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 確かに、自販機は跡形もない。まるで最初からなかったかのように。

「そんな……」

「君も具合が悪いんだろう。早くおうちに帰った方がいい」

 救急隊員に言われて、蓮は頭を抱える。

 あれは夢だったのか? 否、確かに佐伯は手を喰われ、吉祥寺は足を喰われた。起こったこと自体は現実だ。だが、当のアクジキジハンキが、ない。目の前にあったはずなのに。

 呆然としていると、誰かに腕を引かれた。

「蓮、何やってんだ」

 修行のおかげか、幾分がっしりとした幼なじみの裕の腕だった。蓮は気づいて、泣きたくなった。というか、気づくと泣いていた。

 いきなり幼なじみに泣きつかれて、裕は戸惑っていた。何が起こったのかはわからないが、この時期になると蓮が情緒不安定になるのを裕は承知していたから、深くは問わなかった。そのためか蓮は延々と泣き続けて、救急車がいなくなって、音が遠ざかっていくと同時、力が抜けた。体重を全部、裕に預けるようにして、裕は戸惑ったが、蓮の泣き疲れた様子に、どこかほっとしていた。幼なじみである蓮は、昔から色々と心の裡に溜め込みやすいのだ。幼なじみの裕にさえ、なかなか明かしてくれないこともある。

 そんな蓮は四年前の事件——クラスメイトだった度会わたらい夏彦なつひこが目の前で電車に轢かれるのを見てから、不安定になった。

 幼い頃、一緒にお寺に務めようか、なんて言っていたが、蓮には無理なように裕は感じていた。蓮は感受性が高すぎる。心頭滅却するような修行僧には向かない、と心の中で密かに思っていた。蓮は、心頭を滅却することなんてできないのだ。感受性が高すぎるから。受け止めてしまったものを放ってはおけないから。

 そういう意味では、俺は非情なのかもな、と裕は気を失った蓮を抱き上げながら考える。裕はいじめられている者の味方であったが、それは人間の倫理観として当然と思ったからしただけであって、それ以上ではない。その証拠に、同級生だった度会の訃報を聞いても、涙一つ流してやれなかった。やれることは、彼をいじめていた同級生への復讐の手伝いだけ。

 度会という魂を成仏させるための言い訳にすぎないのだ。

「優しいお前が羨ましいよ」

 裕は蓮の髪を撫で、告げる。蓮は疲れきってしまっているようで、答えなかった。

「さて」

 裕は立ち上がり、後ろを振り向く。

「俺の専門じゃないんだが、蓮が関わっている以上、放っておくことはできない。貴女の目的は何だ?」

 裕が振り向いた先には、先程までなかったはずの自販機があった。

 自販機は答えない。

 裕も、無理に聞くことはしなかった。

 裕にとって、この自販機は専門外だとわかっていたからだ。

 蓮は目を開けて、がばりと起き上がった。藺草の匂いのいい畳の上、タオルケットをかけられて自分は寝ていたらしい。辺りを見回し、なんとなく思い至る。ここは幼なじみの裕の家だ。

 気絶してしまったらしい、と自分の弱さを恥じ、蓮は畳に手を突いて項垂れようとしたところであることに気づく。枕元にスポーツ飲料が置いてあったのだ。

 何故かそのボトルに既視感を覚え、しばらくぼうっと見つめ──既視感の正体に気づき、ずざざっと遠退く。そのボトルはアクジキジハンキで販売していたうちの一つではないか、と思ったのだ。

 そう思うと、蓮はいてもたってもいられなくなり、部屋を飛び出す。勝手知ったるなだけあって、すぐ裕の部屋に向かった。

 ここが裕の家であるならば、蓮をここへ運んできたのは裕に他ならない。夏の熱中症対策がてら、スポーツ飲料を蓮のために買ったとすれば——どうしても、アクジキジハンキのことが脳裏をよぎり、嫌な予感を生み出す。

 もし、裕がアクジキジハンキの都市伝説に絡め取られていたら——蓮は顔を青ざめさせて、裕の私室の戸を開けた。

「裕っ!」

 部屋には誰もいない。それが不安を募らせる。

 蓮はそこからばたばたと居間へ向かう。——いない。

 どうしよう、と焦燥に駆られる蓮に、裕の母の声が入ってくる。

「あら、蓮くん目を覚ましたのね。そんなに元気なら、もう大丈夫かしら」

「そんなことより、裕は!?」

 年上相手だというのも忘れ、蓮は必死になる。裕の母はあらあら、というに留まり、唇に人差し指を立てた。

「御堂で修行中よ。静かに」

「裕は無事なんですか?」

「無事も何もぴんぴんしてるわよ。蓮くんをお姫様抱っこで連れてくるのはどうかと思ったけど」

「お姫様だっ……こ?」

 途端に顔面が焦土と化す。そんな恥ずかしい態勢で運ばれたのか、ということに一旦気が逸れたため、蓮は少し冷静になった。御堂で修行中ということは、アクジキジハンキの餌食になったということはなさそうだ。

