1
「死者のテレフォンって知ってる?」
さとしが急に聞いてきた。
「知らないよ」
「裏山の近くに公衆電話あるでしょ?」
「あのぼろぼろのやつ?」
「うん、4時4分になるとあの公衆電話が鳴って、出ると死者の国に繋がっているんだって」
さとしは興奮しながら話す。自分で自分の話に夢中なのだ。
さとしははじめのクラスメイトだ。さとしはこういう噂話が大好きで、いつもどこからか仕入れてきてははじめに話す。それはもっぱら、学校が終わったあとの帰り道だ。ふたりは途中まで帰り道が同じで、毎日いっしょに帰っていた。「親友」という言葉はくすぐったいが、ふたりは親友だ。
授業のあいまの休み時間は校庭で動き回っているので、帰り道が一番話す。
「ねえ、行ってみない?」
「う~ん……」
はじめは気が乗らない。はじめも怖い話は大好きだが、それは作り話だと割り切っていて、現実には起こるとは思っていない。幽霊もUFOも信じちゃいない。
「やめておくよ」
「えーっ! いいじゃん、行こうよ」
「ううん、今日は自分でごはん作らなきゃいけないんだ」
これははじめが友達からの誘いを断りたいときによく使う理由だ。
「さとし一人で行ったら?」
「おれ一人で行ったってつまらないだろー」
ほんとうは一人で行くのは怖いのだ。さとしはなおも食い下がる。
「じゃあ、明日はどう?」
「ぼくはいいって。死者としゃべりたい話題もないし」
さとしはなにか言いたそうにこちらをじっと見つめる。しかし、言い出さない。そうこうしているうちにふたりが分かれるところまで着いた。
「じゃあね」
「うん、またあした」
ふたりは手をふると、それぞれの道を歩いていく。いつもの光景だ。
2
マンションのエントランスに入ると、だれかがエレベーターのボタンを押すうしろすがたが見える。目のはしっこでそれを捉えると、はじめの歩みは自然とゆっくりになる。知らないひととエレベーターに乗っちゃいけないと先生から言われていた。マンションのほかの住人とはまったく交流がないので、はじめはいつもひとりでエレベーターに乗るようにしている。
エレベーターの扉が閉まり、上にあがるのを確認する。はじめは一転して小走りでエレベーターのまえまで行き、「↑」のボタンを押す。この時間にあとからだれかほかの住人がエントランスに入ってこないか、いつも緊張する。エレベーターの扉が開いた。だれも乗っていない。ほっとしながら中に乗り込み、すこし背伸びをして五階のボタンを押した。
住んでいる部屋の玄関までくると、はじめはポケットから鍵を取り出し、鍵穴に差し込んだ。がちゃりと音がしてドアが開く。
「ただいま」
返事はない。はじめも返事があると思って口にしていない。ただの習慣として言っているだけだ。返事がなくても、なにも感情は動かない。
はじめが住む家はふたつの部屋とリビング、キッチンがある2LDKだ。ふたつの部屋はそれぞれはじめと父親の寝室になっている。ふたりは別々に寝るけれど、夜の10時までには寝るのが父親との約束だった。「夜更かしするなよ」と父親はことあるごとに言ってくる。特に9時を過ぎてもはじめがテレビのロードショーなどを見ているときだ。だけど、そんな約束をしなくても10時にはすっかり眠くて、早くベッドにもぐりこみたくなる。だから、好きな映画でもはじめは結末まで見たことがない。
はじめは自分の部屋に入り、勉強机にランドセルを置くと、ベッドのうえに飛び込んだ。これも「ただいま」と同じく習慣になっている行為だ。
はじめは友達と遊ぶ約束がなければ、父親が帰ってくる夜6時ごろまで家のなかでひとりで過ごす。だいたいがゲームをやるか、マンガを読む。あるいは自作のマンガを描く。これは好きなゲームのキャラクターが、異世界を旅するというものだ。だれに見せるでもなくノートに描いて遊んでいた。考えるのと、手を動かすのが楽しいのだ。夕方5時を知らせるチャイムが鳴るまでそんなことをしていて、チャイムが聞こえるとテレビをつけてアニメを見る。再放送らしいが、はじめには初めて見るものだ。父親が帰ってくると、キッチンで晩ごはんを作ってくれる。カレーやシチュー、鍋料理が多い。それをリビングでテレビを見ながら食べる。
