「……そんなこともあったっけ」
「懐かしいね」
あのときのことを、僕はあまり思い出さないようにしていた。
ふわふわした優しい気持ちになれるのではなく、ほんの少しの罪悪感に苛まれるから。
「……ねぇ、翠」
「ん?」
翠に向き合い、覚悟を決める。
「……あのさ、僕……あのときのこと……ずっと謝らなきゃって思ってたんだ」
翠が目を丸くする。
「謝る? なんで?」
翠はきょとんとした顔で僕を見る。
「あの頃翠、サッカー部の
夏休み前、学校最終日の放課後だった。午前中で学校が終わった僕は、そのままいつものように翠と下校するつもりだった。
だけど、トイレから戻ると翠は教室にいなかった。近くにいたクラスメイトに訊ねると、隣のクラスの田口という男子生徒に呼び出されて出ていったらしい。
最初は大人しく待っていようと思っていた。だけど、どうにも落ち着かなくて、教室を出た。
べつにふたりを探そうとしていたわけではなかったけれど、校舎内をふらふらとしていたら、中庭でたまたまふたりを見つけてしまった。
田口から告白を受ける翠を見て、僕は頭が真っ白になった。それまで、翠が告白を受ける姿を直接見たことはなかったから。それに、翠が告白をその場で断らなかったことにも動揺した。
「……田口が翠を夏祭りに誘ったって知ってたのに、僕は翠を夏祭りに誘った。このままだと、翠が取られちゃう気がして、怖くなったんだ。翠を失いたくなかった。……卑怯だよな。今までなにもしてこなかったくせに」
あのあと、翠は田口をフッた。僕が告白したから。もし、僕が告白していなかったら、翠はどう返事していただろう……。
「…………ほっとしたんだ。僕と付き合ったあと、翠が田口をフッて」
「…………」
「あのとき田口が翠に告白していなかったら、僕はきっと、翠に告白できてなかった。それまでの関係を変えることも怖くて、踏み出せないままでいたと思う。だから、翠と付き合うきっかけをくれた田口には感謝してた。でも……」
同時に、じぶんの欲深さにゾッとした。
僕は、なんてかっこ悪い男なんだろう。
告白する勇気もなくて、でもいざ翠を失うかもしれないと思ったら、必死で足掻いて田口から奪った。
翠が僕に甘いことを知っていて。
現状を守ろうと、必死になっている。
翠はなにも言わず、僕をじっと見つめていた。
「翠にも田口にも、ずっと謝らなきゃと思ってた。でも……謝ったら、じぶんの愚かさを認めることになるし。本当のことを知ったら、翠がどう思うのかも怖かった。翠に卑怯な奴だって思われるかもって……。だから、ずっと言えなかった。……ごめん」
頭を下げ、謝る。翠はしばらく押し黙ったままだったが、やがて小さく口を開いた。
「それで……翔は後悔してる?」
顔を上げると、翠は少し濡れた瞳を僕に向けていた。翠がもう一度、僕に訊く。
「私と付き合ったこと、後悔してる?」
僕は静かに首を横に振った。
「……してない。翠のそばにいられて幸せだった」
翠がふっと笑う。
「じゃあ、なんの問題もないじゃん!」
まるで、真冬の寒さに凍てついていた空気が、春の日に包まれた雪解け水のように柔らかく解けていくように、僕の心はゆっくりと解れていく。
おもむろに歩き出す翠を、視線で辿る。
「それに、謝るのは私のほうだよ」
「え?」
「私があのとき、その場で田口くんに返事をしなかったのはね、理由があるの。……このことが噂になったときの翔の反応を見たかったんだ。私にチャンスがあるのかないのか」
今まで私がどんなひとに告白されても、翔は興味なさそうにしていたから。もしかしたら翔は私のことをなんとも思っていなくて、私の片想いなのかもしれない。
と、翠が呟く。
「もしそうなら、私は翔から離れるべきなのかもしれないなって。……あの日、翔が私に告白してくれなかったら、田口くんと付き合うつもりでいた」
「え……」
翠が吐いた吐息が、寂しげに空を淡く染める。
「……ほらね、最低なのは私。田口くんを利用して、翔のことも試した。本当は、このことを言うつもりもなかった。翔が卑怯なら、私はもっと卑怯だよ」
「翠……」
「幻滅した?」
ぶんぶんと首を横に振る。
「まさか。幻滅なんてするわけない」
そう返すと、翠はニカッと笑った。
「それじゃ、私たちはお互い卑怯者ってことで!」
そう、翠はからりとした声で言って、再び歩き出す。その背中に、僕はまだ伝えそびれていたことを伝えようと足に力を入れた。
「……あのさ、今まで僕、翠にはずいぶん威張った口をきいてたよね。……翠はワガママで甘えん坊で、僕がいなきゃダメダメだとか。本当の翠はただ、繊細で優しくて、素直なだけだったのに」
「あはは。恥ずかしいけど、そのとおりだよ。今までどれだけ翔に助けられてきたことか……」
「そんなことない。翠は、ぜんぜんダメダメなんかじゃないよ。ダメなのは僕のほうだ」
翠が振り向く。
「……急になにを言うの。私、翔に出会えて本当に良かったと思ってるよ。翔と出会ってなかったら、私はきっと、今もひとりぼっちのままだった。だからね、もし今あの頃の翔に会えるなら、言いたい。園児の翔に、ありがとうって。これからもこの子をよろしくねって」
優しい眼差しで言う翠に、僕の視界は次第に潤んでいく。翠が笑う。
「……私ね、ようやく気付いたんだ。私には私の人生があるように、翔にも翔の人生があるってこと」
