また雨季が来て、咲々が見守る中、水をぱくりぱくりと食べながら思う。何故私はこんなことをしているのだろう、と。
咲々に願われたからやっているが、村の衆は私には決して祈りやしない。
神様だとお社を建ててくれたのはいいが、その実、一つも信じてくれないではないか。私は毎年毎年泥まみれになりながら、川が決壊しないように水を食べているというのに。
それとも、祈らなくても川が決壊しないからと調子に乗っているのだろうか。全ては村人たちが蔑ろにした咲々のおかげであるというのに。
村人は何にも知らないで、天の神様にばかり祈る。やっと土地神としての役目を果たせると思ったのに。けれど、だからってこの水を食べるのをやめて、村が沈んだりなんかしたら、咲々が悲しむ。だから私はやめられない。難儀なことである。
嫌な流れだな、と思う。村人から崇められない土地神の末路を詳しくは知らないが、あまりいいものでないことくらいは察せる。何せ末路というくらいだ。きっと、ろくでもないことにちがいない。
消えてなくなったりするのだろうか。それとも、この世をたださ迷い歩くことになるのだろうか。——さ迷い歩くのはやったことがあるが。
ああ、何にせよ、嫌だなぁ、と思っていると、食べるべき水がなくなった。
「ごちそうさまでした」
私がそういうと、脇で咲々がくすりと笑う。なんだろう、と見つめていると、咲々は語った。
「神様って、なんか時々人間っぽいですよね」
「そうですか?」
はて、私に自覚はないのだが。
「いただきますやごちそうさまを大切にしている感じが人間っぽいというか」
「そうかなぁ」
数百年、人間の文化を見てきたから、なんとなく移ってしまったのかもしれない。食べる神であるから。
全然祈られない神様であるから、咲々の祈りというのはとても貴重で得難いものなのだ。となるとやっぱり有難い。
食べ物に有り難みを感じたなら、やはり「いただきます」と「ごちそうさま」は欠かせない……と思うのだが、この思考回路が人間くさいということだろうか。
けれど、やはり、「食べる」神様としてはそういうのを大事にしたい。例えば、ヨシとかいうあの殺人犯の殺意だって、最初は憧れとか、そういうきらきらした、悪いものではなかったはずだ。人間は感情を変化させて生きていく生き物だ。その感情一つ一つが同じ人間などいないのと同じく、同じ感情など存在しないのだ。世界に一つしかないものを食べるというのはそれだけで特別なことではないか。これに感謝せずして何に感謝するというのか。
それに私という存在は食べることで存在を維持しているのである。食べ物は私の糧。祈りもろくに得られない私としては、食べるという行為そのものが貴重で尊いことなのだ。
「……まあ、神様の論理というのを理解できるとは思いませんが……私は食べているときの土地神様が好きですよ」
やっぱり、咲々はなんていい子なんだろう。食べている私って、結構見られたもんじゃないと思うのだが。黒いへどろから口が何個も出てきて、水をばくばく食べるのだ。飲むというより、食べている。勢いよく、飴でも砕くかのように。どうやら私の口は触手のようなものについているようで、触手のように伸びて食べに行くというなかなかえも言い難い絵面になると思うのだが。
咲々はにこにことしている。
「だって、村を守るために土地神様が体を張っているんですよ? 尊くないわけないじゃないですか」
何、この子、惚れそう。
咲々が生きていてくれたならなぁ、とつくづく思う。私は生きているものを守るために存在するのだから、生きている咲々の祈りだったなら、もっと強くあれるのだ。
しかし、死人を蘇らせることはできない。神様でさえ、死んでから蘇るのは難しい。彼のイザナミさまのように。
それでも咲々の祈りがあるから、私はこうして生きていける。年毎に、より醜い姿になっていくが、あれだ。イワナガヒメさまのように醜女であるが末永く生きられるという特典がついていると思いたい。
「ふう……今年も大変な濁流だった……」
自分の腹——あるかどうかはわからないが——に収まった水の量を思い、言う。この村では水害が多いから、誰かが雨乞いなんて馬鹿なことをするはずがないのだが。
もしかしたらだが、天の神様が混乱して、雨乞いされた地域ではなく、この地に雨をもたらしているのかもしれない。土地神も楽じゃない。
手がないので、へどろを払えないまま、私はずるずると文字通り体を引きずって、お社の方へ行く。
私のお社というのは、見晴らしのいい坂の上に建っていた。ここからだと、村中がよく見える。私の体に目が見当たらないのが疑問だが、とにもかくにも見えるのだ。
今年も水害が起きなかったことを、村人たちは天の神様のおかげと勘違いし、天に祈りを捧げている。だが、それももう見慣れきった光景だ。
何故ならば、私が水を食べ始めて、もう
あまり人間の日常生活を見たりはしないが、他の人間と違わず、あの少年も自らの血を繋いで、黄泉の国へと逝ったのだろう。
ちゃんと私のことは伝わっているらしく、子どもなんかがたまにお社を通りかかると合掌していく。それに文句をつけるわけではないが、神様は二礼二拍手一礼である。
この国というのはたくさんの神様に溢れながら、仏教という、人間が悟りを開いて神のように昇華されるという思想がだいぶ広まっているようで、その仏教と我らが神道をごちゃ混ぜにしている傾向がある。これは仏教にとっても嘆かわしいことだろう。まあ、神である私が憂うべきは神道の行く先なのだろうが。
祈りはなくとも、合掌そのものに意味がないわけではない。私が「食べる」ときに「いただきます」や食べた後に「ごちそうさま」というように、有難く思う、という思想が合掌には込められているのだ。
合掌だけでも、祈りほどではないが、私に力を与えてくれる。この村が神様をどういうものと認識しているかわからないが、子どもにそう教えているというのは有難いことなのだ。私も文句ばかりつけず、この村を真面目に守っていこうと思う。……咲々のためというのが大きいが。