悠さんの声のトーンから真剣味を感じたけれど、貢が急にそれほど思い詰めた理由は何だろう? わたしがまだ知らなかった何かが起きていたということだろうか……。
「それってどういうことですか?」
「それは……まぁ、アレよ。絢乃ちゃんのことをよく思ってないヤツも、世の中にはいるっつうこと。そういう悪意? みたいなもんからキミを守りたいんだってさ」
「……そりゃ、世の中には色んな意見の人がいるっていうのはわたしも分かりますけど」
たとえば記者会見の様子が、動画サイトで配信された時のコメント。好意的なコメントに交じった批判的な書き込みもわたしは目にしていた。けれど、そんなことくらいで傷付くほどわたしは弱くなかったつもりだ。
……でも、心優しい貢はそれらを目にするたびに、わたし以上に、自分のことのように心を痛めていたのだろう。
「オレも、アイツがそこまで思い詰める必要はねえと思うんだけどさぁ。それがアイツなりのキミへの愛なんだってことは分かってやって」
「……分かりました」
「うん。でも、オレが思うにさぁ。体鍛えてんのはただ単に絢乃ちゃんとアレする時のためなんじゃねえかな、って」
「…………はぁ」
〝アレ〟とはつまり……、そういうことか。
「……っ、いたた……」
絶妙なタイミングで下腹部に鈍い痛みを感じ、わたしはお腹を押さえた。この痛みはよく知っている、毎月必ず来るあの痛みだ。
どうりでこの日、下半身がやたらだるかったわけだ……。
「……絢乃ちゃん、大丈夫? 腹痛む?」
「あ……、大丈夫です。そろそろ来る頃だと思ってたんで」
「あー、あれかぁ。オレも彼女いるから分かるよ。女の子は毎月大変だよなぁ。……ん、待てよ? ああ、そういうことか」
「…………? そういうことって何がですか?」
悠さんが何やら納得したように頷いていたので、わたしは首を傾げた。
「女の子ってさ、生理前は性欲強くなるんだって。だからじゃねえ? ここ数日、絢乃ちゃんがムラムラしてんのって」
「…………えぇっ、そうなんですか!? 知らなかった……」
わたしは悠さんの指摘に、思わず彼を二度見した。でも、同時にそうなのかも、とも思った。だとしたら、生理が終わるまでの数日間はムラムラしなくて済むのかな……。
「――ところで、そろそろ腹減らねえ? 昼メシ、一緒に行く?」
「はい、行きます!」
「じゃあ、オレと浮気は――」
「しませんってば」
「分かった分かった。冗談だって」
* * * *
――悠さんとのランチ中にトイレに行くと、予想どおりナプキンは赤黒く汚れていた。
「やっぱり生理、始まってたか……」
これで彼と迎える初めての瞬間が少し延びたかもしれないと思うと、わたしは何だかホッとしたような、ちょっと残念なような複雑な気持ちになっていた。
* * * *
その翌日、わたしから貢をデートに誘った。品川の水族館に行きたい、と。
「う~~ん、どっち着ていこうかな……」
朝、わたしはウォークインクローゼットの姿見の前で、二着のワンピースを手にして悩んでいた。
生理二日目だったけれど、幸いわたしは生理が重い方ではない。でも彼に心配はかけないように、一応話しておこうと思った。
「どっちみち、今日はまだ誘惑しても意味ないもんね。じゃあおとなしめの方でいいか」
というわけで、清楚系のワンピースを着てデートに臨んだ。
「――そういえば、昨日お兄さまから聞いたんだけど。貢、最近キックボクシングやってるんだって?」
わたしの家の前で彼のクルマの助手席に乗り込むと、エンジンがかかる前にわたしは彼に話しかけた。
夏は薄着なので、わたしにも彼のマッチョさが増していることはパッと見だけで分かった。
「兄がしゃべったんですか? いや、別にいいんですけどね。何か理由お聞きになりました?」
