「……え」
そこには代わりのように結露を表面に浮かべた、先程佐伯夫人が購入したイチゴミルクのペットボトルがあるだけだ。そのイチゴミルクのペットボトルこそ、まさしくアクジキジハンキがそこにあった証明なのだが……アクジキジハンキそのものは、綺麗さっぱり跡形もなく消えている。
そういえば、吉祥寺のときもそんなことがあった。さっきまであったのに消えていて、戸惑ったのだ。では、アクジキジハンキとは、神出鬼没の怪異なのだろうか。
考えてみれば最近まで見つかっていなかった怪異なのだ。蓮も初めて見たときは「こんなところに自販機なんてあったっけ?」と思ったくらいだ。
つまり、「元々ここに自販機などない」ということだ。アクジキジハンキは気紛れに現れる怪異ということになる。それにしては、蓮とのエンカウント率が高いが。
と、考えていると、夫人が立ち上がり、「ごきげんよう」と帰ろうとする。慌てて引き留めて、イチゴミルクを渡した。熱中症の人間に渡すような飲み物ではない気もするが、一応、水分と言えば水分だ。ないよりあった方がいいだろう。
すっぴんになった夫人は品よく微笑み、ボトルを受け取ると、何事もなかったかのように帰っていった。
「……なんだったんだろう」
佐伯のことについて、怒鳴り散らされ、ここに連れてくることにしたのだが、夫人は、元々蓮に向けていた敵意のようなものがなかったかのようになって帰った。茂木のように、また性格でも喰ったのだろうか。だとしたら、本当に悪食だ。
さて、家に帰ると、蒼白な顔の母が待ち受けており、蓮が帰ってくるなり抱きついてきた。一応蓮は思春期の男子であるため、母とはいえ、異性にいきなり抱きつかれるとどきりとするのだが、母はそんなことお構い無しだ。
「大丈夫だった? 何もされなかった? 怪我はない? 何か言われなかった?」
「か、母さん、一つずつにしてよ……」
矢継ぎ早に放たれる母からの質問に、蓮は狼狽え、苦笑した。心配症だなぁ、と思いつつ、答える。
「大丈夫だよ」
「よかったぁ……遅いから、心配したのよ」
心配しすぎ、と返そうと思ったが、時計を見上げると、もう針は正午へ向かっている。家を出たのは数時間前ということになる。それでは心配にもなるだろう。
だが、佐伯夫人とアクジキジハンキに出会して過ごした時間はどんなに多く見積もっても数十分程度だ。……あの怪異は時間を操る能力でもあるのだろうか。
まあ、怪異相手なら、何があっても不思議ではない。どこに行ってもメリーさんが追いかけてくるのと一緒。都市伝説というものには、得てしてそういうところがあるのだ。これはここ数年毎年やっている百物語でもわかったことだし、何より怪異に詳しい山川コンビが常に口を酸っぱくして言っていることだ。
蓮は素直に母の言葉を受け入れた。この心配を蔑ろにするのはいただけないだろう。
それに正午になるということは、午後に裕と会うという約束の時間が近づいてきているということだ。早く昼食を摂って、出なければ。
「さ、お昼はもう準備してあるから、食べて」
「ありがとう、母さん」
そんな言葉を交わす向こうで、正午を知らせる時報が鳴った。
午後一時半。裕との待ち合わせの時間である。
蓮は複雑な山道を迷うことなく上り、裕の家に着き、裕の母から冷たい麦茶を出されているところだった。裕は修行で掻いた汗を流すのに、風呂に入っているらしい。
裕が上がってくるまでに、質問を纏めておこう、と思った。自由研究用のレポート用紙とメモ帳は持ってきてある。
アクジキジハンキについて、気になるところを箇条書きに書き出してみた。
・アクジキジハンキとは何者なのか?
・アクジキジハンキはただの怪異なのか?
・アクジキジハンキは何故お釣を求めるのか?
・アクジキジハンキに喰われない方法とは?