 杞憂に終わってよかった……と蓮は胸を撫で下ろす。

「そういえば、近くの坂で事件があったんですってね。それに巻き込まれたとか。大変だったでしょう?」

 裕の母からの指摘に蓮は肩をびくんと跳ねさせる。坂で怪我人が出た、という風に吉祥寺のことは伝わっているらしい。

「しかも、噂では足の骨が複雑骨折の一言では済ませられないくらい粉々だとか。……そういえば、あなたたちの同級生は、そういうのが多いわよね」

 裕の母の言葉に、蓮が硬直する。

 確かに、蓮たちの同級生には色々なことがありすぎた。四年前に電車事故で亡くなった度会しかり、二年前、自殺したクラスのガキ大将葉松はまつ隆治りゅうじしかり。

 葉松の自殺の原因は、明言されていない。ただ、葉松は二年前、「とーちゃん、かーちゃん、ごめんなさい」とだけ遺し、自宅で首吊り自殺をしていたという。……おそらく、夏に行った百物語を苦にしたのだろう、と思い当たるが、言えない。

 元々、葉松や佐伯のせいで問題の多いクラスだったのだ。陰湿ないじめ、じゃれあいと称した暴力。葉松がいなくなって、暴力はほとんどなくなったが。

 そんな問題の多いクラスが、そう変わることはなく、毎夏開催される「百物語」では、毎年惨いことをしている——それはまた別の話であるが。

 今回のアクジキジハンキも、何の因果か、蓮たちの同級生の前に姿を現している。被害を受けたのは蓮の知る限りでは、佐伯と吉祥寺の二人。遭遇しているのは、少なくとも、相楽、球磨川の二人。もしかしたら、裕も遭遇しているかもしれないが、あのスポーツ飲料がアクジキジハンキのものかわからない以上、断定はできない。

 そう考えていると、パンザマストが聞こえてきた。もうそんな時間なのか、と目を見開く。真昼の事件から眠っていたのだとしたら、五時間もお邪魔していたことになる。

 裕に話を聞きたいところであるが、いくら幼なじみとはいえ、迷惑をかけすぎるわけにはいかない、と蓮は帰ることにした。裕の母から夕食の誘いを受けたが、断る。

 これから家に帰ったら、朝から昼間にあったことを「自由研究」としてまとめなければならない。あんな生々しい化け物のことを思い出すと、食べ物が喉を通る気がしなかった。

「お昼から何も食べていないでしょう? 大丈夫なの?」

 心配されたが断った。その代わり、裕が買ってくれたらしいスポーツ飲料を持ち帰ることにした。アクジキジハンキが関わっていようがいまいが、この時期にスポーツ飲料は有難い。脱水にくらいはならずに済むだろう。

 パンザマストが自分を追い立てているようにも聞こえて、蓮は急いで帰った。

 先人は、「急いては事を仕損じる」との格言を残している。帰り道、蓮はその格言を苦々しく噛みしめることになった。

「やあ、八月一日。昼間は佐伯嬢と吉祥寺が世話になったそうじゃないか」

 人通りが少ない坂道の途中、よりによって、アクジキジハンキの前で、あまり会いたくない人物と遭遇することになった。短髪で脚長のスポーティーな印象を受けるその少女もまた、蓮の同級生の一人である。その目付きの悪ささえなければ、そこそこに美人の部類に入るはずだが。

「……こんばんは」

 茂木もぎさえ。蓮の同級生にして、佐伯や吉祥寺とよくつるんでいる、女子派閥の一人だ。

 言葉の暴力によるいじめが主な女子の中では物理的な暴力を彷彿とさせる人物である。まあ、その特徴である毒舌が物理的ダメージに匹敵するからかもしれないが。

 そんな人物が、佐伯と吉祥寺の名前を蓮に対して出した。「世話になった」という語句には決して感謝など込められていないだろう。

 むしろ不穏にすら聞こえるその響きに、蓮は思わず、一歩じりりと退いた。だが、茂木から放たれる威圧感は変わらない。

 茂木はきっと、断片的にしか情報を知らないのであろう。だが、本日起こった佐伯と吉祥寺に関することに蓮が少なからず関わっていることを確信しているようだった。わざわざ声をかけてきたのだから、ただで帰してはくれないだろう、と蓮は諦め、応じる。

「世話なんてしてないけど……何か用?」

「ふぅん、しらばっくれるつもりなんだ? なら別にいいけど、こっちだって、考えがある」

 じりじりと茂木が蓮ににじり寄ってくる。蓮は思わず後退りを続け……やがて、コンクリートの塀にぶつかった。

 そんな蓮の逃げ道をなくすように、顔の横にだんっと茂木が手を突いてくる。というか、突いた手の形はぐーで、何センチかずれていたなら、蓮の顔にめり込んでいたことだろう。

 蓮は生唾を飲み込み、接近してきた茂木の顔を見る。息のかかるような距離で、茂木がにやりと嘲るような笑みを浮かべ、蓮に迫る。

「あの二人に何をした? 吐くまで帰してやらねぇよ?」

 確か、茂木はバスケ部所属だった。帰宅部の蓮が、運動能力の高い茂木に素手で敵うかどうかは怪しいところだった。

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