「姫様、こちらです」
サナートは急いでいた。傍付きの使用人の女の表情がこわばっていた。
サナートは少年でいながら神殿と国に選ばれた姫神子としてこのハフジャン王国の
頬を傍付きの女からタオルで拭われたのは、落としたばかりの化粧がまだ残っていたのだろうか。
「さ、こちらに……」
「待ってくれ。これも置いて行くのか?」
「それこそ、持って行くのは危険です」
サナートは私用の
女が、サナートの肩を支えて説き聞かせた。
「よいですか姫様、これからは人前で
「どうしても?」
「ぜったいに駄目です。あなたの命に関わります、あなたはこれから姫神子ではなく、ただ一人の少年サナートになるのです」
説き聞かせられ、サナートは歩きなれた姫神子殿のなかをいそぎ足で逃げていた。
サナートのいるハフジャン王国は隣国ギルガドゥ王国にけしかけられた戦いをよく守っていたが、裏切り者が出たために守備に穴があき、そこを突かれた。国が
王宮どころか、この神殿もじきに敵国ギルガドゥ王国の手に落ちる。軍勢は目前に差し迫っていると聞いていた。サナートは自分をいつくしんでくれた王を置いて逃げるのは本当は嫌だった。
「国は、陛下はどうなるのですか?」
「今はお気になさいますな」
ハフジャン王国の王、ルネブルムのことをサナートは思う。先ほど会った時に、自分が最後に使う事になる武器を選んでいたのだと
サナートをわが子のようにいつくしんだ王を置いて逃げなくてはならないのが苦しかった。
「陛下に言われたのでしょう?早く逃げよと。つまり、姫様はこの先も生きなければなりません」
「わかっています」
あの
何もかも
「こちらです、姫様」
神殿には、これまでよくしてくれていた文官のガイバリィと、武官のオンワートがいた。彼らの部下が逃げ道を案内してくれることになっていた。
「お二方とも、これきりでさらばです。どうかお元気で」
「姫様、お早く」
二人の姿が
サナートはハフジャンの神と人の間の調整役としての姫神子で、世の中のことをいまいち知らなかった。どこに逃げるあてがあるのか、ただ神の示す先にと、サンダルをはいた足を急がせていた。
「サナート。朝だぞ」
「う……」
目の前に光が満ちて、サナートはまぶしさに顔をしかめた。
「起きろ。ダンジョンで今月は何をとるか、仲間と話しあいに行くんだろう?」
低い優しい声と軽い接吻、
サナートはゆっくりと浅い眠りの夢から覚めた。旧ハフジャン王国の姫神子だったころの夢を見ていた。粗末だが清潔な寝床から起き上がり、背伸びをする。
ここは王都フルージュにある姫神子殿ではなく、旧ハフジャンの地方都市ハトヤにある独身向けのアパートの一室で、昨夜は恋人のアルトが泊まりに来ていた。
故郷が
サナートは眠気のまま半分目を閉じたまま洗面台に行くと、アルトが歯をみがいていた。彼はサナートから見てもだいぶ背がたかく、洗面台の鏡の前に前後に並んで、朝のよわいサナートは後ろのアルトの胸板によりかかることもあった。
「アルトは今日は?」
「昼を食べたらギルド長にあいさつをして、宿舎に戻る」
「そっか」
「今朝の占いを立てたらどうだ?姫神子様」
「ああそうか、そうだね……」
サナートはいつもしているように、中古品で買った
運命とは何のことか予想もつかず、サナートはアルトと共に広場に行って屋台で朝食の
「お前も、もう少し食べたらどうだ?」
「私は剣を使って体を動かす訳じゃないからね。歩く分だけで充分なんだよ」
「そうか?もっと重い方がいい」
「なんで?」
「寝てる時にお前を
