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 薄暗くなってきた中、蓮はぺちぺちと茂木の頬を叩いていた。蓮は男だが、そんなに体つきのいい方ではない。故に茂木を抱き上げて帰ることはできない。そもそも茂木の家の正確な場所を知らない。

 十三年も同じ町に暮らしているというのに、それは薄情なことだろうか、とも思うが仕方ない。普段から遊びに行く裕の家ではないのだから。裕の家へだって、蓮の案内がなければ、クラスメイトの誰もが道に迷うだろう場所だ。何年も同じクラスメイトとはいえ、結局はそういうことなのだ。交友関係が物を言う。

 茂木を放置して帰るという手もあったが、薄暗い時間に女子を一人、意識のない状態で放置しておくほど蓮は腐っていない。というわけで、茂木を起こそうとしているのだ。

 幸い茂木は吉祥寺のように複雑骨折をしているわけではなさそうだ。意識不明とはいえ、健やかな寝息を立てている。体力如何は起きないとわからないが。

 ぺちぺち、とそれから何度か続け、夕陽が心許なくなってきた頃に、ようやく茂木が反応を示した。

「う、ぅん……?」

「あ、やっと起きた、茂木さん?」

 茂木は目を開け、真っ直ぐに蓮を見る。いつもの目付きの悪さは見られない。意外だ。寝起きなら尚更目付きは悪くなるものだと思うのだが。

 しかし、それが明らかなる異変であることが、次の瞬間わかった。

 茂木がこてんと首を傾げて蓮に問いかける。

「あたし、ここで何していたんですか? 八月一日くん」

「へっ」

 彼女がアクジキジハンキのことを覚えていないことより、その穏やかな声音、口調、名前の呼び方に蓮は驚きを隠せなかった。

 茂木冴とは、口調がもっと乱雑で、どこか上から目線で、蓮のことは苗字で呼び捨てだったはずだ。彼女が男だったなら、間違いなくガキ大将だっただろう。まあ、葉松ほど馬鹿ではないが。

 それはさておき、悪印象満載の茂木が急に敬語、そして穏やかな印象を持たせる雰囲気になり、蓮は、夢かと思って目を擦る。すると茂木が「あまり擦ると腫れますよ」という気遣いの言葉を発する。

 蓮の記憶する限り、茂木は他人を労るような発言をする人物ではなかった。同じ意味にしても「そんなに擦っと目ぇ腫れんぞ。そんときゃ笑ってやるけどな」くらいの発言をする人物だったはずだ。

 ……まあ、ああだこうだと言っている時間ではない。パンザマストが鳴ってから、もう随分と時間が経っているのだ。自分も茂木も、帰らないと親に心配されるだろう、と蓮は疑問を振り払い、茂木に声をかけた。

「茂木さん、歩ける?」

「問題ありません」

「家まで大丈夫?」

「お気遣いいただき、ありがとうございます。一人で行けますよ」

 ……どうしようもなく、蓮の頭に違和感が溢れた。敬語で、柔らかい物腰の茂木。今までとはまるで、別人みたいだ。

「あれ? そちらのコーヒーは?」

 茂木が疑問符を浮かべたことで蓮がはっとする。もう結露さえも失って温くなっているが冷たかったその缶コーヒーは茂木が購入したものだ。が、茂木はアクジキジハンキに食われる前の記憶が曖昧らしい。

「茂木さんがそこの自販機で買ったものだよ」

 そこまで言って、気がつく。そうだ、茂木は「アクジキジハンキに丸飲みされて出てきた」。アクジキジハンキは「自分は悪食であって人喰いではない」と主張していた。そこにヒント……というか、答えがあった。仮定ではあるが。

 アクジキジハンキは悪食だ。悪いものでも食べる。例えば、佐伯の腕や、吉祥寺の足。では、「お釣の代わりにいただきますね」と口に入れた茂木の「何」を食った?