「ううん、特には何も」
本当は聞いたのだけど、別に理由なんて関係なかったのでお茶を濁しておいた。
「どうりで最近、貴方の体つき変わってきたなぁと思ってたんだよね。こないだスーツもまた新調したでしょ? ストレッチ素材の」
「ええ。ストレッチ素材のスーツじゃないとキツくなってきたんで」
「ねぇ、……ちょっと触らせてもらっていい?」
そういえば彼からわたしにスキンシップをしてくれることは多々あったけれど、わたしからのボディタッチは初めてだった。
「え……、いいですけど」
「やったぁ♪ じゃあ、ちょっと失礼」
わたしは運転席へ手を伸ばし、服の上から彼の胸や二の腕を触り始めた。
「わ、けっこう硬いんだね。キックボクシングのトレーニングだけでこんなふうになるものなの?」
大胸筋も上腕二頭筋もカチカチで、見事にビルドアップされている。男性の体ってこんなふうになってるんだなぁ、と
「いえ、それと並行して筋トレもしてますよ。腹筋とか腕立てとか。……絢乃さん」
「ん? なに?」
「絢乃さんもやっぱり、マッチョな男の方がお好みですか?」
胸筋を触る手を止めないわたしに、貢が質問してきた。
「んー、ゴリゴリのマッチョはあんまり好きじゃないけど、これくらいなら。でも、わたしは貴方だったらどんな体型でも好きだよ。お腹が出てても。っていうか見た目は関係ないから」
「そうですか……、よかった」
わたしの返答に、彼は嬉しそうに目を細めた。
彼は自分の体型のことを気にしていたみたいだけれど、見た目は関係ないというのはわたしの本心だ。今は細マッチョな貢だって、中年になればお腹がポッコリしてくるかもしれない。それでもわたしは彼を見捨てたりしないと言い切れる。
「でも、キックボクシングってけっこうハードなスポーツなんですね。僕、もう始めて二ヶ月になるんですけど、トレーニングになかなかついていけなくて……」
「貢、前に運動オンチって言ってたもんね。ムリして始めることなかったのに。でも、それが貴方なりのわたしへの愛なんだよね」
彼がどんな気持ちで格闘技を習い始めたのか、悠さんから聞かされていた。わたしを守りたいから、という気持ちは彼の男性としてのプライドからきたものでもあったのだろう。その気持ちはすごく喜ばしいことだったし、彼女として彼の努力も認めてあげるべきだったのだろう。でも、そこまでムチャをする必要あったのかなというのがわたしの正直な気持ちだった。
「――ところで絢乃さん?」
「なに?」
「ちょっと触りすぎじゃないですか?」
「…………えっ? ああ、ゴメンね!? 触り心地よくて、つい」
困ったように苦笑いしながら指摘され、わたしはハッと我に返った。
男の人の体が触り心地いいなんて、わたしはどれだけ不埒なオンナになってしまったんだろう! やっぱりこれって、悠さんに言われたとおり欲求不満だから?
「……ねえ、貢。わたしの今日の服、どうかな? 昨日買ったばっかりなんだけど。こういう透け感のある服ってどう思う?」
気まずい空気をごまかそうと、わたしは自分のファッションについて彼に感想を求めた。これくらいの透け感なら色仕掛けにならないだろうなと思って着てみたけれど、彼はどう思ったのだろう?
「涼しげで可愛いですよ。それくらいの透け感なら、まだ清潔感があっていいんじゃないですかね。これ以上だとちょっと際どくて、正直目のやり場に困っちゃいますけど」
「えっ、ホント!? こっちにしてよかった……」
「あの……、〝こっち〟というのは?」
「あー……、ううん! 何でもないよ」
結論。透け感は適度にあると清潔感があっていいけど、ありすぎると際どい。少なくとも貢には不評らしい。ということは、もう一着の方は貢の前で着るのはNGということか……。