「
「そうかな」
朝を済ませてから、サナートは支度をした。今回は、紙とペンとインクの用があった。文字を書けないが読める
「多分帰りは昼過ぎになる……」
「落ち込んでるのか?」
「だって今日はこれでアルトと会えなくなるだろ?」
「そんな顔をするな。これっきりという訳じゃないんだから」
「そうだけど」
軽いキスをして、玄関先で別れた。
サナートはギルドで仲間たちと会い、今月は何をとるか話し合いをした。一日で
昼過ぎに仲間で昼食を食べに行き、仲間の一人が
その帰り道のことだった。サナートはいつもしているように帰りがけにギルドの掲示板を見た。新聞が張り出されていて、世間の情勢を知るのにちょうどいい。そこに、今日は「旧ハフジャン王国の姫神子を
サナートは、その旧ハフジャン王国の姫神子だった。こんなニュースは六年ぶりに見る。ギルガドゥ王国から探される。今になって?国が
サナートは五歳の頃、胸の
十歳のとき、
それを占いで予見したサナートは、周りの者と共に逃げるのを
こうしてダンジョン・ハトヤの
目立ってはならない、と王都から逃げ伸びて来た仲間にはきつく言われている。五歳の頃に受けた胸の赤い
それにしても田舎のハトヤの新聞にこんなことが書かれるとは、大したことだった。旧ハフジャンの姫神子を探す、ギルガドゥ王国は本気で言ってるのだろうか?ハフジャン王都フルージュと王宮が落とされてから十年後になって、今更。王都を落とした直後は本気で探していなかったのだろうか?
張り出された新聞を見ながらそんなことを考えていると、横に人がやって来た。顔見知りだ。
「ふ~ん、姫神子ねえ……ねえサナート、あんたハフジャンの出でしょ?」
彼女は顔と名を見知っている女
「そうだよ」
「王都のフルージュは行ったことある?」
「住んでた」
「じゃあ姫神子って見たことある?」
「いや?ないな」
「そっか。でもそうだよね。ハフジャンの姫神子って神殿の外に出ないし、お部屋の中にずっといるって話なの覚えてる。そんな子をどうやって探すんだろう?」
「さあ、どうやるんだか、私にはさっぱり」
「だよね。ギルガドゥ王国も今度はなにをするんだか」
「今度って?」
「何、知らないの?ギルガドゥ王国はハフジャン貴族の中の
信じられないものを見る目であきれられて、サナートは決まり悪そうに頭をかいた。
こういうことはよくあった。神殿育ちで
「ああ、酒場の
「
「そうだろうね、子供の頃は神殿で暮らしてたんだよ」
「
「ううん、神殿」
「
「そう?神殿だっていいじゃないか。昔はよかった、春になるとダイエット目的の女神官が増えるんだ。夏までに体を引きしめたい!って」
「えー、ダイエットだからって神殿に入って髪を切るの?」
「そうだよ。だからハフジャンの女の髪は短いし、肌は白いんだ」
「そう、ハフジャン人の肌が白いのってなんで?」
「ハフジャン神を信仰すればわかるよ」
「もー!教えてよ、ケチ!」
これについてはハフジャン神の謎の恵みと言われていて、ハフジャン神を信仰する者の肌が白くなる。何かの神の目印だと言われているが、その理由は分からなかった。ハフジャン神の神殿は時が来れば美容目的の女で溢れ、神殿下層は毎年サナートを楽しませた。
神殿の暮らしはサナートに合っていた。神に祈り、早朝に起きて日没とともに眠る。サナートは神官たちに固く守られ、王族と会う時は少女のように化粧をして女の服装でいたから本体が男だとはあまり思われていなかった。
それなのに、なぜ神殿で姫神子と呼ばれたのか?