翠は一度言葉を切り、僕を見た。柔らかく微笑み、続ける。
「私ね、これまで……翔がいれば友達なんていらないと思ってた。ずっとふたりだけでいられればいいって。……だけど、それじゃダメだよね。ふたりだけじゃ、私たちの世界はずっと小さいまま。ふたりだけの世界はすごく脆いから、些細なことで呆気なく崩れちゃう。もっとほかのひとの視点を知って、もっとほかの価値観の言葉をもらって、吸収していかないといけなかったんだ。翔はずっと、それを私に教えようとしてくれてたんだよね」
今さら気付いたって遅いのに、今ようやく分かったんだよ。
翠はどこか寂しそうに俯き、ふふと笑う。
僕はぶんぶんと首を振った。
「そんなことない。僕は、これからもふたりきりでいたい。僕がぜんぶ、なんとかするから。翠が分からないことは僕が教えるから。だから……前みたいに頼ってよ」
『翔ちゃん、ずっと一緒にいてくれる?』
『翔ちゃん、私たち、ずっと一緒だよね?』
『翔ちゃん、翔ちゃん』
翠はいつもそうやって僕を頼った。
その声が、どれだけ僕に力をくれていたか、今になって、ようやく分かる。
「頼ってたのは僕。甘えてたのは、僕のほうなんだよ……」
翠の『翔ちゃん』が聞きたくて、僕はずっと翠を守ってきた。本当は勉強なんて興味なかったけれど、翠に『ありがとう』と言われるのが嬉しくて、ひと一倍頑張った。
翠の『翔ちゃん』は、僕にとって魔法の言葉だったのだ。
あの言葉があれば、僕はどれだけだって頑張れた。あの言葉がなければ、きっと今の僕はここにいない。僕を作っているのは、翠だ。
「そんなことない、私が助けられてたんだよ。翔はいつも、私のために頼らせてくれてたんだよ」
「違う。僕は翠に頼られることでしか、じぶんの価値を見いだせなかったんだ。翠がいなきゃ、僕は生きる意味さえ分からないんだよ」
どんな記憶の中にも、僕のとなりには必ず翠がいる。翠がいない過去はない。翠がいない未来なんて、考えられない。それなのに、翠がいない現実なんて、どうして耐えられようか。
翠は困ったように頬をかく。
「生きる意味が分からないなら……探そう? たくさんのひとと話して」
翠の視線は、まっすぐ僕だけを捉えている。翠のこんな表情を見るのは、初めてのことだった。
なにも答えられないでいると、翠が続けた。
「私たちはたぶん、他人と関わってしか、じぶんを認める方法はないんだと思う。みんなじぶんがきらいで……生きる意味が分からないから、ひとと関わって変わっていくんじゃないかな」
他人と過ごすのはリスキーだよ。たくさん傷付けられるし、比較するたび、たくさん落ち込む。
……でもたぶん、それが自立するってことなんだよ。と、翠はひっそりとした静かな口調で言う。
「……僕は、翠がいればなんにもいらない」
駄々をこねるように言うと、翠は申し訳なさそうに目を伏せた。
「……ごめんね。私が翔をひとりぼっちにさせちゃってたんだよね」
「違う……」
「翔は今まで、私のために頼れるいい子を頑張り過ぎてたんだ。これからはもう、辛いときは辛い、悲しいときは悲しいって言っていいんだよ。塞ぎ込まないで、もっと感情を出して。翔の心は今、すごく悲鳴を上げてる。泣き叫んでるよ。これ以上我慢したら、きっと心が壊れちゃう」
なにも知らないはずなのに、どうしてこんなことを言うのだろう。
両目から、涙がとめどなく溢れ出してくる。声を詰まらせながら、僕は翠をじっと見つめた。
「翔、今までたくさんありがとう」
「……なんで、君がそれを言うの」
本当は、僕のほうがこれまでの『ありがとう』を伝えるつもりだったのに。
翠はふっと笑って、僕の頭を優しく撫でた。
「……翔、そろそろ帰ろ。私、もうすぐ受験だし、早く寝ないと」
どうせ、翠は受験しても未来はない。だから、引き止めればいい。それなのに、それができない。
翠のしっとりとした笑顔に、あぁ、と気付く。
死んでいたのは、僕のほうだった。翠が死んだあの日、僕の心も一緒に死んでいたのだ。
僕の心が死んでいることに気付いて、翠は必死に生き返らせようとしていたのだ。
翠の細く長い指先が、僕の頬をそっと撫でる。その指先はあたたかく、同時に少しだけ震えていた。
触れる体温の心地良さに、僕は静かに目を伏せる。
指先から命が吹き込まれていくようで、彼女の思いが伝わってくるようで、胸がいっぱいになる。
「……ねぇ、翠。ひとつだけ聞いてもいい?」
「なに?」
振り返った翠に、僕は訊ねる。
「……僕のこと、どう思ってた?」
罪悪感からか、僕はこれまで一度も翠の本音を聞いたことがなかった。
それを今、ようやく……。
僕の問いに、翠はほんの少し驚いたような顔をした。そして、ふっと息を漏らすと、
「……世界で一番、大好きに決まってるじゃん」
涙が溢れる。
「……僕も、世界で一番君が好き」
全身にあたたかい水が満ちていくようだった。
「私たち、とことん似たもの同士だ」
「……うん」
目を見つめ、微笑み合う。
「じゃあ、帰ろっか」
「うん」
夜明けまであと少し。
目の前には、あの日の分かれ道。
僕が翠といられる時間は、もう……ない。
交差点で、向かい合う。
「じゃあ」
「うん。次に会うのは、新学期だね」
かつてとはまったく違う別れかたになる。
もう二度と、翠と会うことはできない。そんな未来を、今の僕は知っている。
翠が僕に背を向ける。