「あの……ですね、絢乃さん。非常に申し上げにくいんですが」
「はい?」
「お父さまはもしかしたら、命に関わる病気をお持ちかもしれません。ですからこの際、大病院で精密検査を受けられることをお勧めしたいんですが」
あまりにも重々しい事実を突きつけられ、わたしはガツンと頭を殴られたようなショックを受けた。でも、彼が父のためを思って言ってくれていることもちゃんと分かっていた。
「そうだよね。わたしもそう思う。でもね……、パパって病院嫌いなんだぁ。だからちゃんと聞いてもらえるかどうか」
わたしは二つめのケーキを食べる手を止めて、眉根にシワを寄せた。
父は昔から大の病院嫌いで、少し体調を崩したくらいでは病院に行こうとせず、いつも「これくらい、家で静養すればよくなる」とワガママを言っていた。けれど、さすがに命が脅かされるような大病の可能性がある以上、父には是が非でも検査を受けてもらわなければと思った。
「でも、そんなこと言ってられないよね。ママにも協力してもらって、どうにかパパを説得してみる。桐島さん、アドバイスしてくれてありがとう」
「いえ、そんな感謝されるようなことは何も……」
彼は照れくさそうに謙遜したけれど、わたしは彼に本当に感謝していた。自分の身内のことを言うなら誰にでもできるけど、お世話になっている勤め先の上役とはいえ赤の他人のことを心配してそういうアドバイスができる人はそうそういないと思ったから。
* * * *
――貢と二人、美味しいケーキを味わいながら楽しくおしゃべりをしていると、あっという間に三十分ほどが過ぎていた。
母に送信したメッセージに返信があったのはそんな時だった。
〈絢乃、返信が遅くなっちゃってごめんなさい! パパは寝室で休ませてます。
あなたのタイミングでいいから、閉会の挨拶よろしく。招待客のみなさんにちゃんとお詫びしておいてね〉
返信はこれだけかと思ったら、ピコンと次のフキダシが出てきた。
〈あと、あなたの帰る手段として、総務課の桐島くんに家まで送ってもらうようお願いしておきました♡ 彼にもよろしく言っておいてね♪〉
「…………えっ⁉」
驚いて、思わずスマホの画面を二度見した。と同時に、貢と母が何を楽しげに話していたのかが分かった気がした。
「絢乃さん、どうかされました?」
「ううん、別にっ!」
わたしはブンブンと彼に向かって首を振り、「ありがとう。了解」と返信してピンク色の手帳型スマホカバーを閉じた。
それにしても、母の手回しのよさには恐れ入る。母はわたしが幼い頃まで、公立中学で英語教師をしていたのだ。わたしの弟か妹を流産して、体を壊して離職してしまったけれど。
「もうすぐ八時半か……。そろそろかな」
本当なら、主役である父が帰ってしまった時点で終わらせるべきだったパーティー。予定より少し早いけれど、これくらいの時刻がちょうどいい頃合いだろうとわたしは決めた。
「――桐島さん。わたしはそろそろ、ママからのミッションを果たしてくるね」
「はい、行ってらっしゃい。オレンジジュースのお代わりを用意して待っています」
「ありがとう」
わたしはステージの
『――皆さま、本日は父のためにお集まり下さいまして、本当にありがとうございます。わたしは篠沢源一の娘で、絢乃と申します』
そこまではよかったけれど、次に何を言うべきかわたしは困ってしまった。どう言えば、招待客のみなさんが納得して下さるのか……。これはきっと、いずれは大企業グループをまとめていくことになるわたしへの試練だと考え、自分なりに言葉を選んでみた。
『……えー、皆さまもお気づきかもしれませんが、本日の主役である父は体調を崩して早めにこの会場から引き揚げさせて頂いております。予定より早い時刻ではございますが、このパーティーはこれでお開きとさせて頂きたいと思います』
当然の結果として、会場内はざわついた。けれど、それはわたしの想定内だった。
『本日ご出席下さった皆さまには、娘であるわたしが両親に成り代わりましてお礼申し上げます。と同時に、この場をお騒がせしてしまいましたことも
深々とお辞儀をしてから顔を上げると、目の前は招待客の皆さんの不安そうな表情で溢れかえっていた。
「これでよかったのかな……」
わたしも不安に駆られながら席に戻った。将来の経営者としては致命的かもしれないけれど、元々人前に出て話すようなことが苦手だったので、自分にとって初めてのスピーチの及第点がどれくらいなのか分からなかった。
テーブルに戻ると、約束どおり貢がジュースのお代わりを用意して待っていてくれた。
「絢乃さん、お疲れさまでした。喉渇いたでしょう」
「うん。ありがとう」
冷たいジュースで喉を潤し、ホッと一息ついたけれど、わたしの心配ごとがこれですべてなくなったわけではない。父がとにかく心配で、早く
……そういえば。
「ママからの返信に書いてあったんだけど、帰りは貴方が送ってくれるって?」
「はい。お母さまから直々に頼まれました。まさかこういう事態になるとは思っていらっしゃらなかったでしょうけど」
「そうだよね……」
母が何を思って彼にそんな頼みごとをしたのか、その時のわたしには分からなかったけれど。少なくとも父がパーティー中に倒れたのは母にとっても想定外の出来事だったはずだ。
「そういえば桐島さん、お酒飲んでなかったもんね。それもこのため?」
彼が会場で飲んでいたのはアルコール類ではなく、アイスコーヒーだった。
「ええまぁ、そんなところです。僕、アルコールに弱くて。少しくらいなら飲めるんですけど」
「そっか。わざわざ気を遣ってくれてありがとう。じゃあご厚意に甘えさせてもらおうかな」
「はい。……僕のクルマ、
「うん、大丈夫。よろしくお願いします」
自動車にまったくこだわりのないわたしは、ペコリと彼に頭を下げた。
――それから数分後、わたしは貢が運転する小型車の助手席に収まっていた。彼は最初、後部座席を勧めてくれたのだけれど、わたしが「助手席に乗せてほしい」とお願いしたのだ。
「……えっ、このクルマって桐島さんの自前なの?」
「ええ、入社した時から乗ってます。でも中古なんで、あちこちガタがきてて。そろそろ新車に買い替えようかと」
そう答える貢はすごく安全運転で、そういうところからも彼の真面目さが窺えた。
「新車買うの? どんな車種がいいとかはもう決まってるの?」
「ええ、まぁ。父がセダンに乗ってるので、僕もそういうのがいいかなぁと思ってます。
「そっか……。大変だね」
新車を購入するという彼の心意気は
「ところで絢乃さん、助手席で本当によかったんですか?」
「うん。わたし、小さい頃から助手席に乗るのに憧れてたんだー♡」
満面の笑みで答えたわたし。物心ついた頃から後部座席ばかりに乗せられていたので、長年の夢が叶った瞬間だったのだ。
「そうですか……。それは身に余る光栄です」
「え? 何が?」
彼が小さく呟いた言葉に、わたしが首を傾げると。
「絢乃さんの助手席デビューが、僕のクルマだったことが、です」
彼は誇らしげにそう答えた。