悪夢は口にしないと正夢になるというが、縁起でもないことを現実にしないためにはどうしたらいいのか。
蓮は今、玄関先でそんな思考回路に陥る状況に陥っていた。脇には昨日よりいっそう顔色を悪くした母がいる。そんな母に目の前に壁のように立つ御仁をなるべく見せないように、とその御仁の真ん前に立っていた。といっても、大して背の高くない中学二年生の蓮が立ちはだかったところで大の成人男性には到底敵わないが。
まあ、その成人男性というのが、何を隠そう、街で知らない人はいないであろう人物、佐伯社長であった。
まさか、昨日裕が言っていたことが現実になるとは、と内心で頭を抱えていた。そう、この状況はまさしく。
「昨日、嫁が君を尋ねてきたのだろう? そのとき何があった?」
佐伯社長夫人と昨日会ったという事実だけで蓮に佐伯社長がいちゃもんをつけてくるという状況であった。
「な、何があったと言われましても……」
アクジキジハンキのせい、と説明してもきっと理解はされないだろう。頭がおかしいと思われるだけだ。
それに佐伯嬢の件もある。因縁を感じるなという方が無理な話だろう。
「と、ところで社長、お仕事は……?」
「何故か急に嫁が真面目に働き出してな。任せてきた」
いや、奥方に仕事を押し付けるのはどうなのだろう、と思うのだが。——急に真面目になった、という部分も気になるところだ。
「ご夫人は何か仰っていなかったのですか?」
「それが、よく覚えていないからお前に聞けと」
丸投げされたというわけだ。
まあ、仕方あるまい。あの自販機の手にかかると前後の記憶があやふやになるらしいからな……と物思いに耽りつつ、蓮は外に出て、佐伯氏とタイマンになった。
「あの……確かに、佐伯さんのときも、ご夫人のときも、僕が一緒にいたことは否定できませんが、まるでそれだけで僕が悪いみたいな扱いを受けるのは不当だと思うんです」
「なんだ?
いや、小童って。四十そこそこのおじさんが使うような言葉だろうか。もっと年嵩のいった方が使う方が相応しいように思うが。
見ていて思う。昨日来たときの佐伯夫人といい、今目の前にいる佐伯氏といい、非常に態度が高圧的だ。権力があるから偉いとでも思っているのだろうか。実際偉いは偉いが、偉いからって何をしてもいいわけではないはずだ。人との接し方に問題がある。
こんな二人に育てられたなら、佐伯が高圧的で高飛車に育ってしまうのも仕方ないことだったのかもしれない。子は親を選べないとはよく言ったものだ。
だからといって、握力を失ってしまった佐伯を憐れむことはない。佐伯は佐伯。親など関係なく、蓮は嫌いなままだ。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、というわけではない。だから、佐伯の親に当たる必要はない。
だが、佐伯氏に不信を抱かれ、説明を求められている手前、その責任を怠ることは自分に不利益をもたらすとしか考えられなかった。蓮はひっそり溜め息を吐き、またあの道を歩き、導いていった。
アクジキジハンキのことは仕方がないから脇に置き、二人があの付近で体調不良を起こしたことにすれば、不自然ではないだろう。蓮は本当に何もしていないのだから、後ろめたいことは何もない。
坂を上る佐伯氏はさすがに夫人のように音を上げることはなかった。ただ「普段百メートルも歩くかわからない嫁が、こんなに歩いたのか」とぼやいていたのが非常に気になった。百メートルも歩かないって、日常生活に支障を来さないのだろうか。
まあ、もしそれが本当だとしたら、昨日大袈裟に見えるほど佐伯夫人がへばっていたのも納得がいく。娘ばかりでなく、奥方をも花よ蝶よと愛でていたのかもしれない。一つだけ言うなら、明らかに愛で方を間違えていると思う。
そんなことを考えているうちに、じりじりと日が昇る中に、一つ、自販機が出てきた。特にこれといった目印のないそこに立つ自販機はけれどさほど存在感を主張しているようには思えない。
