球磨川が敢えて語るなら、と語り始める。
「僕があの自販機と出会ったときのことを教えよう——」
それはまだ梅雨の明けたばかりの頃。球磨川の家に従兄が遊びに来ていた。
球磨川の従兄はゲーマーで、反抗期で、何かに理由をつけて、球磨川の家に逃げてくる。ちょっと横暴というか、思春期特有の何もかもを見下したような傲慢さを持ち合わせている人間であった。
その日の夜中、球磨川は無理矢理付き合わされたゲームに負けたため、罰ゲームで従兄のパシりになることとなった。しかし、夜更けも夜更け、日を跨ぐ時間になっていたため、まだ中学生である球磨川が補導されないように少し年上である従兄が保護者代わりになって、街中の自販機を巡って歩いていたところ、坂道を上ったところに煌々と光る自販機を見つけた。
「あれ? こんなとこに自販機なんてあったっけ?」
従兄の呟きは球磨川がまさしく思っていたことだった。十三年この街で生きてきたが、こんなところに自販機なんてなかったような気がする。
だが、従兄も球磨川も、その自販機のラインナップに目を奪われた。スポーツドリンクがあるのは順当として、イチゴミルクの五〇〇ミリリットルペットボトルなんて珍しかったし、今や製造停止になって幻と言われるオレンジジュースやキウイ豆乳ミルクという豆乳なのかミルクなのかはっきりしてほしい代物やバナナジュースなんて自販機でも今時喫茶店でもあまり見ない品揃えだったのだ。驚くのも無理はない。
しかも、どれを見たって値段は破格。一番高くてスポーツドリンクの百五十円だ。安いものは百円からとなっている。自販機の価格高騰が進む世の中、破格と言える部類である。
従兄は球磨川をパシらせに来たのを忘れ、百円を投入して、バナナジュースを買った。従兄は昔に飲んだバナナジュースの美味しさを今も忘れられないと常日頃から話していたからなかなか見つからないバナナジュースに飛びついたのは仕方ないことだろう。
だがそこから先が問題だった。
自販機から女声がしたのである。
「お釣、くれないんですか?」
「わあ! この自販機、声も出んの? めっちゃ都会。つか声美人。……って、ん?」
そこで従兄がおかしいことに気づく。当然、球磨川も気づいていた。
今、この自販機は何と言った?
そんな疑問を見透かしたように、女声が繰り返す。
「お釣、くれないんですか?」
「はあっ!?」
夜ではあるが、そんな須っ頓狂な声が出たのも致し方あるまい。球磨川でさえ、耳を疑ったほどだ。
だが、球磨川は瞬時に見抜いた。——これは、怪異だ。
球磨川のオカルト的直感がそう結論づけたとき、そこに自販機の姿はなかった。
黒いどろどろとしたへどろのようなものが大きな口を一つ開いて言うのだ。
「では、お釣の代わりにいただきますね」
美人を彷彿とさせる声とは対照的に目の前で起こったことはグロテスクだった。
ぱくんっ
夜闇に映える赤々とした口が従兄を丸飲みにしたのだ。いくら怪異と言えど、球磨川はそのシーンに衝撃を受けた。
「えっ、えっ……」
まさかの人食い自販機? いや、なんでそんな凶悪なものがこんな田舎にあるんだ。──様々な思考が球磨川の中を駆け巡った。
混乱して混乱して混乱した果てに、球磨川はふととんでもなく関係のないようなことを唐突に思い出す。
そういえば、ここには昔、小さなお社があって名前は知らないが神様が奉られていたはずだ。——あれから十年近く経って、街の景観を変えるために、無情にもそのお社は消えることとなり、それに反対する者も現れなかった……そんな神様。
突拍子もなくそれを思い出したことが、オカルトづいている球磨川にはどうも目の前の怪奇と関連性があるように思えてならなかった。
もしかして、あの神様なのだろうか?
昔々、おばあちゃんに聞いた。そのおばあちゃんはもう死んでしまったけれど、確か、こう言っていた。
「あそこの神様はねぇ、ちゃんとお賽銭あげて拝めば、悪いもんを喰ってくれる、優しい神様なんで」
祖母の言葉を思い出した途端、球磨川は思った。この自販機を人食いにさせてはいけない、と。もし、あの神様なのだとしたら、この自販機がすべきは人食いではない。悪いものを食べることだ。
そこで閃いた。
「悪食……」
悪食とは本来、あまりいい意味では使われない言葉だ。だが、これがもしあの神様だったなら悪食以上に似合う名前などない。
悪いものを食べてくれるのだから。
「悪食自販機さん、兄ちゃんを返して」
すると女声は言った。
「いいですよ。美味しくいただきましたので」
その大きな口から従兄を吐き出すと何もなかったかのように自販機としてそこに鎮座していた。
美味しくいただきました、という割には、従兄には怪我がないようだし、食べられていた割には唾液まみれになっていない。ただ、バナナジュースのボトルを握りしめて、気を失っているようだった。
ほっと球磨川は一息吐き……ちょっと湧いた好奇心で小銭を余計に入れ、オレンジジュースを買った。
すると、今度は女声はこう言った。
「お釣、いただきますね」
ちゃりん、と自販機の奥で音がする中、恐る恐るだが、球磨川は「いいですよ」と答えた。すると、釣り銭が落ちてくることはなく、先程の化け物が現れることもなかった。
拍子抜けしつつ、球磨川は従兄を起こして家に帰った。
それが球磨川とアクジキジハンキの最初の遭遇であった。
聞き終え、蓮はふと疑問を口にする。
「球磨川くんのときは白黒空間にはならなかったの?」
「うーん、色々衝撃的すぎて覚えてないけど、ならなかったと思うよ。八月一日くんのレポートにあるように時間のずれとかもなかったし」
それは妙だ。規則性があるのだろうか。
頭を悩ます蓮に球磨川は悪戯っぽくにやりと笑って告げた。
「夜は怪異の時間だからねぇ。草木も眠る丑三つ時も近かったし、アクジキジハンキも力を行使しやすかったんじゃない?」
「力を行使、ねぇ……」
もしかして、アクジキジハンキが昼間に姿を変えるとき、白黒空間にするのは、夜に近くするためなのだろうか。
何にせよ、初遭遇した球磨川の話を聞けてよかった。少し収穫があったのだ。
アクジキジハンキは元々「悪いものを食べてくれる」神様だったらしいということ。その性質を加味して球磨川が名付けたことにより、アクジキジハンキは人食いにならず、祟り神にもならず、怪異という形に収まったということ。お賽銭代わりの釣り銭が何故必要なのかということ。
これだけ情報が集まれば、自由研究のレポートは埋められるだろう。
蓮は球磨川に礼を言い、脇で聞いていた裕もさりげなく球磨川を褒め、球磨川が慌てるという珍しい光景に遭遇した。
四人のクラスメイトを失ってしまったが、蓮はレポートを捨てなくてよかった、と思った。
人間に蔑ろにされてしまった神様のことを誰かが正しく伝えていかなくてはならない。球磨川の祖母のように。
そういう意味でこのレポートは重大な意味を持つのだ。蓮はこうして伝えていくことに一種の使命感を覚えた。