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「お釣、いただきますね」

 蓮はやはり他人事だからだろう。冷静に計算をする。一万円を投入した佐伯。彼女が買ったイチゴミルクの五〇〇ミリリットルペットボトルは百三十円という今時の自販機にしては破格の値段である。

 一万円で百三十円の飲み物を買った場合のお釣はぱっと計算して——九千八百七十円。四捨五入すれば一万円とそう変わらない。

 さあ、そんな約一万円を惜しくないと思う人間などいるだろうか。まあ、大富豪なら、端金かもしれない。一万円を惜しむのは、平民の考えか、と思いつつ、蓮は佐伯がどう行動するか、観察していた。ふと思い出したのだ。これは自由研究である、と。

 蓮の考え方は冷めているかもしれないが、何か研究に打ち込む者ならば、時に人やものを捨て駒にするような行動を採ることも仕方ないことだと言えよう。研究者はいちいち実験動物モルモットの死に喚かない。

 蓮にとって、佐伯の行動は実験記録の一つに過ぎなかった。それに、佐伯の身に何が起ころうと、蓮は取り乱すことはない。佐伯にとって蓮は価値のない一平民であるように、蓮にとって佐伯は目をかける必要もない一クラスメイトに過ぎないのだ。それどころか、蓮は佐伯を嫌ってさえいる。

 もし、昨日相楽が呟いた「アクジキジハンキ」が都市伝説であるとして、相楽のようにお釣を普通に差し出す者に何も起こらないなら、逆に、お釣を取り戻そうとする人間がどうなるか……そこが恐ろしいところが、都市伝説だろう。

 蓮は佐伯は令嬢だが、一万円を惜しむと思った。佐伯は世間知らずなお嬢様だが、自分に降りかかる理不尽にはやたら敏感なのだ。お釣を返さない自販機なんて、もっての外だろう。

「ちょっとぉ! 自販機の癖にお釣いただきますって何よ! お釣はお釣、わたくしのものですわ! 百三十円は支払ったんですから、良いのではなくって!?」

 自販機に文句を垂れ、普通ならお釣の落ちてくるだろうそこに手を突っ込む。通常なら出ない……五千円や一万円札は自販機では使えないのだからお札のお釣などあり得ない……お札投入口にも手を伸ばし——

 そこで佐伯が、かっと目を見開いた。ああああ、と普段のお嬢様然とした佐伯からは想像もできない濁った叫び声、仰け反り、揺れるふわりとカールした髪。覗いた目は零れ落ちそうなほど見開かれ、叫び声と一緒にはしたないと普段なら言うだろう涎を口端からこぼしていた。その尋常ならざる姿に、冷静だった蓮も一歩引いた。だが、佐伯の瞳が蓮を捉え、声にならない声でこう紡ぐ。痛い、助けて。

 これが幼なじみの裕や、昨日会った相楽なんかだったら、躊躇いなく助けていただろうが、相手はクラスを牛耳る悪の令嬢、佐伯だ。助ける義理などあるだろうか。——四年前に死んだあの子をいじめていた一人を、助ける義務なんて。

 仄暗い考えを振り払うように蓮は首を横に振り、冷静に現状を見つめた。何故、佐伯は助けを求めている? 何故、佐伯は悲鳴を上げている? ……そういえば、自販機は……

 佐伯が手でガタガタとやっていた自販機はそこにはない。あるのは黒いどろどろとした塊がいくつも口を持って、そのうちの二つで佐伯の手を食べている姿。くちゃくちゃ、と音まで聞こえてくる。これが、人間の肉を食べる音、咀嚼音。──考えると、体の内から喉にせり上がってくるものがあり、思わず口を手で覆う。真夏の白昼夢なら、どれだけいいことだろう。……いや、これは夢かもしれない。辺りの景色が白黒でぼやけて認識できない。しかし、佐伯の手を喰らうそれの姿は妙に生々しく、悪寒を走らせた。

「ぃ、や、助け、て、た、す……痛い痛い痛いぃぃぃぃぃっ」

 狂ったような佐伯の甲高い声が耳をつんざく。五月蝿くて耳障り。だが、現状で正気でいろという方が無理な話だった。

 まだ、蓮の中で躊躇いはあったが、蓮は佐伯をそれから引き剥がした。「うああああっ」という佐伯の断末魔のような悲鳴が鼓膜をざわつかせるが、蓮はできるだけ、その化け物と佐伯を引き離した。

 途端に、辺りが色を取り戻す。白昼の悪夢は、どうやら終わったようだ……と言いたいところだが、蓮の腕の中には汗まみれでぐったりとした佐伯。あの化け物に喰われていた手は力なくだらんと垂れ下がっていた。

