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 あるときのことだ。子どもが、合掌して、珍しく祈りを唱えた。

「うちのお母ちゃんの病気を治してください」

 久しぶりのお仕事である。病気とは、悪いものの代表格だ。これを食わずして何を喰うのか。

 私はやる気満々で、早速その子どもの後ろをついていった。もちろん、へどろの体をずるずる引きずって。


 どれくらい歩いただろうか。

 人間の作った「単位」というやつはどうもいまいち掴めないため、まあ、そこそこに歩いた、と言えよう。私が二足歩行でないことはこの際棚に上げておくとして。

 坂を下りて、しばらくして、その子どもは家らしきところに入った。

 そうして、迷うことなくある部屋に向かう。神様に年寄りも何もないのだが、人間の子どもの健脚についていくのは少々しんどいものがあった。

 実体はないようなものだから、襖をすり抜けたりして子どもを追いかけていくと、子どもはある部屋の前で足音を静め、そーっと襖を開けた。

 そこにはとても元気には見えない、まさしく病床の女人が横たわっていた。この子どもがまだ小さいことから考えるに、そう年はいっていないはずだが、頬がこけ、老けて見える。

「お母ちゃん、お参りに行ってきたよ。土地神様に。きっとお母ちゃんの悪いの、治してくれるはずだ」

 そうとも、と私は胸を張った。……胸はないが。

 すると、子どもの声に女人の瞼がふるりと震え、そのまなこを開ける。それは黒曜石のような黒く黒い眼だった。光が黒いもの──恐らく病に呑まれかかっているからだろう、見えない。相当重症のようだ。早く病を食べてあげないと、それこそ死んでしまうだろう。

 そう思って、女人の方に体をずり、と引きずると、女人がひぃっと悲鳴を上げた。

「あんた、なんてもん連れて来とるん……」

「お母ちゃん?」

 子どもは首を傾げる。私はすぐに事を悟り、しまった、と思う。

 この女人は病により、大分死に近いところにいる。黄泉に近いものは霊に近くなるというのは私も知っていた。つまりこの女人は咲々と似たようなものなのだ。私の姿が見えている。

 それはとても危険な状態であることを表すのだが……へどろまみれに口まみれの不気味な怪物に映っているだろう女人の病を食べるのを、私は躊躇った。

 何故なら、病は女人の体に染み着いており、体に染み着いているということは、体から吸いとらなければならない。だが、私には吸い取るという器用なことはできない。何故なら、私は「食べる」神だからだ。

 つまるところ、私がこの女人の病を治すためには、この女人の体ごと、一旦口に含まなければならないのだ。

 口の中に入ってしまえば悪いもの……病だけを吸い取ることは可能だ。私の口は、食べる神であるため、優秀なのだ。

 だが、端から見たら、化け物が人間を丸飲みしているようにしか見えないだろう。それが飲み込まれる本人であるなら、非常に心臓に悪いことは察して余りある。

 だが、私も神様としての役目があり、祈られたのだから、叶えなければならない。せっかくの祈りごはんを無駄にはしたくなかった。

 故に、妥協になるかはわからないが、私は無数にある口を一つの大きな口にまとめた。無数の口で食べると、咀嚼されているようで気分がよくないだろう、と考えたのだ。

 だが、女人の口元のひきつりは増した。恐らく、確実に食べるために変化したのだと勘違いされている……あながち勘違いとも否定できないのだが。

「あ、やめ……お許しを……」

「安心してください、あなたの病を食べるだけです」

「ひぇぇぇぇぇっ!」

 気慰めのつもりで言ったのが、逆に止めになってしまったらしく、女人はそこで失神してしまった。これは悪いことをした。恐らく病の女人には「食べる」の部分しか入っていかなかったと見える。

 女人を一呑みして、病を吸収する。失神してくれて、むしろよかったのかもしれない。生きたまま喰われるというのは、生きた心地がしないものだろう。私も仕事の途中に泣き喚かれても気が散るというものだ。いや、そういう問題ではないのだろうが。

 私の見えない子どもが、無垢な眼差しで首を傾げていたことに、少しの罪悪感を覚えた。まあ、祈りはきちんと叶えるので、勘弁してほしい。

 やがて、病と、ついでに私に対する恐怖心を食べると、私は女人を口から出し、横たえた。いつぞや、悪食と言われたが、あながち間違いではないのかもしれない。女人を死に至らしめようとしていた病は、私にはたいそう美味しく感じられた。ついでに恐怖心も。恐らく、悪いものを食べるという性質から、悪いものを美味しく食べられるように、私の感覚というのが調整されているのだろう。

 女人の頬は変わらずこけたままだったが、先程より顔色に血の気が通い始めた。顔色のよくなった母を見、子どもは喜んだ。

 私は一つ学んだ。世の中には、知らない方が幸せなこともある。


 翌日、日課のように咲々の元へ向かい、昨日の件を報告すると、咲々は両手を打って、我が事のように喜んでくれた。やはりいい子だ。

「あの子どもが今朝方、また手を合わせに来たんだ。『お母ちゃんの病気、治してくれてありがとうございます』って」

「よかったじゃないですか。これで土地神様のお力も広まって、よりお祈りがいただけるんじゃないですか?」

「そうかもしれませんね」

 願ったり叶ったりだ。病を治せる神様ならば、神様としての心象もいいことだろう。昨日は本当に善行をしたと思う。……丸飲みにしたのは悪かったとは思うが。

 一件落着。

 私はそう思っていた。


 だが、人間というのは、そう単純な生き物ではないらしい。

 私のお社の前が騒がしいと思ったら、一人の青年が、お社に向かって文句をつけていた。

「やいやい、土地神とやら。昨日はどうも家内に怖い思いをさせてくれたようだな!」

 う、否定ができない……

 どうやら青年は昨日の女人の旦那であるらしい。

 彼はこう続けた。

「家内の病を治したことには礼を言うが、おっかない思いをさせるようなら、今後はただじゃあおかないぞ」

 今後は関わることはないでしょう。きっと。また病にでもかからない限りは。

 そう思ったが、さすがに青年には私の姿が見えないようで、私はぼそっと心の中で呟くに留まった。

 さて、この姿も考えものだなぁ、と思いながら、どうすることもできないまま時は過ぎる。

 これといって、どうする必要もなかった。相変わらず、土地神の私に祈る者は少なかったのだから。そして、土地神の私が見える者も現れなかったのだ。

 悲しいが、私は咲々の祈りで、月日を過ごし、神であることを保っていた。

 誰も祈りに来ない。神様に捧げる習慣のあるお賽銭もない、神様としてはひもじい日々を私は送っていた。



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