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初めての恋と大きな覚悟 ③

 ――翌朝。学校へ行く支度を終え、朝食を済ませたわたしはダイニングで紅茶を飲んでいた母に声をかけた。


「……じゃあ、行ってきます。ママ、パパのことは任せたよ。連絡待ってるから」


「ええ、分かった。行ってらっしゃい」


 史子さんが用意してくれていたお弁当の保冷バッグを持ち、スクールバッグを提げて家を出ようとしていると。


「絢乃、制服のリボン曲がってるわよ。直してあげる」


「あ……、ありがとう」


 母は手慣れた手つきで、わたしの胸元の赤いリボンを直してくれた。

 クリーム色のブレザーの制服は東京中の女子中高生たちの憧れらしく、初等部から唯一変わらないこの赤いリボンは茗桜女子の生徒たちのお気に入りなのだ。もちろんわたしも。ちなみに母もOGなのだそう。


「……はい、できた。行ってらっしゃい。里歩ちゃんによろしく」


「うん、行ってきます」


 父のことはもちろん心配で、付き添いたい気持ちもまったくなかったわけではないけど。自分で「学校に行く」と決めたので、母を信じて連絡を待つことにして家を出た。



   * * * *



 里歩との朝の待ち合わせは、初等部に入学した頃からの習慣だった。里歩の家があるのが新宿しんじゅくで、京王けいおう線への乗換駅も新宿なので、自然と京王線の新宿駅ホームでの待ち合わせになったのだ。里歩は中等部からバレー部に所属していたので、朝練がない日限定だったけれど。


「――あ、絢乃! おは~!」


 待ち合わせのホームで元気よく手を振ってくれた里歩に、わたしも少し元気を取り戻した。身長が百六十七センチもある里歩は、同じ制服を着ていてもスカート丈がわたしよりちょっと短くなる。わたしはきっちり膝丈だ。

 彼女はショートボブにした髪型と長身のせいで、制服を着ていなければ時々男の子に間違われることもある。


「おはよ、里歩。待った?」


「ううん、あたしも今来たとこだよ。今日来なかったらどうしようかと思った」


「昨日の電話で『行く』って言ったでしょ。何の心配してんのよ」


「そうだけどさぁ。――絢乃、昨日は大変だったね」


「うん。まさかパパがあんなことになるなんて……」


 父が倒れたことはショックだったけれど、なぜか思い出したのは貢のことだった。


「でもね、悪いことばっかりじゃなかったの。実は、昨日の電話では言わなかったんだけど、ちょっと気になる人ができちゃって」


「ええっ⁉ マジ? どんな人?」


 わたしが頬を染めながら打ち明けると、里歩が前のめりに食いついてきた。


「篠沢商事の社員の人なんだけど、二十代半ばくらいで、顔はそこそこイケメンだよ。身長は百八十ないくらいかなぁ。真面目だけど優しくて、すごく親切にしてくれた。帰りもクルマで家まで送ってくれたんだよ」


「あらあら」


 ――前日の夜、バスタブにかりながら考えていたのも、貢のことばかりだった。一人の男性のことがこんなに気になったのは生まれて初めてのことで、これが「恋」というものなのかとわたしは初めて知った。


「もしかしてアンタ、その人のこと好きになっちゃった?」


「…………えっ? うん……そうかも」


 素直に認めたことで、「ああ、やっぱりそうなんだ」と自分の中でしっくり来た。


「なるほどねぇ♪ どうりで今日、髪もお肌もいつもに増してツヤツヤなわけだ。アンタはいっつも可愛いしスタイルいいけどさぁ」


「そう……かな?」


 わたしは普段から髪やお肌のケアに手を抜かない主義だけれど、恋をしたら幸せホルモンがいっぱい出るのでより髪やお肌のツヤがよくなる、ということらしい。


「その人、桐島さんっていうんだけどね。もう連絡先も交換してあるの。昨日会ったばっかりなんだけど……」


「それって〝一目惚れ〟ってことだよね?」


「えっ、そう……なのかな」


 わたしは別に、ルックスだけで彼に惹かれたわけではないのだけれど。知り合ったばかりの相手に恋をしたということは、つまりそういうことなんだろうと解釈した。


「でも、パパが大変な時にいいのかなぁ? ちょっと不謹慎だよね……」


「そんなことないんじゃない? そういう人が一人でもいるっていうのは心強いよ。精神的支柱っていうか、心の拠りどころっていうか? アンタの恋、あたしは応援するよ」


「そうかなぁ……。ありがと」


 ――そんな話をしていると、ホームに電車が滑り込んできた。朝の通勤・通学ラッシュの真っ只中で、この日も車内は混み合っていた。


「――あのね、里歩。わたし昨日、覚悟を決めたの。パパに万が一のことがあったら、わたしが篠沢グループのリーダーになるんだ、って」


 里歩と二人、ドア付近に陣取ったわたしは彼女に自分の決意を打ち明けた。


「えっ、そうなの?」


「うん。昨夜、閉会の挨拶した時にね、これは遠くない未来に自分がやらなきゃいけないことなんだって思ったの。だから今から覚悟決めとかなきゃ、って」


 本当に覚悟を決めたのは、帰りの車の中で貢と話していた時だったけれど。


「へぇー、スゴいじゃん絢乃! マジ尊敬するわー!」


「そんなに大げさなことじゃないよ」


「いやいやー。あたしが同じようにやれって言われても絶対できないもん。マジでスゴいって」


「そんなことないと思うけどなぁ」


 わたしは謙遜したけれど、里歩は「またまたぁ」と尊敬のまなしをやめようとしなかった。


「……あ、そうだ。わたし今日、ママから連絡あったら早退することになると思うから」


「そうだよね。オッケー♪ 授業のノート、アンタの分も取っとく」


「ありがと。頼んだよ」



   * * * *



 ――午後の授業が始まって間もなく母からスマホに電話があり、わたしは早退することになった。電車での帰宅ではなく、迎えが来ると言われた。


「……あの、先生。母から後で連絡があると思うんですけど、早退届は――」


 通話を終えたわたしが、クラス担任である女性国語教諭に早退することを伝え、そう訊ねてみると。


「明日も登校してくるなら、その時で構いませんよ。ご両親によろしく伝えて下さいね。篠沢さん、さようなら」


「はい、……失礼します」


 急いで帰る支度をして、校門の前で迎えを待っていた。数分後、迎えに来たクルマは我が家の黒いセダンではなく、見覚えのありすぎるシルバーの小型車。


「…………えっ⁉」


「絢乃さん、お迎えに上がりました。どうぞ乗って下さい」


「桐島さん……? どうして」


 迎えに来てくれたのは篠沢家の専属運転手である寺田さんではなく、なんと貢だった。


「お母さまから頼まれたんです。『絢乃さんの学校まで迎えに行ってやってほしい』と。直接ではなく、会長秘書のがわさんを通してですが」


「……そう、なんだ」


 どうして母がわざわざ彼に迎えを頼んだのか、彼と小川なつ秘書とはどんな関係なのか。疑問はたくさん浮かんできたけれど、とにかくわたしは前日と同じように助手席に乗り込んだのだった。

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