 これは、夢のようだけれど、夢ではない。蓮は、そう確信せざるを得なかった。何故なら自販機の前には佐伯が先程買ったばかりの五〇〇ミリリットルボトルのイチゴミルクが立っていたのだから。夏の日差しを浴びて生まれた結露が、ペットボトルの表面を滑った。

 自販機は何事もなかったかのようにそこに佇んでいる。当然、釣り銭のところには十円玉一つ見受けられなかった。今回はお札だったため、ちゃりんという音が聞こえなかったのかもしれない。

 ひとまず──助けてしまった義理だ。佐伯を介抱することにした。

「佐伯さん、大丈夫?」

 ジョギングのために着替えたのだろう半袖のTシャツはぐっしょりと冷たい汗に濡れている。顔は真っ青で、まだ幻惑に囚われているのか、目の焦点がはっきりとせず、体が小刻みに震えている。

「手が、手がぁ……」

 佐伯は熱に浮かされたようにそう繰り返し、呻くばかりである。蓮は、咄嗟に佐伯の手を見た。

 だが、あの化け物に喰われ、咀嚼までされていたはずの佐伯の手は元の通り正常なすらりとした白い腕。噛み跡の一つもありはしない。

「手が、どうしたっていうのさ?」

「うぅ、痛い、痛い、痛い……」

 痛い、と言われても、血が出ているようではないし、内出血もない。蓮は佐伯の腕を上下させてみる。

「な、にを……やっているの?」

 どうやら正気に戻ってきたらしい佐伯が、未だ焦点のあやふやな目で蓮を睨む。蓮は理不尽を感じながらも「手が痛いっていうから」と答えた。手が痛いのは確からしく、佐伯もそれで黙った。

 そういえば、と蓮は思う。佐伯はお嬢様で、下賤の者──は言い過ぎだが、凡人に触れるのを厭う。いつもは吉祥寺が追い払っているから気づいていない者が多いが、吉祥寺の行動は佐伯の意思に基づいているのだ。

 だとしたら、佐伯は本来なら凡人に過ぎない蓮を振り払うはずである。だが、それをしない。そのことを蓮は不思議に思った。

「ねぇ、佐伯さん、大丈夫?」

「何が、ですの?」

「今日は凡人を振り払わないね」

「た、ただの気紛れですわ」

 誤魔化す佐伯だが、冷や汗がひどい。あまりにも下手な誤魔化しに、蓮の目が据わるが、そういえば、佐伯がジョギング中だということを思い出した。帰りが遅くなっては、送り出した部活の顧問から、またああだこうだと言われるだろう、と思い、蓮は倒れかけの佐伯を立たせ、自販機の前のイチゴミルクのボトルを渡す。

「ほら、ちゃんと真面目にやるんだよ」

「帰宅部はお気楽でいいこと」

 佐伯の嫌味にかちんとくるところはあったが、蓮はまあいつも通りに戻ったのだ、と安心した。あの異常現象を目の当たりにしてからだと、少なからず佐伯に同情してしまう。あんなおどろおどろしい化け物に手を喰われるのはどんな気分か。想像したくもない。

 佐伯は権力を笠に着る嫌味なお嬢様だ。佐伯を好いている人は少ない。だが、佐伯とて女子だ。繊細な乙女心くらい持ち合わせているだろう。蓮はそう気遣って、佐伯の様子を受け止めていた。

 だが、待てど暮らせど、佐伯はペットボトルを受け取らない。それどころか、まるで受け取る気がないかのようにだらんと両腕を重力のままに下げているばかりだった。

 蓮は不審に思った。出てきたイチゴミルクに佐伯はいたく喜んでいた。故にこの短時間で興味が失せる、というのは考えがたい。

 しかし、その不審の正体がわからず、もやもやした末、蓮は佐伯の腕を取り、イチゴミルクのボトルを握らせる。

 が。

 ぼとり。

 重い音を立てて、ペットボトルが落ちた。

「……え?」

 一瞬何が起きたのかわからなくなった。ペットボトルは佐伯の手に確かに握らせた。しかし、佐伯の手を滑るように地面に落ちた。

「ど、どうしたの? 佐伯さん」

 拾ってもう一度手渡すが、何度やっても佐伯の手はそのボトルを握りしめられなかった。

 まるで握る力──握力がないかのように。

 試しに佐伯に自分の腕を握ってもらった蓮は、するりと落ちる腕を見て、確信した。

 先程の化け物——アクジキジハンキは佐伯の手を喰っていた。だが彼の自販機は「悪食」だ。手を喰らうだけでも充分に悪食と言えるだろうが、アクジキジハンキの悪食は人智を越えていた。

 蓮の推測が正しければ、アクジキジハンキは——

 佐伯の握力までをも、喰った。

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