェストやアルト、ダークンとケイナが知っていたはずだ。まさか、わざと教えなかったのか?サナートと同じ感想をオンワートも感じたようだった。
「とにかく逃げないと。
「さっきの偽の姫神子は、どこまでやると思いますか?」
「さあ、最後まで演るだろう。あの子は自ら神の歯車に取り込まれているように見える」
神の歯車に取り込まれるというのは、神の道具になって死のうとしている、というハフジャン王国由来の言葉だった。サナートは神殿で姫神子をしている間、神の道具であることをいつも意識していたし、今もそうだった。オンワートが逃げろというのは、神の道具になり捧げられる
逃げようが逃げまいが、サナートには同じことだった。なぜなら全てが神の
「さあ、これを。急いで隙を見て」
オンワートが財布ごとサナートに押し付けた。仕方なくサナートが財布をしまった。丁度そこに、出かけていたエミミが戻って来たので、オンワートは咳払いをした。
「とにかく、そういうことですから」
とってつけたように言い、エミミに目礼して控室を出て行った。
エミミはサナートに訊ねた。
「今のは誰?姫様はどこ?」
「姫様は陛下の元にいる」
エミミは驚いた顔をした。サナートが起きたことを話すと感激し、馬車まで取りに行ったクッションブラシを鏡台の上に置いた。今日この日にギルガドゥの王宮に居ることを誇らしく思っているようだった。
「王様の、陛下のご用って何かしら?」
「さあ。私には想像もつかない」
「あんたって本当に性格が悪いよね。姫様に意地悪ばかりして……」
エミミの言う意地悪とは、サナートがナーミにいちいち
決まりを守れば神の歯車から抜け出せるという訳ではないけれど、このままだとナーミは神の道具になり、何かのために
そこでサナートはふと不思議に思った。ハフジャン神は何のために
「エミミは姫様が陛下の元に行けば幸せになれると思う?」
「そうに決まってるじゃない。女なら誰だってそう」
「恋人がいても?」
「子供がいる人は別にしての話だけど、陛下と彼氏なら、私なら陛下を取る」
「男から恨まれる」
「恐くない。だってギルガドゥの陛下だよ?」
自分が王に選ばれた女のような顔をして、エミミは窓から外を眺めた。高い場所から地上を見下ろし、しばしの王族気分を味わっているようだった。
かなり待たされてから、ナーミが戻ってきた。自信満々の歩調で、衣服が乱れていたが気にしていなかった。エミミは丁寧にお辞儀して出迎えた。着衣の乱れをそれとなく治しながら、期待した目と口調でナーミに聞いた。
「姫様、陛下は何て?」
「陛下とお話をして、良いことがあったわ。エミミ、城を下がる準備をしてくれる?」
にこやかに微笑んだナーミを見て、エミミは全てを納得した声で答えた。
「はい」
エミミが荷物を片付け始めたのを見て、サナートはナーミの傍に行った。もう、ナーミが
「姫神子様」
「あら、何?」
「本物の生年月日を教える」
サナートがひそやかに告げると、ナーミが驚いた表情をした。
「どうしたの?」
「気が変わった」
「まあ、何でもいいけれど……本物でしょうね?」
「
「いいわ。いくら?」
「言い値でいい」
サナートがこんな事を言ったのは、ナーミ自身に値をつけさせてやりたかったからだ。自分の命の値段を、自分でつける。ナーミは短い間考え、すぐ結論を出した。
「ま、
「ギルド銀行に振り込んでくれ、番号は……」
ナーミが手早く番号を手元に書き留めたのを見て、サナートは頷いて生年月日を教えた。
「イミナールの五年シャンガの月十八日、日の出前。確か?」
「ああ」
「そう。じゃあね、さよならサナート」
手を振る挨拶をしてサナートはナーミの前を歩み去った。急いでこの場を去らなくてはならなかった。ナーミはモーブロスキに命じてサナートを追わせて抹殺するつもりでいる。ナーミに本物の姫神子の生年月日を教えたサナートを消せば完璧な姫神子になれるとナーミが思っているのが分かっていた。
お仕着せの貴族家の制服を脱ぐために古着屋に飛び込んで、そこでオンワートの財布から金を出す。全身を一新し、ギルガドゥ王都の
逃げろとハトヤのギルド長オヴェストが言うなら、ギルド伝手に伝言があるかも知れない。だからギルドの窓口に行き、声をかけた。
「すみません、いいですか?旧ハフジャンのハトヤの
「あ、少々お待ちください」
窓口の者が席を離れていき、サナートはほっと溜息をついて少し窓口に寄り掛かった時、背後からぶつかってきた男がいた。ぶつかって、そのまま寄り掛かって来た。
「動くな」
「え、」
「こいつはアダマンタイト製の刃だ」
耳の後ろから話しかけられ、
「こいつで心臓を刺されたくなかったら、ついてこい」
初めて人から刃と共に殺意を向けられ、吐きそうな気持になりながらサナートは頷いた。
そのまま馬車に乗り込んで、進み始める。ギルガドゥの見知らぬ町中をどこへ行くとも分からないまま、馬車はなめらかに進んで行った。
「誰かに言われて来たのか」
「黙ってろ」
まさか、もうナーミがモーブロスキにサナートを掴まえろと命じたのか?何も分からない。サナートはついに神の歯車に
車がこぢんまりとした貴族の邸宅の中に入った。そこの裏口で降りるように促され、降りると裏から中に入れられた。後ろから小突かれるように奥へと通され、そこにこの乱暴なやり方の招待主が待っていた。
「やあ、姫神子様。本物の」
王宮を下がったばかりのような様子のガイバリィが、そこに立って
「お久しぶりです、ガイバリィさん」
「生きてまた会おうとはね」
にこやかに握手でもしそうなガイバリィが仕事用のローブを脱いで、そこの椅子の背に
ガイバリィはサナートに椅子をすすめるようなこともせず、部屋の
「ええと。何から話そうか……そう。私が、ギルガドゥ王国で文官として働いているのは、ごく当然に、私が祖国ハフジャンを裏切ったからだ、ということを姫様はご存じないでしょう?手元に例の
ハフジャン王国を裏切った?この男が。サナートはガイバリィをまじまじと見た。楽しげに煙草をふかして、ガイバリィは笑っていた。
「ルネブルム陛下はあなたを
「私がハフジャン王国で麻薬の流通に手を染めていて、もうじき
「初めて聞きました」
サナートの前で、鳩が鳴くように
「もう少しで、手が後ろに回る所でしたよ!このことはオンワートも知らないようで、そこは助かった。ハフジャンの政府内に私の話が出回る前に、私の裏切りによってハフジャン王国が
ルネブルム陛下を裏切った男、ガイバリィ。全ての原因になったのが彼なのだ。サナートの中に、ハフジャンの神殿で暮らしていた頃のやさしい