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 そもそも、だ。

 女子を物理的に押さえ込もうという考え方は如何なものか、と蓮は思った。蓮は佐伯に謗られた通り、帰宅部だ。運動もよくするとは言えない。ただ、裕と一緒に修行をする一環で山登りをしたり、滝行をしたりということはあるが、体力はあっても、それを暴力に使うことは嫌っていた。

 故に、自分を押さえ込みに入った茂木に上手く抵抗できずにいた。

「なっさけない男ね。少しは抵抗してみせなさいよ」

「抵抗って言っても……僕は暴力は嫌いだよ」

「二人を陥れた人間の口から放たれたとは思えないほどの綺麗事だこと」

「陥れたわけじゃない!」

 そこはすぐに否定する。

 正確に言うならば、佐伯と吉祥寺は勝手に落ちていっただけだ。蓮に責任はない。

「陥れたわけじゃない? じゃあ、何かしたってことは認めるわけね?」

 言葉尻を取った非常に卑怯な論法だ。だが、蓮は何もしていないと言い切ることはできなかった。佐伯の件も吉祥寺の件も、蓮の目の前で起こったのだから、関係ない、なんて言えなかった。

 けれど、どう語ったらこの怒れる少女を納得させることができるのか……思考を巡らすも、上手い言葉が浮かばない。そんな中、茂木は容赦なく、肩に手をかけ、外そうと力を込めてくる。痛みに頭が回らなくなってくる。ドスの利いた声で、茂木は「答えてみろよ」と語る。

 葉松がいなくなった現在では、茂木がガキ大将のようだ。暴力と理不尽の徒。そう思うと、蓮は苦しみ以外の理由で顔が歪んでいく。

 こいつも、佐伯や吉祥寺のように、クラスに存在してはいけないやつだ……

 そんな思いがよぎると同時、自販機の色がやけに自己主張しているように蓮には見えた。まるで自販機が、「妾を使え」とでも言っているかのように映る。

 瞬間、蓮は脳内で弾けた思考と同時、茂木を振り払った。まだ外されかけていた肩が痛いのを押さえてから、蓮は指で自販機を示す。

「全ての元凶はその自販機だよ」

 息も絶え絶えにそう告げる。すると、茂木は納得いかなさそうに「はあ?」とガンを飛ばしてきた。

 そりゃ、いきなり自販機が悪事を成したかのように言われたら、疑いもするだろう。自販機とは普通、ただの無機物なのだから。

「とりあえず、何か飲み物でも買ってみたら? そうしたら、君にもわかるよ。佐伯さんたちの身に何が起こったか」

「自分の口から語る気はない、と。ふぅん」

 すると、茂木は苛ついたのか、蓮の鳩尾に一発拳を入れてから、自販機に向かった。蓮は口から空気の塊を吐き出し、そのまま崩れるがそんなことはお構い無しだ。

 茂木は自販機のラインナップを見た。そしてすぐになんじゃこりゃ、と声を上げる。仕方ないだろう。アクジキジハンキのラインナップは奇抜だ。

「浅煎りコーヒーなんてあるんだ……変なの」

 どうやら茂木はその浅煎りコーヒーというのを選択したらしい。よろよろと立ち直った蓮も自販機を確認すべく覗くと、浅煎りコーヒーは小さな缶で、値段は百円。茂木は百円を投入した。お釣は出ようがない。

 こんなケースを想定してはいなかった。「お釣、いただきますね」が定番のアクジキジハンキ。お釣がない場合は、何も起こらないのだろうか。だとしたら、余計に厄介なことになる。

 ごとん、と自販機に落ちてくる浅煎りコーヒー。自販機の向こうにちゃりんと落ちる百円。

 蓮は固唾を飲んで自販機を見守る中、茂木はつまらなそうな顔をして自販機を睨んでいた。これで何も起こらなかったなら、蓮をどうしてくれようか、とでも考えているのだろうか。そんな殺気立った目である。

