握力と同時に体力まで奪ったのか、佐伯の歩みは力がない。両腕を振ることすらままならないため、ジョギングなんて無理だ。
さすがにそんなふらふらな佐伯を見ていたら情が湧いてきたため、蓮は肩を貸して学校まで着いていくことにした。佐伯は「好きでもない殿方の手を借りるなんて、お嫁にいけなくなりますわ」などと反論してきたが、せっかく買ったイチゴミルクが自分で持てないため、イチゴミルク持ちに蓮を任命し、ついでに肩を借りる、みたいな形になった。変なところでプライドを働かせるお嬢様だ、と思いながら、学校に向かった。
丘の上に建つ中学校。すぐ後ろに山があり、夏場は虫が飛び交う。山だから清涼感がある……というわけでもなく、普通に暑い。
昇降口まで続く坂を上りながら、蓮はまずいことに気づいた。蓮は今、私服なのだ。蓮の通う中学には、ちゃんと制服がある。学校に行くときは、制服か、学校指定の運動着でなければならない。私服姿を教師に見咎められたらどうしようか、などと考えていると、昇降口の前に蓮の頭痛の種を増やすような人物が仁王立ちしていた。
「げ……」
思わずそう呟いてしまう。その呟きは歩くのでいっぱいいっぱいな佐伯には届かなかったようで安心した。
その人物は佐伯を見るなり駆け寄ってきて、それに肩を貸す蓮を羽虫でも見るような目で見つめた。蓮は目を合わせないようにさまよわせる。
「瑠璃花さま! お帰りが遅いので心配していました。お顔色が優れないですわ。まさかこの虫けらに何かよからぬことをされたのですか?」
「ひどい扱いだな」
人を虫けら呼ばわりとは。まあ、佐伯瑠璃花のお付きの者と呼ばれる吉祥寺
声をかけられた佐伯は虚ろな眼差しを上げて、面倒くさそうにして吉祥寺から目を逸らす。何年も見ているからわかるのだが、吉祥寺がどんなに佐伯史上主義でも、佐伯自身にはそんなことは関係ないのだ。佐伯にとってみれば、せっかく自分を慕ってくれる吉祥寺すらも、虫けら同然の存在でしかない。
この二人の歪んだ関係を改めて実感しながら、けれど、佐伯がまだ肩にすがっているので、離れることもできず、蓮は吉祥寺に睨まれながら、校舎に入ることとなった。
ぐったりとして帰ってきた佐伯を見、吹奏楽部の顧問の教師はそれ見たことか、というような顔をしたが、すぐに蓮の存在を見咎める。
「学校に私服で来るとは何事か」
「すみません、たまたま途中で遭遇した佐伯さんが体調不良を起こしたようだったので、そのまま学校に連れてきたんです」
さすがに、アクジキジハンキの話はできなかった。あれは実際に見た人しかわからないだろう、と思ったから。実際に佐伯は体調不良のように真っ青な顔をして、腕をだらんとしている。その様子に教師も納得したようで、わざわざありがとうとまで言ってくれた。ただし、すぐ帰るように、とのことだ。
佐伯を吉祥寺に託し、二人が音楽室に入っていくのを眺め、ふと呟く。見たところ、握力を失っているらしい佐伯が、楽器をまともに握れるのだろうか……何のパートかは聞いていないが。
まあ、所詮他人事だ、と立ち去ろうとしたところで、どんがらがっしゃーん、と音楽室から物凄い音がする。次いで、顧問の怒号。それから、吉祥寺の慰める声に混じって、いつもの強気モードからは程遠い、佐伯の「そんな……」という呟き。どうやら、蓮が危惧した通り、ただでは済まなかったらしい。まあ、やはり他人事だが。
何事もなかったかのような涼しい顔で階段を降りていく。やはり、好印象のないお嬢様である佐伯には同情できない。吉祥寺とおままごとでもやっていればいいだろう、と蓮は考える。
二階に差し掛かったところで、不意に強い力で後ろに引っ張られる。驚いて振り向くと、
オカルト部の部員は、目の前の四月一日維を始め、ほとんどが蓮の同級生のメンバーで構成されている。活動場所は二階の図書室だったか。
とりあえず、何故引っ張られているのだろうと思いつつ、夏の暑さが引き起こす気だるさから、蓮はされるがままになり、やがて図書室の中へ引っ張り込まれた。
図書室に入ると、そこはまるで別世界であるかのように涼しい。クーラーが利いているらしいその部屋の中には、部員の一人にして、蓮の同級生の一人、
「……ええと、どうして僕はここに連れ込まれたのかな?」
まず、至極全うな意見を出す。すると、癖毛がぴょんぴょん外に跳ねている長髪を揺らしながら、美濃が嬉しそうに手を打つ。
「だって蓮くん、アクジキジハンキに会ったんでしょう?」
可憐な儚い印象の彼女だが、ここ数年でオカルト好きという特徴が浸透し、一種の諦めのようなものが蓮の胸に立ち込める。
