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第2話

 とぼとぼと足を進めてたどり着いたのは、僕が三ヶ月前まで通っていた中学校だ。

 その場所は、当たり前の日常から完全に切り離されてしまった僕にとっては、ずいぶんと久しぶりな気がした。

 砂を避けながら、足を進める。

 ウイルスの発生が確認されると同時に、学校はすべて閉鎖へいさされてしまった。

 たぶん、ここに通っていた学生や教師のほとんどが、日本砂漠の砂の一部になっている。

 閑散かんさんとした校庭を抜け、昇降口の扉に手をかける。きっちり鍵が閉まっていた。

 それもそうか、と嘆息たんそくして中庭に入ると、一階の教室の窓が半分、開いていた。閉め忘れたのだろうか。それにしても、半分も開いていたら見回りのときに気付きそうなものだが。

 僕は無意識に足音を消して、そろりと中を覗いた。教室には、整然と木机が並んでいる。そのうちのひとつ――廊下側の一番前の席に、ひとが座っていた。

 制服ではない。誰だろう――。

 席でうたた寝をしていたのは、桃色のワンピースを着た少女だった。

 机に突っ伏し、すやすやと眠っている。一階は一年の教室だから、もしかして一年生だろうか。彼女も、ウイルスに負けず生き残ったのか。ひとりで……。

 僕はそっと窓に手をかけ、中に入った。

 その少女は近くで見ると、お人形のように整った造作そうさくをしていた。

 睫毛まつげが長く、長い髪はつやつや、毛先だけくるんとしている。

 眠る横顔は、まるで仔猫こねこのようなあどけなさだ。無垢むくで可愛らしい。

 ――こんな子、この学校にいたっけ。

 ふと疑問を抱くが、同学年ならまだしも、違う学年だったら顔の知らない子などいくらでもいるだろう。

 小さな唇からは、気持ち良さそうな寝息が聞こえてくる。 

 気持ち良さそうな寝顔を見ていたら、なんだか僕まで眠くなってきてしまった。

 隔離やら検査やら、引越しの荷物まとめやらでずっと落ち着かなかったからかもしれない。

 隣の席の椅子を引き、座る。同じように机に突っ伏して、目を瞑った。

 微睡まどろみが僕の手を引く。睡魔すいまはあっという間に僕を静けさの中に飲み込んでいった。

 * * *

「――きみ。ねぇ、きみ」

 とんとん、と小さな振動が届く。どこか遠くに感じていたそれは、意識の波が押し寄せるにつれて次第に大きくなっていった。

「……ん……」

 ゆっくりと瞼を開く。

 明るんだ視界に映ったのは、くりりとした大きな瞳だった。あの少女だ。

 驚いて反射的に立ち上がると、椅子を引いた衝撃で足元に置いていた瓶が倒れた。

 あっ、と声を上げたのは、少女の方が先だった。

 瓶を見ると、倒れた衝撃しょうげきふたが開き、さらさらと微かな音を立てて砂が零れ始める。

「あ、やっちゃった」

 慌てて瓶を立てて、砂を集める。

「ごめんなさい! 手伝う」

 少女は、砂を両手でかき集め始めた。

「い、いいよ。これは僕が拾うから」

 砂を素手で触った彼女に、僕は慌てる。

「どうして? ふたりで集めた方が早いよ?」

「それはそうだけど……ねぇきみ、これがなんなのか、分かってる?」

「砂でしょ?」

 その返答は、とても軽かった。軽過ぎる、と思った。たぶん彼女は、この砂の中身をちゃんと理解していない。

「……まぁ、砂は砂だけど……この砂の大元っていうか」

「おおもと?」

 少女は首をひねった。もしかして彼女は、この砂の正体を知らないのだろうか。 

「街にもたくさんあるだろ? あちこちに、その……前はひとだったはずの、砂が」

「ひとだった……」

 すると、少女はハッとしたように手を引っ込めた。ようやく理解したのだろう。これが、ひとの残骸であることに。

「……ごめんなさい。大切なもの……勝手に」

「いや、いいけど」

 そもそもそういう意味で言ったわけではないし。

 僕はひとりで砂をかき集めながら、少女をちらと見た。 

「ねぇ……それよりきみ、一年?」

「え?」

 砂を見つめ、ぼんやりしていた少女は顔を上げて僕を見つめた。

 しばらく黙り込んだあと、 

「わたしは……」

 そう言って、一旦言葉を止める。

「……ううん、違うよ」

「じゃあ、二年?」と続けて尋ねると、彼女はううん、とまた首を横に振った。

 まさか歳上なのか、と内心で驚愕きょうがくするが、

「わたし、ここの生徒じゃないんだ。ちょっと探検たんけんしてみたくって、こっそり忍び込んじゃった」

 言い終えると、少女はパッと顔を上げて僕を見た。

「きみは? ここのひと?」

「うん、まあ。僕はここの二年。僕もなんとなく、学校が懐かしくなって来ただけなんだけど」

 すると、彼女は僕を見てにこっと花が咲いたように笑った。

「あのね、わたし、花乃かの。あなたは?」

「僕は……春太はるた

「はるた……?」

 いきなり呼び捨てかよ、と思ったけれど、どうせもう死ぬんだしまあいいか、と流した。僕も彼女のことを花乃と呼ぼう、と決める。

 これまでだったらきっと、そんな勇気は出なかっただろうけど。

「あ、一応言っておくけど、春太って名前ね。苗字みょうじじゃなくて。……みんなよく間違えるからさ」

「?」

 黒板に立ち、白いチョークでカツカツと自分の名前を書いた。

桜井さくらい春太。これが、僕の名前」

「!」

 文字を書くと、花乃はなぜか瞳をきらめかせた。

「わたしもそれ、やりたい!」

 そう言って、花乃は無邪気に僕の隣に立ち、自分の名前を書き始めた。

「花乃、花乃……えっとお花の花に、のは……」

 花だけ書いてから考え込む花乃を見て、僕が隣に乃をすらすらっと書いてやると、

「あっ! そう! この字!」と、花乃は嬉しそうに跳ねた。

「苗字は?」

 尋ねると、花乃は首をこてんと傾げる。可愛らしい。

「苗字は……うーん、分かんない」

「分かんない?」

「うん。聞いたことない」

「……そうだ、それよりいいの? 国民の移送って、今日が最終日だよ。きみ、どこに振り分けられる予定? 僕はアメリカだけど、急がないと――」

「いいの」

 僕の言葉を、遮るように花乃は言った。

「え?」

「わたし、ここに残るんだ」

 そう、ひっそりと微笑む彼女に、僕は唇を引き結んだ。

「きみは?」と、花乃が今度は僕に尋ねる。

「……僕も、きみと同じ。ここに残る組」

 迷いながらそう答えると、花乃は小さく「そっか」と呟いた。

 花乃はこれまで出会ってきたひとの中で、とびきり美しい少女だった。

 肌は人種を疑うほどの色白で、長い髪はつやつやしている。ぱっちりな二重の瞳、長い睫毛、唇は小さくてぷるぷるで、ほんのり桃色に色付いていた。

 家族のこととか素性すじょうとか、聞きたいことはたくさんあったけれど、それはたぶんお互い様だ。だから僕は、それ以上深く聞くのはやめにした。

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