しかし、今日はマンガを読む気分にも、描く気分にもならなかった。ベッドのうえで目をつむって、物思いにふけった。
さっきさとしから聞いた噂話を思い出していた。自分ならだれと出会いたいだろう。すぐに母親の顔が思い浮かんだ。いや、正確にははじめが母親だと思っている顔【傍点】だ。
はじめは母親と会ったことがなかった。物心ついたときはすでにおらず、父親とのふたり暮らしだった。それが当たり前だったので悲しいと思ったことはない。しかし、幼稚園や学校で「お母さんの似顔絵を描いてください」といったような宿題が出るたびに困った。そのたびに先生や友達から「可哀想な子」と気を使われるので、それが面倒くさかったのだ。母親がいないことははじめにとっては日常なので、自分が可哀想だと思ったことはない。しかし、父親には宿題のことを言い出せなかった。家のなかで、母親の話題はなんとなくタブーだ。宿題はいつもてきとうにごまかして出していた。
そういうことがつづいて、はじめは頭のなかだけで母親の顔を思い描くようになった。きっとこんな顔だろう。それはぼんやりとしていて、はっきりとはしていない。特に顔がぼんやりとしている。
母親はどんな顔なんだろう。
はじめはがばっとベッドから起き上がった。
3
はじめは受話器を手にとって、数字のボタンを押していく。さとしの電話番号だ。
「もしもし、池田です」
女性の声がする。さとしの母親だ。受話器を持つ手にぐっと力が入る。
「小林ですけど、さとしくんはいますか?」
「ああ、はじめくん。ちょっと待ってね」
受話器の向こうで、さとしを呼ぶ声がする。この時間はいつも胸が高まっていやだ。リビングのあちこちに視線を移しながら、声がするのを待つ。
「どうしたの?」
さとしの声が聞こえて、緊張は一気にとける。
「さっきの噂話なんだけど」
「うん、死者のテレフォン?」
「やっぱり確かめに行こうかなって」
「ほんとに!?」
さとしの声が大きくなる。はっとして、今度は小声でしゃべる。
「どうしたの、嫌がってたのに」
「嫌がっていはいないよ、ごはん作る必要がなくなったからさ」
「そうなんだ。じゃあ、これから行っちゃう?」
「うん、行こう」
受話器の向こうで母親と話す声がする。はじめはそれをただ聞いている。
「じゃあ、タコさん公園ね」
「うん」
はじめは受話器を置くと、鍵をポケットに入れた。
4
「タコさん公園」は、いつもはじめたちが待ち合わせに使っている場所だ。ふたりが住む家のちょうど中間あたりにある。正式な名前はわからない。入り口に書かれているが読めないし、気にしたこともない。
公園には大きなタコの遊具があって、足の部分がすべり台になっている。だから、「タコさん公園」だ。頭の部分はなかが空洞になっていて、もぐりこむことができるようになっている。
はじめがたどり着くと、まださとしが来ていないことを確認して、ブランコに乗った。しばらくこいでいるとさとしがやってくる。
「行こう、行こう」
よっぽど嬉しいのか、へらへらと笑っている。
「ほら、腕時計」
さとしが自慢げに見せてくる。時計の針は三時前をさしている。
噂になっている公衆電話はここから歩いて二〇分ほどだ。かれらが「裏山」と呼ぶ街のはずれにある山のふもとにある。だれも使っていない駐車場の近くで、舗装されていない場所にぽつんと置いてある。誰かが使っている形跡はなく、メンテナンスされずに時間とともに朽ちているという印象だ。電話線が繋がっているかもわからない。
最近は公衆電話も見ないのでますます目立つ存在になっている。
「グミ、食べる?」
さとしがポケットからグミの袋を取り出した。
「え、いいの?」
「こっそり台所から取ってきたんだ」
「またかよ」
