――CM撮影が行われたのは、二月初旬の日曜日だった。
「会長、おはようございます。今日はよろしくお願いします」
その日の朝、スタジオに到着したわたしとマネージャー役の貢を出迎えてくれたのは、広報担当のあの女性だった。そして、彼女の隣には撮影を担当して下さるというカメラマンの男性も立っていた。
「おはようございます。こちらこそ、 今日はよろしくお願いしますね。こういう撮影は初めてなので、色々教えて頂けると助かります」
「本日の撮影にはセリフがありませんので、篠沢会長は自然に動いて頂くだけで大丈夫です。後からナレーションが入る形になります」
「なるほど。分かりました」
――スタジオの控室に通されたわたしは、プロの手によってヘアメイクを施された。メイクは口紅のCMなので、唇にはリップクリームだけが塗られた。
髪型を整えられた後、用意されていた衣装に着替えて準備は完了。廊下で待たせていた貢に声をかけた。
「桐島さん、準備が整ったよ。……どう?」
「可愛いですよ。会長は普段から可愛い方ですけど、今日は何というか、アイドルとかモデルさんみたいです」
「ありがと」
財界ではちょっとした有名人になっただけのわたしでも、化ければ化けるものだ。プロのヘアメイク、恐るべし。
「僕も今日はあなたの秘書ではなく、マネージャーのつもりなので。撮影も見学させて頂きます。途中で何かあれば、遠慮なく撮影にストップをかけますからね」
彼はキスシーンの撮影に不測の事態が起きるのではないかと心配していたらしい。相手役の小坂さんが信用ならないのか、それともわたしのことを信用していなかったのか、どちらだったんだろう?
――でも、そんな彼の心配をよそに、撮影は順調に終了した。
わたしも演技は初挑戦ながら、自然に立ち振る舞うことができ、カメラマンさんや監督さんにも満足して頂けたみたいだ。
問題のキスシーンも、わたしは小坂さんと実際にキスすることなく、寸止めでどうにか収まった。のだけれど……。
「あーあ、残念だったなぁ。君みたいな可愛い子となら寸止めじゃなくて、実際にキスしてみたかったな。また次の機会があれば、よろしくね」
よりにもよって、小坂さんがわたしに色目を使ってきたのだ。これには温厚な貢も不快感を露わにしていた。
「申し訳ありませんが、この方は芸能人ではなく一般人ですので。そういう不謹慎な発言は控えて頂けませんか? あと、次の機会はございませんので。悪しからず」
その剣幕には、小坂さんも怯んでいたけれど、さすがのわたしも驚いた。
* * * *
――翌日の終礼後。わたしは教室で帰り支度をしながら、里歩と話していた。彼女も学年末テスト前ということで、部活はお休み。もうすぐ貢が迎えに来るので、「あたしも久々に桐島さんに挨拶して帰るよ」ということになった。
「――絢乃、昨日は初めてのCM撮影おつかれ。無事に終わってよかったね」
「うん。小坂さんに迫られた時はどうしようかと思ったけど、桐島さんが撃退してくれたからよかった」
「『撃退』って、小坂リョウジは害虫かい。あの人気イケメン俳優がヒドい言われようだわ」
「うん、ゴキブリ並み」
小坂リョウジさんのファンだという里歩があきれたように笑うと、わたしは辛辣に返した。
言っておくけれど、わたしの恋路をジャマする人は人気俳優だろうと将来有望な政治家だろうと容赦はしない。それがわたしのポリシーだ。
「そこまで言うかね。でも、そうだよねぇ。小坂リョウジがファーストキスの相手っていうのはちょっといただけないか。だってアンタ、桐島さんの方がいいもんねぇ」
「…………うん、それはそのとおりなんだけど。そんなに茶化さないでよ。わたし今、本気で悩んでるんだから。彼との距離がなかなか縮まらないこと」
貢がわたしの初恋の相手だということは、里歩もよく知っていた。
茗桜女子はお嬢さま学校ではあるものの、こと男女交際についてはオープンだ。他校との交流もあり、里歩みたいに彼氏がいるという子も珍しくなかった中で、わたしは男性に対して奥手だったせいもあるのか恋自体したことがなかったのだ。だからこそ、好きな人との距離の縮め方が分からなくて悩んでいた。
「ふーん……。っていうか、アンタたちまだ付き合ってなかったの? もう知り合って四ヶ月っしょ? もうとっくにくっついてると思ってた」
「だって、今はそれどころじゃないもん。仕事いっぱい抱えてるし、経営の勉強も学校の勉強もあるんだよ? とてもそんな心の余裕なんか」
「まぁ、アンタはそうだろうね。人を好きになったのも初めてだし、どう行動していいか分かんないっていうのはあたしも理解できるよ。じゃあ、桐島さんの方は? 彼は一応恋愛経験ありそうだし、そこんところどうなわけ?」
