それからしばらく、わたしと貢の間には微妙な空気が流れていた。とはいってもギスギスした感じはなく、交際そのものが危うくなるようなこともなかったけれど、内心は穏やかではない、という方が正しい感じだった。
桐島家のご両親には、その週の土曜日に挨拶に伺った。貢がわざわざわたしの家までクルマで迎えに来てくれて、代々木に向かっている間に彼から聞いた。やっぱり、ご両親はわたしのことを悠さんから伝え聞いていたのだと。
「両親は絢乃さんにお会いできるのが楽しみだと言っていましたよ。母なんか妙に張り切っちゃって、『今日はウチのキッチンで、絢乃さんと一緒にお料理しようかしら』なんて言ってました。多分、『一緒に夕飯を食べて帰ってほしい』ってことだと思うんで、もしご迷惑じゃなければお付き合い頂けると……」
「別に迷惑だなんて……。わたしも楽しみ♪ 桐島家の一員になれるみたいで」
「それはよかった。母も喜びます」
わたしの返事を聞いた孝行息子の貢も、運転席で嬉しそうだった。
賑やかな家庭の食卓なんて、もう何年ぶりだろう? わたしが幼い頃には祖父母もまだ健在で、両親と祖父母、わたし、そして寺田さんや史子さんも一緒にダイニングテーブルを囲んでいた。でも祖母と祖父を相次いで亡くし、父も亡くなったその頃には、一緒に食事するのは母とわたし、寺田さんと史子さんの四人だけになっていた。もちろん里歩が泊まりにきてくれた時や、貢も夕食を共にすることもあったけれど、二人は〝家庭の一員〟のカテゴリーから外れていたし(貢はわたしの中で、もう家族も同然だと思っていたけど)。
父亡きあと、実質母子家庭になってしまった我が家ではもう、大勢で賑やかな食卓の風景なんて当分思い描けなかったので、正直憧れていた。それに、桐島家の食事風景に加わることで、「将来はこんな家庭にしよう」というイメージが湧いてきそうな気もしていた。
「――父さん、母さん、紹介するよ。この人が篠沢絢乃さん。篠沢グループの会長兼CEOで、俺の彼女。――で、絢乃さん。こちらが両親です」
ごく一般的な二階建て住居である桐島家のリビングで、貢がまずソファーセットのいちばん上座に座ったわたしをご両親に、そしてご両親をわたしに紹介してくれた。
「貢! お前は会長さんを軽々しく〝彼女〟なんて呼ぶんじゃない! ……申し訳ありません、絢乃さん。愚息がとんだ失礼を――」
「いえいえ! わたしは平気です。事実ですから。――お父さま、お母さま、初めまして。篠沢絢乃と申します。貢さんとは、四ヶ月ほど前からお付き合いをさせて頂いております。ご子息には仕事でも助けて頂いてばかりで。こんな頼りないボスによくついてきてくれて、支えてくれて本当に感謝しています」
わたしはキチンとかしこまって挨拶しながら、何だか結婚前の両家顔合わせみたいだなぁと思っていた。
桐島家のリビングは我が家のそれほどの広さはないけれど(むしろ、我が家を基準にする方がおかしいのかもしれない)、キレイに片付いていて、それでいて調度品からは家庭の温もりが伝わってくる、そんな空間だった。
「貢の父、
「貢の母の、
「はい、コーヒー大好きです。ありがとうございます」
「あ、じゃあ俺手伝うよ。会社でいつも淹れてるし。――絢乃さん、僕はちょっと席外しますね」
美智枝さんと貢がキッチンへ行き、わたしは篤さんと二人でリビングに取り残された。
「――絢乃さん……いや、会長さんとお呼びした方がいいのかな。貢は、会社でご迷惑をおかけしていませんか? 不器用な子なので、心配していまして。親バカですね」
篤さんはとても温厚そうなお父さまで、なるほどあの兄弟の父親だわ、という感じを受けた。お母さまと同じくらいご子息二人に愛情を注いでいて、きっと育児にも積極的に参加していたんだろうなと思う。
「いえ、彼は本当によく気が利く人で、何事にも一生懸命なので、わたしは助けられてばかりです。ミスもたまにありますけど、そんなの誰にだってあることですから。わたしがまだ社会のことをあまりよく知らないので、彼を通して色々と学ばせて頂いている感じですね」
「そうですか。それを聞いて安心しました。絢乃さんも大変でしたね。お父さまが亡くなられてから、何もかもが変わってしまわれて。ウチの次男があなたの支えとなれているなら、親としても誇らしい限りです」
「そうですね。父が倒れた時から、貢さんはずっとわたしのことを気にかけて下さって、いつもわたしの気持ちに寄り添って下さっています。彼がいなかったら、わたしはきっと今ごろ父を失った絶望感から立ち直れていなかったでしょうね」
そんな彼だからこそ好きになったのだと、わたしはお父さまに打ち明けた。
「そうですか……。絢乃さん、これからもウチの貢をよろしくお願いします。ふつつかな息子ですが」
「はい、もちろんです」
これじゃ完全に結婚の挨拶だ。そう思うと何だかおかしかった。
「――お待たせしました。絢乃さん、お持たせですけどどうぞ」
そこへ、それぞれ大きなお盆を抱えた貢とお母さまが戻ってきた。貢がコーヒーカップを、お母さまがケーキのお皿を配膳していった。
「絢乃さんのコーヒーは、いつもどおり甘めのカフェオレにしてありますからね。今日はインスタントで申し訳ないですけど」
「ありがと。大丈夫だよ、インスタントも普通に飲むから、わたし」
「ケーキはみんないちごショートだからね、お父さん。絢乃さん、わざわざすみませんね、気を遣わせちゃって」
「いえいえ。みんな同じものなら揉めなくて済むかなぁと思っただけですから」
手土産のケーキを買う時、実は相当悩んだのだ。無難に全部同じ種類で揃えるか、それとも別々の数種類を選んだ方がいいのか。はたまたホールケーキを一台ボンと買った方がいいのか。
でも、後者の二つだとかなりの確率で揉める可能性が高かったので、あえて無難にいちごショートで揃えることにしたのだった。
「いただきます。……あれ? そういえば悠さんは?」
さあ食べよう、と思ったところでふとここに一人足りないことに気がついた。
「あら、絢乃さんは悠とも面識があるんだったわね。今日は仕事が早番だって言っていたから、夕方には帰ってくるんじゃないかしら」
「そうですか。悠さんも頑張ってらっしゃるんですね」
「ええ。飲食業界って大変らしいけど、あの子もお給料安くても文句ひとつ言わずに働いてるわ。やっぱり、目標がある人って強いのかもしれないわね。私も結婚前はそうだったもの」
「お母さま、ご結婚前は保育士さんだったんですよね。貢さんから聞いてます」
「そうなのよ。夫は結婚しても仕事を続けていいって言ってくれたんですけどね、結局退職しちゃったの。銀行員の妻が専業主婦じゃないと、
「そうだったんですね……」
というような女同士の会話を小声で交わしていたら、ガチャリと玄関ドアが開く音が聞こえた。
「……あ、悠さん、帰ってきたみたいですね」
「ただいま。……ってあれ? 絢乃ちゃん、来てたんだ? いらっしゃい!」
「おかえりなさい、悠さん。ご無沙汰してます」
「兄貴、ライン見てないのかよ。俺昨日送ったけど?」
「あ、やっべー。お前からのはまだ見てなかったわ。
――そんなこんなで、桐島家のご家族がやっと全員揃った。