サナートの体には性が二つある。男の体で女の性を持つ。
体は男で、性は女だから子供が産めた。男と女、それと両性を持つ子供を。ハフジャン神殿にはサナートと同じ第三の性別を持つ者たちが集められていた。なぜなら、ハフジャン神が両性具有だったからだ。
サナートはハフジャン神殿の血統の中でも筋のいいエイトリ―ナ家の息子の一人で、五歳で神殿に捧げられた。それからはずっと神に祈り、
ハフジャン王国は政治の中枢にごく近い所に占星があり、その占星を担うのが神殿部の第一の仕事だった。占星を行うのは清い姫神子でなければならない決まりがあった。
なのに、それほど危機を感じていないサナートだった。
占星を仕事にしてきたから、毎日自分を占っている。その占いに危機が来る予兆はなかった。
なにより、ハトヤのギルド長オヴェストはハフジャン神を熱心に信仰している信徒で、逃げ伸びて来たサナート一行を何も言わずに匿ってくれて十年たつが、ずっと秘密と共にサナートの生活を守ってくれている。
このギルド長の他にサナートが姫神子だと知っている者が三人いる。そのうちの一人は恋人のアルトで、もう二人はハトヤでのサナートの仮親をしてくれた騎士のダークンと部下で妻のケイナがいる。この人々に何の変事もないならそれで良い。
サナートは仕事帰りに買い物を済ませてアパートの部屋に戻った。
アルトは帰る前に
ヨーグルトとワインでパンをつまみながら、恋人のアルトに手紙を書くのが日課だった。香りのいいイチゴが安く手に入ったのは、ハフジャン神が
「アルトへ、今日はハフジャン王国の姫神子をギルガドゥ王国が探すという新聞記事を見たよ。ハトヤまで知らせるくらいだから本気だろう。様子見をする。アルトはどう?」
恋人アルトはハフジャン王宮の騎士だった父テナー・ベレイーゼが戦場で死に、王都にいたアルトは母と姉がギルガドゥの兵士に
サナートは王都が戦火に飲まれる前にハトヤに逃げていたため、当時の王都の人の苦しみも知らず、長旅で歩きすぎた足に
アルトと出会ったのは、ハトヤのダンジョンの大きな
当時からアルトは低めの切り込みと高めの突きを巧みに組み合わせて名をあげていた。当時は笑わないむっつりした少年で、少し取りつきにくいが性格は素直なのをサナートが見抜き、何かと声をかけていた。アルトが一個年下だとわかってからは、兄になった気分で面倒を見た。
サナートはごく平凡な
やがてパーティーが成果を得て解散しても、何となくサナートとアルトはつるんでいた。サナートは兄としてアルトから認められたのかと最初は嬉しかったけれど、次第にアルトがそういう意味でつるんでいるわけじゃないことが分かってきた。
アルトがサナートを好きなのはわかる。好かれているけれど、兄としてではない。もっと別の個人的な
恋人にならないかと告白された時、サナートは彼を知るために
アルトは警備隊の宿舎で暮らしていた。月に二度サナートの家に泊まりに来ていて、普段は
手紙を送りはするけれど、大抵アルトからの返事はない。サナートが無事で元気なことが分かればそれでいいと考えているのだ、とサナートは思っていた。アルトからの返事がないなら元気という事だろう。たまに果物でも差し入れてやろうか。
サナートは、アルトの
「なあ、どうして私が、男でも女でもないと分かった?」
「匂い」
りりしく
「動物みたい」
「そうか?男から女の匂いがしたらそうだと分かるだろ」
「お前が特別なんだよ」
「ハフジャンの姫神子ほどじゃない」
「そう?」
「俺のは普通。さっき食べたオレンジの匂いくらい、すぐわかるだろ?」
「そういう所が動物みたいなんだよ」
アルトは
アルトを思いながらその日は休み、翌朝支度をして屋台で朝食を食べてからギルドに入った。今日は仲間とダンジョンのどこに潜るか相談する日だった。
「あ、サナート。ギルド指名入ってるぞ」
「え?」
呼ばれて窓口に向かうと、中年男は手元の書類を探し始めた。それはすぐ見つかり、人員徴収用の赤紙の切符だった。
「お前のパーティーにも言っておいた。多分長くなるぞこれは……」