「えっ? ……う~ん、どうって言われても……。真面目な人だし、上司と部下っていう関係上、いつも一歩引いてる感じだからなぁ。彼がホントにわたしのこと好きなのかどうかもまだよく分んないし」
彼もわたしのことが好きらしい、というのは里歩が以前くれた情報のみで、本人に直接確かめたわけではないし、わたしには確かめる勇気もなかった。でも、前日のうろたえぶりからすると、里歩の推測はあながち外れてもいないような気がしていた。
「……あ、それ確かめたいなら今の時期チャンスなんじゃない? ほら、もうすぐバレンタインデーだしさ」
「バレンタインデーか……。そういえばそんな時期だね。忙しくて忘れかけてたけど」
昇降口へ向かって歩いている途中で、里歩がまたもやナイスな提案をしてくれた。恋する人にとって、バレンタインデーは絶対に外せないビッグイベントだ。
初等部から女子校に通っていて、これまで恋愛経験ゼロだったわたしは〝女子校バレンタイン〟しか知らずに育ってきた。具体的にいうと、同級生や後輩の女の子からチョコをもらったり、里歩と友チョコを交換したり。男性にチョコをあげたのは寺田さんと父くらいのものだ。
でも、この年は違っていた。生まれて初めての、好きな人=本命の相手がいるバレンタインデー。これはわたしにとってすごく特別な意味を持っていて、わたしの恋のこれからを左右する日といっても過言ではなかった。
「でしょ? もう思い切って告っちゃえ! バレンタインデーに手作りチョコでも渡してさ、桐島さんにアンタの気持ち伝えて。そのついでに彼の気持ちも確かめたらいいんじゃない?」
「そんな、『告っちゃえ』って簡単に言うけど」
「んじゃ、告るのは別にいいとして、チョコだけでもあげたら? 桐島さんってスイーツ男子だし、絢乃の手作りチョコなら喜んで受け取ってくれると思うよ」
「手作りねぇ……。やってる時間あるかなぁ」
里歩の言うとおり、彼は甘いものに目がないし、わたしからなら受け取らないはずがない。ただ、手作りというのは……。会長に就任してからというもの、色々と多忙になったためあまり時間が取れなくなっていたのだ。
「そこはまぁ、来週はテスト期間だし。休みの日もあるし? あたしも部活休みだし準備とか手伝ってあげられるから」
「うん……、じゃあ……考えてみようかな」
「――『考えてみる』って何のお話ですか? 絢乃さん」
「わぁっ、桐島さん! ビックリしたぁ」
「お……っ、お疲れさま。早かったねー」
「桐島さん、こんにちは。今日も絢乃がお世話になります」
「こんにちは、里歩さん。今日はたまたま道路が
わたしの笑顔が
「ああ、『もうすぐバレンタインデーだね』って話してたんです。ね、絢乃?」
「うん。……桐島さん、あの……。あ、そろそろ行かないとね。寒いし、ママが待ってるし」
「そうですね。では里歩さん、我々はこれで」
「はーい☆ 絢乃、また明日ねー♪ 仕事頑張って!」
「うん、また明日」
里歩に手を振ると、彼女が「絢乃、ファイト!」と言っているのが口の動きだけで分かった。――「ファイト!」って何を? 彼とのこと?
「――そういえば先ほど、里歩さんとバレンタインデーのことで話されていたんですよね」
オフィスへ向かうクルマの中で、貢が改めてわたしに訊ねてきた。
「あー、うん。まぁ、そんなところかな」
厳密にいえばちょっと違ったのだけれど、正確に伝える勇気がわたしにはなかった。
「で? それがどうかしたの?」
「えーと……、絢乃さんは、チョコレートを差し上げる相手っていらっしゃるんですか? その……義理も含めて。確か小学校から女子校ですよね?」
「ああ、そういうことね。去年まではパパにもあげてたかな。学校では里歩に友チョコでしょ。今年はあと寺田さんと、村上さんと山崎さんと広田さん、あと小川さんにも。桐島さんがお世話になってるからね」
名前を挙げたほとんどが、会社でお世話になっている人ばかりだ。当然そこには同じ女性である広田常務と小川さんも含まれていた。
「はぁ、そんなに……」
彼はそこに自分の名前が入っていなかったので、「僕はもらえないのか」と落胆しているようだったけれど、それは彼の
「あと……ね、貴方にも。一応手作り……の予定」
「……えっ? 本当ですか!?」
ガッカリしていた彼の表情が、その一言でパッと明るくなった。彼もわたしからのチョコを期待していたということは、やっぱり……。里歩の言っていたことは間違っていなかったのだろうか?
「――あ、来週は学年末テストの期間で学校が早く終わるの。だから十一時半ごろに迎えに来てもらっていい? ランチは社員食堂で一緒に食べようよ」
「はい、かしこまりました」
そう答えた彼の声も、心なしか弾んでいた。