「なんでそれを?」
「相楽くんに聞いたの」
相楽、と脳内で罵りつつ、それから、と続ける美濃に注意を向ける。
「佐伯さんも、アクジキジハンキに遭ったんでしょう? 蓮くんと一緒に」
「どうしてそれを」
その事実は、蓮と佐伯しか知り得ないものだ。しかもついさっきの出来事。何故美濃にわかるのか。
「やっぱり。さっき上から物凄い音がして、佐伯さんが怒鳴られていたし、蓮くんと一緒に上ってきた佐伯さん、尋常じゃなく、消耗してたじゃない」
清純派を思わせる顔立ちに似合わぬ、悪戯っぽい笑みが美濃の顔に閃く。
「それだけで……アクジキジハンキって特定できるものなのか?」
「うふふ、わたしは天下御免のオカルト部員よ? 都市伝説の一つや二つくらい、把握しているわ」
物凄い説得力である。
「まあ、大抵瑠色くんや実くんからの受け売りだけどね」
四月一日がそう付け足した。確かにオカルト知識において、あの二人の右に出る者はこの学校にはいない。
次いで話す美濃は楽しそうだ。
「あんな弱った姿の佐伯さんなんて滅多に見られるものじゃないから、ざまぁって思ったわ」
「……気持ちはわかる」
腹黒い美濃の発言に蓮は引くことができなかった。美濃は小学生の頃から佐伯から陰湿ないじめを受け、保健室登校になった一人だ。今ではクラス分けがされ、小さいながら、二年二組に所属している。そんな美濃からすれば、踏んだり蹴ったりな佐伯の姿は溜飲が下がるものがあっただろう。
「まあ、佐伯さんならアクジキジハンキに引っ掛かってくれると思ったよ。ごうつくばりだろうからね」
四月一日が静かに呟き、椅子に座る。眼鏡をくいっと持ち上げた。
「二人はアクジキジハンキについてどれくらい知ってるんだ? 僕、自由研究でアクジキジハンキを調べているんだけど」
「それ、瑠色くんや実くんが聞いたら、秒でオカルト部に誘うね」
四月一日がニヒルに笑う。オカルト部は悪い部活ではないのだが、不気味すぎる印象のため、あまり入りたいとは思わなかった。香久山と球磨川がいなくて心底安心した。
それはさておき、と美濃が続ける。
「わたしたち、瑠色くんやまこくんほど詳しくはないのよね。何せアクジキジハンキって、最近出始めた都市伝説だから」
「最近……」
「そうそう、まこくんが見つけてサイトで呟いたところ、瞬く間に拡散されたらしいわ。だからまこくんが名付け親」
とうとう都市伝説の名付け親にまでなるとは。球磨川はどこへ行ってしまうのか。
それはさておき。
「知ってる限りのことでいいんだ。教えてほしい」
「じゃあ、代わりに佐伯さんと何があったかも教えてね。オカルト部の糧になるわ」
そして、美濃のストレス発散にもなるのだろう。蓮は迷いなく頷いた。
それを見ると、美濃は説明を始めた。
「曰く、アクジキジハンキは最近広まった自販機の都市伝説。変わった飲み物を取り揃えた自販機で、余分にお金を入れて飲み物を買うと、『お釣、いただきますね』と声がして、自販機からお釣が出てこなくなる。お釣を取り戻そうとした者は大切な『ナニカ』を奪われる……っていうところかしら」
「残念ながら、アクジキジハンキについてはまだまだ調査中でね。情報はあんまりないんだ」
「ここ田舎だしな……」
「あの坂はただでさえ人通りないし」
回転率の悪い自販機にちがいない。この町は田舎だ。少子高齢化が進んでいる小さな町だ。
「もっと詳しい情報は、やっぱり球磨川とかに聞いた方がいいか」
「そうね」
聞くと、球磨川は香久山と二人仲良く都市伝説探索に行っているらしい。さすがオカルト部の二大巨頭。怖いもの知らずという言葉すら凌駕している。
「わたしたちは資料探し。あの自販機の周辺の昔の資料から自販機の正体に迫ろうと思っているの」
「ぼくらはむやみやたらに都市伝説を振り撒く存在じゃないからね」
そう、このオカルト好きの集団が、他のオカルト好きから一線を画しているのはそこだ。
都市伝説を調べて肝試し感覚で楽しむだけではなく、その曰くについて正しい知識を持ち、正しい対処を広めていこうとしているのだ。
好奇心から調べ始めた蓮とは格が違う。
「でも蓮くんがそんな題材選ぶなんて珍しいね」
「ああ、自由研究の題材に困っていたところでちょうど出会ったからさ……」
そのとき。
すたーんっと勢いよく図書館の戸が開き、「頼もう」とでも言うんじゃないかという勢いで入ってきた人物がいた。
「八月一日蓮! 聞きたいことがあるわ!」
険を滲ませた高圧的なその声に、蓮はげんなりと肩を落とす。般若のごとき面差しで蓮を射抜いたのは佐伯のお付きの者、吉祥寺だったからだ。