赤紙の切符を受け取る。ギルド指名とは、ギルドが冒険者に指名でやらせたい仕事のことだった。公益性のあるものが多いことになっているが、最近のギルガドゥ王国は元ハフジャン貴族の
「長くなるって、どうして?」
「例のアレだよ。旧ハフジャン王国の、姫神子様の
「ああ、あれ。本気なのか」
ギルド本部がギルガドゥ王国の命令を聞いているなら、サナートの味方をしているハトヤのギルド長が本部決定に逆らえないのは明白だった。
サナートは身を守る気でいた。ここまで隠れて生きのびたのは、ギルガドゥ王国に好きにさせるためではないし、身元がわからないことにかけては自信があった。姫神子をしていた頃は、部屋から出る時は必ず頭からヴェールを被っていたから顔立ちはほんの十数人しか知らないし、逃げる時は姫神子の傍付きの少年を演じ、そのままハトヤまで来た。サナートを姫神子本人だと知っているのは
用紙を貰い、役場まで行き「ギルド指名のサナートです」と言えば、案内された先は元ハフジャン王国出身の
ギルドの職員が冒険者側に声をかけていた。
「これから皆さんはギルガドゥ本部の役人と一緒に、ハトヤ中の神殿出身者の元に行ってもらいます。そこで見つけた神殿関係者に、姫神子様の話をしてくれとたのむのが皆さんです」
ハトヤの役場は柔らかい表現をしたが、サナートが配属された先のギルガドゥ貴族にはっきりと言われた。
「この
「いえ、初耳です」
「だがお前も元からハトヤに住んでいた訳じゃないんだろう」
ギルガドゥ貴族モーブロスキに聞かれ、サナートは営業用の笑顔を浮かべて答えた。
「ええ、まあ。王都が落ちた年に移り住んでます。当時は子供だったんでいまいち。その姫神子って見つかるんですか?」
「違うな、見つけるんだ」
妙に自信のある顔でサナートを見返し、モーブロスキは
それはそうだろう、サナートは奥の間で大切にされていた。人前に出る時は必ずヴェールを被り、おしとやかな少女のふりをしろと躾けられていた。
そんなサナートも今は立派に成人男性で
「おいお前、他に神職の家ってないか?」
「え?……ああそういえば、神殿の騎士団長の家がありますね」
騎士団長の家は、サナートが十五歳になるまで暮らしていた仮親のダークンとケイナの家のことだった。子供も生まれて賑やかにやっているはずだ。
騎士団長の家を訪ねる。ダークンは家にいて、サナートを見て気付いたが、背後にギルガドゥ貴族を連れているのを見て表情を引き締めた。それからサナートに微笑んだ。
「サナートじゃないか。どうした」
「今、ギルガドゥ王国の貴族が来て。ハフジャン神殿に勤めていた人の家を訪ねて回っているんだ」
「そうか」
そこでダークンは、サナートの後をついてきた馬上のギルガドゥ貴族モーブロスキと向かい合った。貴族は馬も下りずに、高い所から見下ろした。
「お前が神殿騎士の元騎士団長か?」
「そうだが」
モーブロスキが、聞く者の神経を引っ掻くような声で確かめた。老いてなお壮健なダークンを眺めまわす貴族の態度にサナートは苛立ちを感じたが、下手なことは言えないしできなかった。
本当にサナートが姫神子なら、ハフジャン王国が健在なら、こんなギルガドゥ貴族なんか
「姫神子の見た目なりと、なにかあれば申すが良い」
「見た目……と言われましても」
「何かあるだろう。絵姿でも持っていないか?」
「まさか、姫神子様の絵姿など、恐れ多い事でございます」
「何かないか?当時はどうだった」
「当時の姫神子様はほんの十三歳であられました。あれから十年が経ちます。今頃あの方は美しい女性に成長していると思いますが、他のことは分かりません」
「お前は騎士団長。姫神子につき従ったのではないのか?」
「妻の腹に子がいたのを姫神子様はご存じでして、それで私どもは姫神子様御一行と別れ、ハトヤに落ち着いたのです。その後のことは知りません」
「ふん、そうか……」
「あれがその時の子です」
ダークンが指差す先に、庭のベンチに座ってナイフを研いでいる息子の姿があった。