ふたりはグミをひとつずつ口に放り込む。コーラ味だ。さとしの家は台所にお菓子が常備されている。母親が切らさないように買っているのだ。もちろんいつ食べたっていいわけじゃない。母親が出してきたときだけ食べられる。けれども、さとしはたまに母親の目を盗んでこうやってお菓子を持ってくる。あとで怒られることはわかりきっているが、はじめといっしょに食べるのだ。
ふたりはもぐもぐとグミを噛みながらずんずんと歩いていく。
「なぁ、噂が本当だったらどうする?」
さとしがいたずらっぽい笑みを浮かべながら言う。
「死者の国に繋がったらってこと?」
「うん、昔の人と話せるかもしれないよ」
「昔の人かぁ」
はじめが答えるのを待たずにさとしは自分の考えを口にする。
「おれ、エジソンと話したいな」
「エジソンって発明王の?」
さとしは偉人伝の類が好きで、図書室で借りてよく読んでいた。
「うん、死者の国でした発明を聞いたら、それで大儲けできるじゃん」
「なんだそれ」
ふたりはしょっちゅうこういう会話をしている。たいていはさとしが冗談を言って、はじめはそれを聞いている。ずっと飽きることはない。
「あと織田信長かな。強くなれる秘密聞く」
「死者の国に繋がったとして、出てくれるかなぁ」
そう言って、ふたりしてくくくと笑う。たまらなく楽しい時間だ。
5
「あった!」
さとしが大声を出した。指をさす方向には噂になっている公衆電話が置いてある。ふたりは立ち止まり、顔を見合わせた。
「やっぱりぼろぼろだね」
「壊れているんじゃない?」
「電話として使えないのかな」
「誰も使っているところ見たことないよ」
さとしは腕時計を見る。三時三十分。まだまだ時間がある。
「なぁ、入ってみる?」
「いや……」
ふたりともその場に立ち止まったまま動かない。それだけ見れば単なる公衆電話のはずなのだが、噂の内容と相まって異様な雰囲気を放っているように見える。
「あのさ、さとしが聞いた噂って、電話が繋がるだけ?」
「そうだと思うけど……」
「命を取られるとかないよね」
さとしの返事がない。黙ったまま顔を強張らせている。
「な、なんか言えよ」
「だ、大丈夫だと思う!」
さっきまでへらへら笑っていたのに、その面影はもうない。
ふたりはなんとなく公衆電話にはそれ以上近づかず、雑草の生い茂る土のうえに座って待つことにした。さとしはポケットからグミの袋を出すと、一粒取り出して口になかに放り込む。そして、袋をはじめに突き出す。
「グミ、最後の一個」
「ありがとう」
はじめはグミの袋を受け取ると、最後の一粒を口に放り込んだ。
「お菓子、いつも買ってくれるの?」
「うん、お母さんが台所の下に置いているから、たまに取ってくるんだ」
「怒られない?」
「ばっか、怒られるに決まってるじゃん。いつもケンカだよ」
「そうなんだ」
ふたりは時間がくるまで、ひっきりなしに喋る。すぐに噂とは関係ない話になっていく。
「なぁ、だれがラスボスだと思う?」
「うーん、主人公ってパターンもあるよね」
「マジで?」
ふたりが知っているゲーム、アニメ、マンガの話題がつぎつぎと出てくる。
「ちょっと待って」
さとしが急に真面目な声になる。
「どうしたの?」
「もうすぐだ」
腕時計をふたりで覗き込むと、時間は四時一分だった。時計の針は刻一刻と進んでいく。四時二分、四時三分……。
「お、おい、くるぞ」
時計の針が四時四分をさす。じっと公衆電話を見つめる。しかし、なにも起きない。つぎの瞬間、どっとふたりの笑い声が響く。
「なーんだ、やっぱり噂だったか」
「そんなことあるはずないよ」
ひとしきり笑ったあと、ふたりは立ち上がる。
「行こっか」
「うん」
ふたりは公衆電話に背を向けると──背中からジリリと電話が鳴っている音が聞こえてくる。ハッとして、ふたりは振り返る。
「お、おい」
「マジかよ」
「時計、時間がズレていたんだ!」
ふたりは顔を見合わせたあと、おっかなびっくり公衆電話に近づいていく。
「ねえ、ほんとにやるの?」