アクジキジハンキがただの怪異ではないことは、蓮にもわかっている。アクジキジハンキは怪異にしては珍しく、「意志」を持っている。
例えるなら、またメリーさんの話になるが、メリーさんは死神で、対象を追いかけてくるのは、それが「メリーさん」という存在の役目だからだ。役目として定められているからメリーさんは追いかけてくるのであって、そこにメリーさん自身の意志は存在しない。
他にも、何度捨てても戻ってくる呪いの人形も、「捨てられるのは嫌だ」という妄執に囚われているだけであって、人形の意志とは言えない。この街で有名な「手押し車のおばあさん」という都市伝説だって、そのおばあさんが他人を引きずり込むために現れているわけではないだろう。きっと車に轢かれたときに「死んだ」という自覚がなくて、なんとなく、似たような状況になったときに、進めなかったその先に進もうとして現れるだけの地縛霊だ。そこに自由意志の存在はない。
比べて、アクジキジハンキはどうだろうか。まるで人間であるかのように、蓮と会話をし、怪異である割に人間臭い言葉を吐くし、感情の発露までする。こんな怪異が他にあるだろうか。
そこに関する見解は様々あるだろうが、蓮はまず、修験者として本格的な修行を始め、力をつけ、そういう方面の知識を身につけてきた裕に意見を聞いてみたかった。それに、蓮の予想では、裕は少なくとも一度、アクジキジハンキに遭遇しているはずなのだ。裕の様子に変化はないというから、アクジキジハンキに何かを喰われた、ということもないだろうが……お釣を渡しても食べることがある、というのが、昼間の佐伯夫人との一件で明らかになったため、裕が何も喰われていないという保障にはならない。
アクジキジハンキ曰く、悪食だから、悪いものを食べる、とのことだが……悪食というのは本来、どんなに体に悪いものがあっても無差別に食い尽くすという意味だったと思う。アクジキジハンキの中でそういう縛りにしているというのなら何も言えないが、本当の悪食というのは「何でも食べてしまう」ということなのだ。
裕が無事であることをこの目できちんと確認できなければ安心できなかった。……何をもって無事と表現するかは、少しわからなくなりつつあるが。
一杯の麦茶を飲み干す頃、ようやく裕が現れた。少し長めの坊主頭をバスタオルでぐしぐしと拭いている。目付きがあまりよろしくないが、裕のそれは元々だ。修行を始めてからきりっとした感じになった、と言えばいいか。蓮はほぼ毎日と言っていいほど裕と顔を合わせているため、裕の変化には疎いのだが、そんな蓮でも、裕の変化は感じ取れた。より僧侶らしくなってきているというか。霊感持ちのクラスメイト、五月七日曰く、かなり力をつけてきたらしい。法力、というか、対魔の力というかが強くなっているという。
なんとなくだが、蓮も裕の傍にいると安心感がある。
裕はバスタオルの合間から蓮の顔をまじまじと覗いた。
「大丈夫か?」
「え? ああ、うん」
そういえば昨日、気絶したところを介抱してもらったのだったか。茂木と佐伯夫人の件があったため、遠い昔のように思える。これもアクジキジハンキの効果だろうか。蓮は軽く裕に礼を言った。裕は気にするな、と返してくる。
やがてバスタオルで頭を拭くのをやめると、不意に指摘した。
「お前、また関わっただろ、あの怪異に」
どきりとした。図星だったからだ。ついさっき遭ってきたばかりである。
「アクジキジハンキのこと?」
「あー、あれ、そういう名前なのか? 初めて聞いた」
「球磨川くんが見つけて、そう名付けたって」
「球磨川……」
若干遠い目をする裕。おそらく、昨日蓮がオカルト部からその話を聞いたときと同じ心情になっているにちがいない。
「まあ、いいや。何もされなかったか?」
「僕は何も」
「ならいい」
佐伯、吉祥寺、茂木、佐伯夫人には色々あったが、伏せておいた。裕もわざわざそこまでは聞いてこない。気遣ってのことだろう。
蓮は溶けかけの氷を口に含み、がりがりと噛み砕いてから、本題を切り出した。
「裕、今日聞きたいのは、そのアクジキジハンキのことなんだ。僕の予想が当たっていれば、昨日君も会っているはずだ」
「……ああ。自販機な。うん、会った」
やはり、昨日のスポーツドリンクはあの自販機で購入したものらしい。
「何か喰われなかった?」
「んー、少しあるものを喰ってもらったかな」
「喰ってもらった」。つまり、任意で裕は喰われたのだ。あるもの、とぼやかしているから、何を喰ってもらったかは教えてもらえないだろう。
ただ、日常生活には支障のないもののようだから、一応安心する。
「じゃあ、聞かせてもらいたいな。アクジキジハンキを見た裕の見解を」
蓮が言うと、裕は短く「そうか」と呟き、それから告げた。
「あれは怪異っていうより、祟り神が近いな」