「当時、姫神子と共に落ち延びて行った者の名は分かるか?」
「シロンドゥ様がご一緒だったかと」
サナートは少し驚いてダークンを見返したが、彼はそ知らぬふりをしていた。シロンドゥはサナートが初めて
「そうか、では次に行くか」
「はい、次ですね、それじゃあ失礼、ダークンさん」
サナートがギルガドゥ貴族に
こういう目にあわされても、サナートは平然としていられた。占いで変事が起きないと知っていたからでもあるし、占いをすることで神と共にあるのをサナートは意識していた。一人ではなかった。
その日は馬上の貴族と一日中ハトヤの町中を歩き回り、何の成果も出せずに家に帰った。サナートは小さな
「今日は一日くたびれもうけ、一日二
それから十日、サナートはギルガドゥ貴族モーブロスキと一緒にハトヤを右往左往した。まずしい元神職の家に
姫神子と呼ばれたこともあるのに、自分一体何をしているのか。サナートは胸中で自分を
「ふん、つまらん……」
モーブロスキは老人の
けれど結局、何もできはしなかった。サナートは旧ハフジャン出身の
でも本当は、旧ハフジャンの人々の為の占いをしたいと思っていた。その為に必要なのは
サナートの頭の中に、逃げろと送り出してくれたハフジャン王ルネブルムの微笑みがあった。立派な、大好きな陛下だった。あの王のことを思えば、ギルガドゥ貴族に使われるくらい平気だった。
毎日役場で貴族と会い、ハトヤの町中を右往左往し、帰りにギルドで二
その日がきた時、町の人の態度に驚かされた。
馬の前に酔っ払いが立ち、こんな事を言うのだ。
「ハフジャン王弟の行き先知ってるぜ!イゴンダル共和国だ!オラ、
モーブロスキが笑った。
「それは誰でも知ってることだ。誰でも知ってることに、なぜ私が金を払う?姫神子の行き先ならば、
「畜生」
朝の酔っ払いは、そのまま地面に倒れて眠り始めた。その傍にいたエプロンを握りしめた女がサナートに耳打ちした。
「姫神子殿下は旧王都南街で
また新情報だ。サナートは馬上のモーブロスキを振り返ったが、彼は手を横に振った。
こんな風になったのは、ギルガドゥの王が「姫神子の居場所を知る者に
元姫神子サナートはここにいるのに、皆の知っている姫神子とは一体誰なのか、不思議な事だった。
この日はほとんど歩かず、貴族の横に棒立ちになって密告の聞き取りだけをした。中に面白い情報があったのか、モーブロスキが人前で
きつい一日を終わらせてギルドで支払われるのは
「おうサナート、
「ああどうも、ギルド長。ご苦労様です」
オヴェストはサナートを見て、軽くハフジャン式の礼をした。サナートに話しかける時、いつもその仕草をした。
「ギルガドゥ貴族の指名を受けるとは、神殿にいたって本当なんだな」
オヴェストがサナートと、表向きのギルド長と
「そうですね、いましたよ」
「姫神子ってどんな子なんだ?知ってるのか?」
「よく言われるんですが、会ったことなんてないですし。姫神子様が廊下を通る時は人払いがされるか、脇に土下座して頭を上げてはならないんです。まともに姿を見た事のある人なんていないんじゃないかな?」
「そうか、ハフジャンの宝玉と言われる姫神子様か」
それは初耳で、サナートが驚いているとオヴェストは優しい声をかけてきた。
「疲れた顔をしているぞ。今夜は肉でも食え」
オヴェストはおひねりをくれた。こういうことは冒険者をしているとたまにある。人前で受け渡す金額は
買い物を済ませて家に帰ると、テーブルの上に
「えーと。ギルガドゥの王からいやな命令が出されたが、変わりはないか?なんだよのん気だな。問題大ありだよ。姫神子が見つからないと、私のギルド指名がいつまでたっても終わらない」
嘆いてから、おかしな状況になったものだった。姫神子とはサナートのことだ。だからサナートが自分が姫神子だと言わないと、ずっとギルド指名をされ続けることになる。この状況をギルガドゥの王は狙って作り出したのだろうか?ギルガドゥの王と根比べ?偉大なるハフジャン神の意思はどこにあるのか。
