蓮の自由研究はこの学校にアクジキジハンキという新たな都市伝説を知らしめた。
それに付け加え、球磨川が自由研究で提出した「手押し車のおばあさん」の話と香久山の提出した「風鳴さん」の話はダブルパンチならぬトリプルパンチをもたらした。
アクジキジハンキとなった神様はこの街を代表する二つの都市伝説と深い関わりを持っていたのだ。その衝撃たるや、推して計るべきだろう。
「八月一日くん、維くんじゃないけど、オカルト部に入ってくれないか?」
レポートを見た球磨川にそう声をかけられ、蓮は苦笑する。
「勘弁してよ」
けれど、こうして、
裕はそう思い、脇から眺めていた。
なんとなく、蓮は自分のように修験者になるのは似合わない気がした。蓮は裕の友人だが、だからってわざわざ裕と同じ道を蓮が歩いていく必要はないのだ。それはまあ、裕としては寂しくもあるのは事実だが。
蓮には蓮の在り方があると思うのだ。あの神様がアクジキジハンキになることを選んだように。
裕は
「僕はなんでもかんでも悟りを開いて納得できるような人間じゃないって、今回のことで痛感したよ。きっと、誰も責めなくったって、僕は今年起こった出来事を他人事にはできなくて、『あいつはああなって当然だったんだ』『当然の報いだ』とか思うこともできずに苦しみ続ける。せいぜい菩薩止まりだろうね」
菩薩とは
蓮はきっと、悟ることはできない。そういう超然とした態度でいるには蓮は多感すぎるのだ。
「裕は球磨川くんとか誘ってみたら? 案外上手くいくかもよ」
蓮のその言葉に裕は顔をひきつらせた。
「勘弁してくれ」
修行僧の鍛練の中には降霊術なんかもあったりする。読んで字の如く、霊を降ろす術だ。あの山川コンビの一角である球磨川がこれに興味を持たないわけがない。
ただ、まだ裕からすると球磨川のオカルトに対する態度は節度がないように思う。だから勘弁してほしいのだ。
「はは、言うと思った」
そんな感じで蓮たちの中学二年生の夏休みは終わった。
「……アクジキジハンキさま」
小さな声が、自販機にかかる。
とある夜中。自販機の前を通りかかった少年がいた。街灯に照らされた少年は茶髪で……目は血のように赤い。
その少年はとても気弱そうな雰囲気を醸し出していた。赤い目は……覚醒遺伝だろうか。
アクジキジハンキはただ超然とそこに佇んでいた。最近は省エネで灯りをセンサー式にしているところが多いのだが、アクジキジハンキはセンサーは取り入れていないらしく、煌々と道を照らしている。それは無機物然としていて、少年──
特に欲しい飲み物がないのか、塞はじっとして、自販機を見つめていた。やがて、飲み物のところに点いていたランプが消え、小銭が落ちる音がする——
ちゃりん。
「お釣、いただきますね」
自販機からの女声。彼女こそが、この自販機の正体、「アクジキジハンキ」である。
塞はすがるように声を上げた。
「アクジキジハンキさま、僕の目を喰ってください!」
塞の切実ながら、おぞましい願い。——目を喰ってくれ、なんて。
アクジキジハンキは、何も答えない。けれど、塞は続ける。
「貴女は悪いものを食べる神様なのでしょう? だったら、僕のこの目を喰ってしまってください。お願いです……この目があるせいで、僕は悪魔呼ばわりです。同級生がたくさん死んだのも、お前が悪魔だから、と言われます。父さんと母さんにさえ見放されています。父さんと母さんは僕が赤い目の不気味な子どもだから、僕を嫌いなんです。だから、僕のこの目がなくなってしまえば……僕は、僕は……!」
目を喰ってもらって、彼はどうしようというのか。頭を抱えて、塞ぎ込んでしまった。地面に踞る塞の姿は、その名のままにそこにあった。
アクジキジハンキは何も言わない。どんなに切実な懇願を受けても、彼女は何も語らなかった。
やがて、塞が顔を上げる。か細い声で「何故ですか」とアクジキジハンキを見上げる。赤い目は毒々しい色をしているが、塞の儚げな雰囲気も宿していた。
「何故ですか? 貴女は悪いものを食べるんでしょう? どうして僕を……僕の目を食べてはくれないんですか? 僕の目は、悪いもの以外のなにものでもないのに」
アクジキジハンキが煌々と照らす塞の顔は絶望に満ちていた。つ、とその頬を涙が伝い落ちていく。
瞬間、夜であるためわかりづらくはあるが、その空間が白黒に変わり、そこにあったはずの自販機は黒くどろどろとした塊に変貌していた。塞が噂に聞いた、アクジキジハンキの姿そのもので、塞はそのおどろおどろしさに呆然と立ち尽くす。塞にはわからないことであったが、この空間では塞のあの赤々とした目もモノクロに置き換わっていた。
アクジキジハンキがその口を開く。塞は食べられるのだと思い、きゅ、と目を閉じるが、それは杞憂でアクジキジハンキは自販機の女声のままに喋り始めた。
「あなたのその目は本当に悪いものでしょうか? 私にはそうは見えません」
「そんな……」
塞が目を見開く中、アクジキジハンキが続ける。
「あなたやあなたの周りの方々が、勝手に『悪魔』だとか決めつけているだけでしょう? 本当に悪いのはそうやって決めつける悪感情。決めつけたことを押しつけ、疎む悪意。
人間はそうやって、また愚かなことを繰り返しているのですね。それではまるで咲々の時の二の舞ではないですか。全く、救いようがない」
「咲々……?」
塞は疑問符を浮かべ、ふと思い出す。——中学二年生のとき、香久山が提出した自由研究のレポートにそんな名前があった気がする、と。香久山の自由研究のテーマは「風鳴さん」だったはずだ。風鳴さんの本名が咲々というのだったか。
何の罪もなかったのに、ただ村八分というだけで殺人の罪を着せられた風鳴咲々。生きながら埋められる人柱の刑に処された咲々。——ただ、目が赤いだけで悪魔と称され、いじめを受ける高校生になった塞とよく似ている。
「目が赤いことは罪でも悪でもありません。悪でないものを、どうして私が食べられましょう」
それはその通りなのだが……塞は納得のいかない顔で反論する。
「でも、今の僕にとって、この赤い目は害悪です。僕を貶める理由になる。それでも、貴女は食べてくださらないんですか?」
塞の問いに、アクジキジハンキは過去に思いを馳せる。咲々に「自分の悪い力を喰ってくれ」と頼まれたときのことを。
あれは、ひどく後悔した。咲々という存在を殺そうとした自分に後悔し、咲々が完全に都市伝説の「風鳴さん」と化してからは、あのとき食べてやらなかったことを後悔した。
あのとき、食べてやれば、強制的でも咲々は成仏して、都市伝説としてこの地に根づくことはなかっただろうに。
けれど、アクジキジハンキはあのとき、咲々がいなくなることを望まなかった。咲々を喰ってしまえば、自分で自分を許せなくなって、それが呪いに転じて、祟り神となっていたであろうことを思うと、喰うも喰わぬも良し悪しなのである。どちらが良いかなんてこと、アクジキジハンキにはてんでわからないのだ。
アクジキジハンキはじっと塞を見つめた。アクジキジハンキに目という部位はないけれど、感覚的に見るという行為はできる。
果たして、彼は喰うべきか、喰わざるべきか。
——どちらが正しいかなんて、アクジキジハンキにはてんでわからないのだ。