「そのためにきたんだよ」
さとしが電話ボックスのドアを開ける。そして、中に身体をすべらせていき、受話器に手をかける。
さとしは恐る恐る受話器を手に取ると、耳にあてた。
「もしもし」
返事はない。手は震えている。
「エジソンさんですか」
「ば、ばか」
震えながらふざけたことを言うさとしをはじめは小突く。
「ねえ、もうやめようよ」
「ちょっと待って」
さとしは服を引っ張って電話ボックスから出そうとするはじめを静止する。
「なにか聞こえる」
さとしが受話器をはじめの耳にあてる。ざぁーっという雑音が小さく聞こえてくる。はじめはつばを飲み込んで、受話器の音に耳を澄ます。しかし、そのノイズしか聞こえない。「なんだ、これだけ?」と言おうとした瞬間。
「はじ……め……」
かすかにだれかの声がする。女性の声のように聞こえた。はじめの名前を呼ぶ女性の声。そのとき、はじめにあのイメージがかすめる。
「お母さん!?」
返事はない。再びノイズしか聞こえてこない。でも、たしかに声がした。ぐっと力を入れて受話器を持ちつづける。もう一度聞こえないだろうかと願って。しかし、ノイズはやがて小さくなり、ぷつっという音とともにまったく聞こえなくなった。
「聞こえた?」
「うん」
はじめは受話器を置くと、そのひとことだけ口にした。
6
家に帰りながら、五時を知らせるチャイムが鳴る。小走りになる。五時を過ぎたら外を出歩いちゃいけない約束だ。急いでマンションのエントランスに飛び込んで、エレベーターのボタンを強く押す。階数表示が下がっていくのをじれったく見つめる。チンという音とともにエレベーターのドアが開くと、急いで乗り込んで五階のボタンを押す。
たまに父親が早く帰ってくることがある。もし今日がその日ならはじめが家にいないことに気がつくだろう。父親は怒るようなタイプではないが、やってはいけないことだとはじめは思っていた。
がちゃがちゃと焦りながら玄関を開けると、父親の靴はない。ということは、まだ帰ってきていないってことだ。
はじめはふぅと安心して、身体の力が一気に抜ける。靴を脱ぐと洗面台で手を洗って、リビングのテレビをつける。アニメの再放送がやっている。リビングのテーブルについて、ぼぉーっと画面を見つめる。なんだか頭に入ってこない。はっと気がつくと違う番組に変わっている。
玄関のほうでがちゃがちゃと音がする。父親が帰ってきたのだ。ドアが開く音がする。
「ただいま」と玄関から父の声がする。
「おかえり」といつものように返事をした。
買い物袋を下げた父親が、それをリビングのテーブルに置く音がする。いったん自室に戻ってスーツから着替えたら、晩ごはんを作り出すのがいつもの流れだ。
父親が晩ごはんを作る音を背中越しに聞きながら、はじめはテレビでアニメを見つづける。そのあいだ、ふたりの会話はないが、はじめは時おり振り返って父親のすがたを見る。お腹はすっかり空いていて、なにができあがるのか楽しみだ。今日はにおいでわかる。カレーだ。今月に入ってから五度目のカレー。
カレーをよそった皿がテーブルに並べられる。父親のほうにだけ福神漬が添えられる。
「いただきます」
ふたりは手を合わせて同時に声を出す。そして、テレビを見ながら食べる。いつもこの家で繰り広げられる光景だ。会話はあまりない。父親はテレビ番組の内容にふふふと笑ったり、ひとこと、ふたことなにか言ったりするが、自分からなにか語ることはない。はじめも同じような感じだ。
しかし、その日は違った。
「お父さん」
「ん?」
父親はテレビ画面に顔を向けながら返事をする。
「ぼくのお母さんって、どんなひとだったの?」
「どうした、急に」
父親の箸を持つ手が止まり、はじめの顔を見る。
「お母さんのこと、知りたいんだ」
「そうか」
父親は箸を置いて、はじめの顔をじっと見る。
「母さん──まゆみは──そう、母さんはまゆみって名前で──」
ゆっくりと話し出す。すこしずつ、すこしずつ。