とりあえずアルトへ手紙の返事を書いた。ギルド指名は続きそう、姫神子は見つからない。そう書いて送り返した。
この生活に変化が起きる予感は、翌朝の占いに出た「
朝に役場前のモーブロスキの元に行くと、彼は今日はハトヤのあちこちを回る予定らしく馬上にいた。サナートも今日は歩きまわる覚悟をして、ほんの五メートルも歩いた所だろうか。
「ハフジャンの姫神子様にあられる!」
いきなり大声がして、
女の傍に控えている大男が、大声で怒鳴りつけた。
「元はと言えばハフジャン王国の姫神子様である、それを馬上から見据えるとは無礼者め!」
周りは大いにどよめいたし、モーブロスキは慌てて下馬した。サナートは姫神子と名乗る女をしげしげと見た。年のころは20代前半に見えるし、
女はそばにきて礼をしたモーブロスキを見て、成功を確信したのか微笑んだ。
「ギルガドゥの方ですね」
「はっ、姫様」
「
そこで、後ろから大男が何かをナーミに渡した。
「これが私が姫神子であるという証拠の品です」
そこに現れたのは、サナートが愛用していた
ナーミはモーブロスキの視線に気づきながら
「あなた様は
「もちろん。喜んで、ナーミ様」
サナートは驚きながらナーミを見ていた。かなり様になってる仕草だった。一瞬でギルガドゥ貴族モーブロスキを落とした。モーブロスキは馬を使用人に任せ、ナーミの手を取るようにして役場に引き返した。周りを人が避けていくのは、元ハフジャンの土地だから姫神子に敬意があるからだった。五体投地して姫神子を
サナートはギルガドゥ貴族とナーミの後について行き、モーブロスキが彼女をこの建物で最もいい椅子に座らせるのを見た。騒ぎに何事かとギルド長も顔を出し、事態を眺めてサナートに訊ねた。
「あれはなんだ?」
「ああ、あの女の人、ハフジャンの姫神子様だそうです」
それでギルド長オヴェストはどういうことかわかったらしく、笑いかけ、あわてて口元を押さえている。取りあえず、モーブロスキとナーミのやり取りを見守ることにした。
サナートの朝の占いはナーミのことを
「サナート!」
大声でモーブロスキに呼ばれ、仕方なくサナートは群衆の中に入って行った。
「なんでしょうか?」
「お前はこれから、ナーミ姫の身の回りのことをしろ」
「ギルドの指名で働いているだけの
「うるさい。言うことを聞け。ナーミ姫がそうしたいと言っている」
「えっ」
「お前もハフジャン人なら、姫の言うことを聞くんだな」
サナートは驚いてナーミを見た。彼女もにこやかに微笑んでサナートを見返した。
「サナート様。あなたは確か、ハフジャンの神殿の高官でしたね?あなたは
「はぁ、そうですか。でもなぜ、私がここにいると?」
「
サナートの質問に彼女は
占者の暗黒とは、占いが
「しっかりつとめろ」
モーブロスキは報告のためにナーミの前から下がった。
サナートは残された使用人たちと顔を見合わせた。
「私はサナート。
「
「よく分からないです。私はただ、ギルド指名を受けただけ。姫神子の好みなんて知りませんよ」
「神殿には?」
「確かに勤めていましたが、子供の頃の話なので」
「わかった」
ラムジは短く答えて、エミミとリココに指図した。
「エミミ、外からくる馬車に姫を乗せなさい。サナート、馬車は役場の脇につけてある、
サナートはラムジと行動すればよかった。まだ自室に引き取っているギルド長オヴェストを置いて、役場外にある馬車置き場に向かい、馬車を出してゆっくりと役場前につけた。サナートが使者となってエミミの元に行く。
「準備できました」
「姫様、どうぞ」
エミミはすっかりナーミを姫神子だと思い込んでいる口調と態度でいた。ナーミはこの微笑みでギルガドゥの王を手玉に取るつもりでいるようだった。
サナートが知っている姫神子とは神と人の間の調和をとる者のことで、王の機嫌取りをすればいいだけではないことが脳裏でぐるぐると回っていた。
サナートはハトヤの大通りを抜けた先にあるモーブロスキの別荘まで来た。そこで馬車を降り、使用人用の出入口から中に入った。
「あんた、誰?」
「おたくの
「はあ?
