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縮まらないディスタンス ①

 ――就任会見の日の午後から、わたしにはさっそくメディア媒体ばいたいの取材申し込みが殺到した。でも貢が秘書として、わたしに負担がかからない程度に数を調整してくれたので、わたしも取材を受けることが苦痛にならずに済んだ。

 新聞社、経済誌、ニュースサイトにTVの取材と媒体は様々だったけれど、わたしはそのどれにも真剣に受け答えしていた。中でもTVのニュース番組の取材では社内の様子も撮影されたので、社員のプライバシーにどこまで配慮してもらえるかが心配だったけれど、放送された内容ではキチンと顔にぼかしが入り、声も変えられていたので「これなら大丈夫だ」とプロのメディアの仕事に脱帽した。


 その他にも、取引先から「新会長に挨拶したい」と詰めかけた重役の方々をもてなしたり、各部署を激励がてら視察して回ったり、様々な決裁をしたり……。会長の仕事は思っていた以上にたくさんあった。そのうえ、忌引きが明ければ学校もあって、母や貢がサポートしてくれなければわたし一人ではとても手が回らなかっただろう。


「――会長、これ見て下さいよ。当分休憩時間のおやつには困りませんね」


 就任一週間後には、給湯室の冷蔵庫の中が取引先から頂いたケーキやスイーツでいっぱいになっていて、わたしも貢にその光景を見せられた時には声を上げて笑ってしまった。


「っていうか、一ヶ月もしたらわたし太ってるかも」


 もしくは血糖値が異常に高くなっているかのどちらかだろう。……それはさておき。


 通常の業務以外にも、わたしには会長としてすべきことがあった。それは社内における、決して少なくはない問題点の改革だ。とはいえリストアップは父が生前しておいてくれたので、わたしはそれに自分で気づいた問題点を付け足してやっていくだけでよかったから、それもあまり大変だとは思わなかった。



 でも――、わたしにはその頃忙しくなった日常とは別にして、ある悩みがあった。それは、想いを寄せている貢との距離がなかなか縮まらないことだった。


 お休みの日を除いてほぼ毎日顔を合わせ、仕事の時も行き帰りの車内でも密室に二人きりなのに、彼はわたしに対していつも一歩引いている感じだった。彼の真面目さはわたしもよく知っているし、そこに惹かれたのも事実。でも、彼の態度からしてわたしに好意をもっていたことは明らかだったんだから、わざわざそれを隠す必要なんてあったんだろうか?



 そんなふうにモヤモヤした思いを抱えながら、一ヶ月が過ぎた頃――。わたしに〈Sコスメティックス〉からあるオファーが来た。


「えっ、春の新作ルージュのCMに出るんですか? わたしが?」


 会長室の応接スペースで向き合った〈Sコスメティックス〉の販売促進部と広報部の部長さん――どちらも三十代くらいの女性だった――が、「ぜひ絢乃会長に、春から売り出す新作ルージュのイメージキャラクターを務めてほしい」と言ってきたのだ。


「そりゃあ……、わたしもおたくの商品の愛用者ですけど。コスメはもちろん、スキンケアやヘアケア、ボディケア商品まで。でもCM出演なんて……、わたし素人なのに」


「弊社の商品をご愛用して下さってるんですね、会長! 感謝します。……実は、これまでイメージキャラクターを務めて下さっていたモデルの女性が、スキャンダルで降板してしまいまして。後任に誰を起用しようかと相談していた時に、TVの報道番組でお見かけした会長の清楚な感じがイメージにピッタリはまっていたので、こうして出演交渉に参った次第でございまして」


「……はぁ」


 揉み手せんばかりに愛想笑いを振りまく彼女たちに、わたしはタジタジになっていた。こういう時の対処法を知っていそうな貢に頼りたかったけれど、彼は給湯室へお茶を淹れに行っていてその場にいなかった。


「ちなみに、このルージュの新しいキャッチコピーがですね、『キスしたくなる春色ルージュ』でして、男優さんとの共演になります。キスシーンが見どころになってまして――」


「き……っ、キスシーン⁉」


 貢が戻ってきたタイミングでわたしは思わず声が上ずってしまい、緑茶の入った湯呑みが三つ載せられたトレーを抱えた彼に「どうかされました?」と首を傾げられた。

 わたしは彼に「何でもない」と小さく首を振り、女性たちに向き合った。


「あの……、何か問題でも?」


「このお話、お受けしたいのはヤマヤマなんですけど。それにあたってこちらから一つ、条件を出せて頂いていいですか?」


「条件……ですか? ええ、おっしゃって下さい」


「キスシーンのことなんですけど、カメラの角度などで実際にしなくても、しているように見せる撮影っていうのは可能でしょうか? そうして頂けるなら、わたしもオファーをお受けします」


「それは大丈夫です。では会長、よろしくお願い致します! 弊社のお願いを受け入れて下さってありがとうございます!」


「いえいえ。御社も我が篠沢グループの会社ですから。わたしも会長として、愛用者としてしっかり商品の宣伝をさせて頂きます」


 ――そんなわけで、わたしは〈Sコスメティックス〉の新作ルージュのCMモデルを引き受けることにしたのだけれど……。


「――会長、引き受けてよろしかったんですか?」


「ん? 引き受けちゃマズかった?」


 お客さま方がお帰りになった後の応接スペースで、少し冷めたお茶を飲んでいたわたしに貢か首を傾げて訊ねた。


 ちなみにわたしは猫舌で、お茶もコーヒーも少し冷めたくらいが飲みやすいのだけれど、それはさておき。

 彼はわたしに断ってほしかったのかもしれない。わたしからあんな条件を出したとはいえ、相手役のさかリョウジさんという俳優さんはたとえ演技であってもリアルなキスシーンにこだわる人で、女性関係のスキャンダルも多い人だと聞いたから。アクシデントを装って、わたしの唇を奪われる可能性がないとは言い切れなかったのだ。


「いえ、マズいわけではないんですが。相手役の方が……その……。ちなみに会長、キスのご経験は?」


「…………ない。実はファーストキスもまだなの」


「なのにお引き受けになったんですか!?」


「大丈夫だよ、桐島さん。心配しすぎ! ホントにキスしなくても、カメラワークでしてるように見せられるらしいし。わたしがファーストキスを奪われてもいい人は一人しかいないから」


「それって、好きな人ということですか?」


「うん。わたし、好きな人がいるの」


 わたしは「貴方だよ」という意味を込めて、彼の顔を見つめたけれど。彼がわたしのメッセージに気づいたかどうかは分からなかった。



   * * * *



 ――その夜、わたしは里歩にLINEでそのことを報告した。



〈わたし、今度Sコスメの新作ルージュのCMに出ることになったの!

 俳優の小坂リョウジさんと共演するらしくて、キスシーンもあるって聞いたけど。それはカメラワークで何とかしてくれるって。〉



〈それ、ホントに大丈夫なの?

 もしかしたら、小坂リョウジにファーストキス奪われるかもしれないじゃん! アンタはそれでいいの?〉



〈それはイヤだけど……、でも大丈夫!

 撮影の時は、桐島さんも一緒に来てくれるから!〉



 里歩が心配する気持ちも分からなくもなかった。

 わたしは百五十八センチの身長にサラサラのロングヘアー、長いまつと目鼻立ちのハッキリした顔、そして恵まれたプロポーションというアイドル並みのルックスで、CM共演を口実にして小坂さんから口説かれてしまうのでは、と心配していたのだろう。

 わたしと貢との恋をずっと見守ってくれていた、大親友の彼女らしい心配だと思う。

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