 茂木は口が悪く、目付きが悪く、性格が悪かった。──つまり、ここから予想できるアクジキジハンキの行動は「茂木の悪いものを全部食った」だ。

 それならば茂木の柔らかい物腰も敬語も理解できる。きょとんとした表情も。

 蓮は思った。なるほど、「悪食」だ。

 蓮は茂木に適当な説明をし、コーヒーを渡して帰らせた。

 茂木の姿がなくなると、蓮は自販機を見つめる。普通に見れば、ちょっとラインナップの変わった自販機にしか見えない。黒くてどろどろしたあの塊には見えない。

「……暴いてやるからな」

 何せ、夏休みの研究対象だ。蓮は挑戦的な目線を自販機に投げかけて、その場を去った。


 家に帰ると今日一日の出来事を全てまとめる。まとめながら、「うわあ、濃い一日」と呟いてしまったのは仕方がない。

 朝、ジョギング中の佐伯に出会す。それだけで大抵のクラスメイトはげんなりするだろう。実際、蓮もした。

「アクジキジハンキは、お釣を取ろうとした人の何かを食べる」

 レポート用紙にまずそう書き出す。

 それから、佐伯を運んだ後、吉祥寺に絡まれたことを思い出す。佐伯絡みで何かあると、吉祥寺は必ずセットらしい、ということになんとなく苦笑する。

 半信半疑だっただろうが、吉祥寺は敬愛する佐伯お嬢様に仇成した自販機を許せなかったのだろう。自販機を足蹴にした結果、第二の怪奇の犠牲となった。

「アクジキジハンキは、足蹴にすると足を喰う」

 足蹴にするといけない、という辺りはなんとなく墓石に似ている気がした。

 墓石、と蓮ははたと思い出す。そういえば、裕は寺の人間だ。気を失った蓮をあの自販機の怪奇の前から遠ざけてくれた。ということは、裕はあの怪奇の自販機を目撃しているかもしれない。直接見ていなくても、裕は修験者だ。何か感じたかもしれない。

 そこのところを確認してくればよかったな、と思うが、まあ、後の祭りだし、裕は蓮の幼なじみだ。一緒に修行もする仲だし、残りの夏休み中、いつ行ったって、支障はないだろう。

 そんな裕の家から帰る途中で、茂木と会った。振り返るとやはり、茂木は高圧的で暴力的な振る舞いだったと思う。……アクジキジハンキに喰われるまでは。

「アクジキジハンキは、お釣がないときはその人自身の『何か』を喰う。ただし、アクジキジハンキは、『悪食』であって、『人喰い』ではない。人間を喰うということはないらしい」

 そこまで書いてアクジキジハンキが言っていたことを思い出す。


「あなたたちはアクジキジハンキと呼ぶのでしょう?」


 アクジキジハンキの言い様はまるで「呼び方」に縛られているみたいだった。「悪食」と名付けられたから「人喰い」にならずに済んだとも言っていたはずだ。今日佐伯を始めとする人間が体を喰われるというちょっと──いや、かなりグロテスクな事態にならなかったのは、「アクジキジハンキ」という名前のおかげなのかもしれない。

「……そういえば、アクジキジハンキって球磨川がつけた名前なんだっけ」

 とうとう都市伝説の名付け親になった球磨川に蓮は遠い目をするが「人喰い自販機」ではなく、「悪食自販機」にしたのはファインプレーだったのだろう。おかげで怪奇に晒された人物はかろうじてでも生きている。

「あー、香久山と球磨川に会いたかったんだよな」

 本日の当初の予定を今になって思い出す。時間は夜の八時過ぎ。良い子の寝る時間は近い。確か連絡網なんかに電話番号があったはずだが、今から電話をかけても迷惑になるだろう、と自粛した。

 アクジキジハンキをもっと知るためには、一度球磨川に会わないといけないことは確かだろう。何せ名付け親だ。誰よりアクジキジハンキに詳しいにちがいない。

 だが、と蓮は脳内を整理する。蓮はアクジキジハンキを調べるにあたって、会わなければならない人物が他にもいる。

 現在は冷蔵庫に仕舞われているスポーツ飲料。茂木との一幕でわかったことだが、あのスポーツ飲料はアクジキジハンキのラインナップのものだ。アクジキジハンキのラインナップには全てメーカーが書かれていない。そして、蓮が裕からもらったあの飲料にもメーカーロゴがなかった。

 つまり、裕はアクジキジハンキに出会している。そして、適切な対処をして、その怪奇から逃れた。

 記憶によると、スポーツ飲料はあの破格の自販機にしては高値の百五十円だったはずだ。百円の次にお釣が出にくい金額だろう。相楽のように二百円を入れたのかもしれないが。

 それから、その相楽にも会う必要がありそうだ。相楽は昨日、アクジキジハンキに適切に対処していた。それからこうも言っていた。「今日一日平和に済んだのはアクジキジハンキのおかげだよ」と。

 相楽は「アクジキジハンキ」がどういうものか知っている。それを知って「さま」という最上級の敬称でもって呼んでいるのだ。もしかしたら、アクジキジハンキの正体まで知っているかもしれない。

 ……まあ、相楽は事前に山川コンビに会っているから、正しい対処をちゃんと教えてもらえたにちがいないが。


 それにしても、濃密な一日だった、と蓮は思う。相楽と会ったのが遠い昔の記憶のようだ。

 今日は疲れた。もう寝よう。蓮は部屋の電気を消し、布団に潜った。



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