「文句はラムジさんとモーブロスキさんに言ってくれ」
とりあえず
「こんにちは。客用の水ありますか」
「水だって?」
「そう。神殿からの客は茶じゃなくて水か白湯で、お茶を欲しがったらあげてもいいけれど」
「けれど、何だ?」
「そういう奴は大抵が偽物だ」
コックは笑い、客用の水を水差しに汲んだ。
「特別な客なら薬草の香料を振るんだが、特別か?」
「ああ、ハフジャン王国の姫神子だって」
「それを早く言え!」
香料が振られた水差しとコップを持って、サナートは廊下に出た。すると丁度エミミがやってくる所だった。
「あら。水?どうしてお茶じゃないの」
サナートを𠮟りつけるので、言い返した。
「神官以上が常飲するのは水か白湯だ。お茶は遠慮する」
「何で知ってるの?」
「昔、神殿で働いていて、そこを姫神子様に買われたんだよ。知ってるだろ」
エミミが黙り込んで恐い顔をした。多分彼女はナーミの気に入る、権威に惚れる娘のほうが操りやすいのをサナートは知っていた。ナーミはこの貴族家からギルガドゥの王宮に乗り込む気でいるのがサナートには分かっていた。元がどこの出身の娘か知らないが、ナーミはとにかく大胆だった。
やがてモーブロスキが呼ばれ、一時間ほど
「サナートさん、話があるの。こっちに来てくれるかしら?」
「男と女の間に間違いがあっては困ります。ここでお願いします」
「そんなに離れていたら相談できないじゃない」
「相談とは?」
「あなたに教えて欲しいことがあるの」
ナーミが
「ねえ、サナートさん、お願い」
「何がですか?」
「姫神子の秘密の話をしたいの」
「姫神子様に秘密なんてありませんよ」
「そんなことない。
「姫神子の生年月日を教えなさい」
いきなり様子が
「姫神子様の、生年月日?」
「そう。それだけが手に入らないの。それさえわかれば、私は完璧にハフジャンの姫神子になれるのに、どうしてもわからないのよ。残念なことにね」
その言葉は、ナーミが姫神子ではないと言っているのも同然だったが、彼女は少しも気にしていなかった。
「もちろんタダとは言わない、お金は払うから。このギルガドゥ貴族の家が払ってくれる」
「そんな
「知らないの?ギルガドゥの王家はハフジャン王宮をそのまま手に入れてして、
政治についてサナートはくわしくないが、クレニオス大公の名前は聞いた事があった。大物だ。サナートが話そうとしないのを見て、ナーミはまた
「ねえ、姫神子はハトヤからどこに行ったの?」
「知らない」
「ネプティサル王国?それとも
「……なぜ私にそれができると?」
「そう
ナーミがサナートの唇に
サナートは唇に押し当てられた
「金はいらないし、秘密も教えない。私はあのギルガドゥ貴族に
「教えてくれないの?」
「知らないんだよ。そんな秘密」
「
「さあね。それより、ヴェールをくしゃくしゃにしたままでいいの?」
ハフジャン神が恐くないのかと、サナートはナーミを驚きの目で見ていた。今まで会ってきた
「別によくない?仮装みたいで楽しかったけれど、この服動きにくくて苦手だし」
「神様のことは恐くないの?」
「だって会ったこともないし、助けて貰ったこともない。それよりお茶が欲しい」
「姫神子の
「なによそんなこと……そんなのどうだっていいじゃない。重要な点は、モーブロスキが
「会ってどうするの?」
「その時決めるし、どうせあなたは
「なぜわかる?」
「モーブロスキを裏切ると後が怖いんでしょ?
ナーミは
「教えなさい。姫神子の秘密を」
「その話はまた今度、考えさせてくれ」
「そう?ゆっくりしてたらギルガドゥ本国に行くことになるけれど」
ナーミは余裕たっぷりの態度で笑っていた。