だが、この自販機が現れるとこんな定型文を吐かずにはいられないらしい。
「こんなところに自販機なんてあったか?」
「さあ……」
曖昧に頷き、蓮はこの辺りですかね、と示した。
「佐伯嬢も夫人も、この辺りで体調不良に……熱中症だったんですかね。足が緩んで、そこの塀に凭れかかって、意識が混濁としたようで……」
無難な説明を進めていく。
この説明で納得してもらえればいいのだが……その後の握力がなくなったとか、性格が急変したとか……その辺りは知らないことにする。
「納得がいかないのだが」
「いえ、そこは、僕もわからないところでして……」
「嘘だな」
「えっ」
急に嘘だと指摘され、蓮は動揺する。嘘といえば嘘なのだが、佐伯も夫人も介抱したのは本当だ。
「そんな……疑われても、困るんですが」
「だったら、何故この代わり映えのしない住宅地の景色の中でこの場所と特定できた? ……お前、無意識にこの自販機を目印にしていただろう? こんな見覚えのない自販機を」
それは全くその通りで、否定のしようがない。頭が変にいい人はこれだから面倒だ。
どうしたものか、と眉根を寄せるしかない。
「先程、お前はこの自販機が前からあったかという問いに対して、曖昧に返した。知らないかのようにな。だが、お前はこの自販機を目印にした。それで根本的な矛盾が発生するのだ。根本的な矛盾とは即ち嘘。嘘を言うやつの言葉のどこを信じればいいというのだ」
その上理屈っぽいときた。説明を投げ出したくなる蓮。だが、あることに気づく。
辺りの景色が白黒に変わっていた。
それから——
「あ」
「なん——」
佐伯氏は疑問を放つことができなかった。何故なら、彼を黒いどろどろとした化け物が一口に食らったからだ。
何故、アクジキジハンキの空間になっているのか。
蓮は一つ、思い当たることがあった。佐伯氏は自販機を示すたびに、こんこん、と自販機を叩いて示していたのだ。人間、何の理由もなく叩かれ続けたら、怒りが募るもの。アクジキジハンキは人間ではないが、この上なく人間臭いのは蓮も承知しているところだった。
「……あーあ」
蓮はそういうしかなかった。神様を怒らせてしまったこの人は、次はどうなるのだろうか……
「思わずいただいてしまいました」
黒いどろどろとした化け物から、いやに澄んだ女声が聞こえる。緊張感に欠けるものだった。
「しかしよくもまあ、次から次へと。都市伝説というのも、楽じゃありませんね」
「ごめんなさい」
「いいんですよ。おかげで昔より周知されています」
やはり、お賽銭がもらえなかった神様ということは、認知度が低かったということか。
「そろそろあなたも、何かくださいな」
それが自分に向けられた声であることに気づき、蓮は慌てて頷いた。
「ちゃんとジュース買いますし、お釣あげますから元の姿に戻ってください!」
丸飲みはさすがに勘弁である。
わかりました、とやけにすんなり悪夢の景色が終わる。蓮は太陽の位置を確認した。少し日が高くなっている。
やはり、悪夢の中では時間の進みが遅くなるらしい。
ふう、と息を吐き、蓮は自販機のラインナップを見る。キウイ豆乳ミルクが相変わらずおすすめになっているし、イチゴミルクの500mlボトルには「女性に人気」という札がついている。地味に進化しているらしい。
蓮は二百円を投入して、ドラゴンフルーツジュースなるものを買った。ドラゴンフルーツは何回か食べた程度だが、美味しかったと記憶している。価格は百三十円。
ちゃりん、と自販機の奥で音がした。
「お釣、いただきますね」
そういえば、佐伯氏の安否の確認を忘れていた、と思ったが、まあいいか、と適当に流して、自販機の声に「いいですよ」と返した。
すると、自販機から朗らかな声が。
「では、あなたの『悪いもの』いただきますね」