 自販機は沈黙している。だが、やがて、ノイズのような耳をつんざく音が走り、女声が聞こえた。

「お釣、くれないんですか?」

 予想外の展開に、茂木も蓮もぽかんとした。電子的な女声が語りかけてくる。それだけでも異常なのに、発生しなかった釣り銭を求める言葉とは。

 だが、すぐに茂木が眉根を寄せる。はあ? と険の滲んだ声がその口から零れた。

「なんで出てもいないお釣なんかをやんなきゃなんないわけ? 何? わけわかんないんだけど」

 自販機をそう評した後、茂木は蓮に振り向き、問う。

「で? 佐伯嬢と吉祥寺はこんなんの何に引っ掛かったってわ、」

 茂木の台詞は途中で途切れた。茂木の後ろから、するりと何かが茂木の腕を掴んだから。

「……へ?」

 掴まれた腕を見、茂木が顔色を悪くする。腕を捕まえていたのは、黒い靄のような塊。よく見れば、手の形を象っているようにも見える。

 あからさまに不気味なそれに茂木は恐る恐る後ろを見た。蓮も釣られてそちらに目をやる。

 そこには、蓮にとって本日三度目となる黒いどろどろとしたへどろのような化け物がいた。ただ、佐伯や吉祥寺のときと少し違う点があった。

 口だ。

 茂木の前に現れたその化け物には口が一つしかない。

 その口からは赤々とした舌が覗く。べろりと口端を舐めるその口だけが悪夢の世界に変わった中で唯一際立つ色だった。

「な、何よ……」

 あの茂木が、あからさまに怯えている。茂木の位置から化け物の赤い舌は見えなかっただろうが、舌舐めずりの音ははっきりと聞こえたのだろう。かたかたと全身が震え、鳥肌が立っているようだった。

 蓮は何も言えなかった。ただただこの現状に呆然とするばかりだ。——一体、何が起ころうとしているのか。

 おどろおどろしい雰囲気はそっちのけで、自販機の女声がのんびりとした声で、あっさりという。

「では、お釣の代わりにいただきますね」

「は、な」

 茂木の言葉はそこで途切れた。茂木の姿がそこから消えたから。

 正確に言うならば、茂木は化け物の大きな口に一飲みにされたから。

「茂木さん!?」

 アクジキジハンキというが、まさか、人喰いまでするとは。眼前で起こった現象に、蓮は愕然とするしかなかった。

 茂木は咀嚼されることなく、丸飲みされた。果たしてこれが、現実にどう作用するのだろうか。佐伯や吉祥寺はまだ生きているからいいとして……化け物に喰われて、茂木は、死んでしまわないだろうか?

 よぎるそんな可能性。

 蓮は思い切って、自販機に叫ぶ。

「も、茂木さんを返して!」

 言葉にしてから、自嘲に囚われる。……茂木をいらないと思ったのは、誰だ。その口で、茂木を返せというのか。

 茂木をいらない存在だと思ったのに。

 それを見抜いたようにアクジキジハンキが言う。

「何故? あなたがこの人間に味方する理由がありますか? さっきあなたはこの人間にひどい扱いを受けていたではありませんか。そして心のどこかでこの人間を忌み嫌っている」

 図星をつかれて、蓮は返す言葉がなかった。確かに、茂木のことを蓮は嫌っていた。暴力も理不尽だと感じた。必要ないとすら……反論ができなくて、蓮はぎゅ、と拳を握りしめる。

 それを見て何を思ったのか、アクジキジハンキは「人間とはわけのわからない生き物ですねぇ」と呟いた。

「そんなに面倒な生き物なら、妾たちの掌の上で転がされていればいいのに」

「……あなたは、何者なんですか?」

 蓮が訊くと、黒い塊が蠢いて、肩を竦めるような所作をしてみせた。

「アクジキジハンキですよ。あなたたちはそう呼ぶのでしょう?」

 その女声は自販機のような淡々とした語調ではなく、どこか諦めたような口調で投げ捨てるようにそう吐いた。

 それから、思い出したように続ける。

「別に、妾はアクジキジハンキという名前が嫌いではないですよ。妾は悪食でも、人喰いにならずに済んだのだから」

「え……」

「だから妾は人喰いではないんですよ」

 そういうと、化け物は口から茂木を吐き出した。入ったときとそっくりそのままの姿で。唾液などがまとわりついていることはない。どうやら茂木は気絶しているようだが、それだけだ。吉祥寺のように骨を砕かれたわけでもないようなので、心持ち安らかな表情で眠っている。

 安心すると同時、なんで、と口から零れた。それは疑問であり、本音だった。——そう、本音では、茂木に戻ってきてほしくなかった。

 そんな仄暗い思想を振り払うように頭を振ると、その一瞬で景色が元に戻る。少し薄暗くなった町。ぽつぽつと家に灯りが点き始めている。

 蒸し暑い中、アクジキジハンキの方に目をやると、今宵は熱帯夜になるであろうことを暗示するように、浅煎りコーヒーの缶を結露が滑り落ちた。

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