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第4話

 二年参りからの帰り道、僕たちの間に会話はなく、ただただ静かな沈黙が横たわっていた。

 なにか話さなきゃと思うのに、いざ口を開くと、頭が真っ白になって言葉がなにも出てこない。

 別れの時間が刻一刻と近付いてくる。

 夢にまで見た翠が今目の前にいるのに。

 もっと伝えるべきことがあるはずなのに……。

「……あっ! ねぇ、翔ちゃん! あれ見て!」

 不意に、翠が昔の呼び方で僕を呼ぶ。まだ新しい呼び方に慣れていないのか、翠はたまに、僕を昔の呼び方で呼ぶことがあった。

 そんな些細なことにすら、彼女がいたかつての日常を思い出して、涙が出そうになる。

 僕は正直、翔と呼ばれるよりも昔の呼び方のほうが好きだった。なんか、幼なじみって感じがして。

 顔を上げると、翠は興奮気味に一点を指し示し、駆け出した。

「えっ……なに!?」

 翠が駆けて行った方角を見ると、僕たちが通っていた幼稚園があった。

 どくん、と大きく心臓が跳ねる。

「見てみて! やばい、ちょー懐かしい!」

 はしゃぐ翠を前に、僕も自然と笑みが漏れる。

「……ほんとだ」

「ねぇ翔。覚えてる? あの頃の私さぁ、人見知りでいつもひとりぼっちで砂のお城作ってたんだよね」

 翠は前のめりに幼稚園のフェンスを掴み、懐かしそうに砂場を見つめたまま呟いた。

「……そうだね」

 隣に並び、幼稚園の庭を眺める。

 あの頃とても大きく見えていた遊具や砂場は、今見るととても小さく思えた。

「私たち、成長しているんだね、今、この瞬間も……」

「……うん」

「翔はいつも、いつの間にかいるんだよね。出会った頃もそう。気付いたら向かい側に翔がいて、私のお城作るの手伝ってくれたんだ」

「そうだっけ」と、とぼけながらも僕は懐かしさに口角を緩ませた。

「そうだよ。……翔は昔からそうだった」

「そうって、なにが?」

「ひとりぼっちの子を見つけるの、すごく上手なの」

「……そんなことないよ」

 柔らかな視線に後ろめたさを感じて、僕は思わず目を逸らす。

「あるよ。翔は昔からずっと優しかった。あのね、ひとりぼっちを見つけるのって、結構難しいんだよ。すぐ陰に隠れちゃうから。……でも、翔は見つけてくれた。私だけじゃなくて、小学校でも、中学校でも、ひとりぼっちの子がいると一番に声をかけてた。それですぐ仲良くなっちゃうの。すごいよ」

 翠は珍しくしっとりとした声で言った。その横顔は、少し大人っぽく見える。

「……べつに、すごくないよそんなの。既にできあがった輪の中に入るのが怖かったから、ひとりでいる子に声をかけただけだ」

 息を吐くように言うと、翠は首を振った。

「私、ぼっちだった過去があるから分かる。ぼっちは基本他人は敵って思ってるし、じぶんの殻に閉じこもってるから、そう簡単に心を開いたりしないの。……だけど、翔に話しかけられると、どうしてか心の壁が取り払われちゃうんだよ。なんか、よく分かんないけど安心して笑えるの。のんびりした声とか、優しい笑顔とか、空気感とかなのかな」

「……大袈裟。園児はそこまで考えてひとと話しないでしょ」

「……まぁ、そうかも。……だけど、小学校のときも私がクラスになじめるように、みんなにこっそり話してくれてたでしょ。お昼休みとか、わざと席を外して、私をひとりにしたこともあったよね」

 たしかにあった。でも、とある事情ですぐにやめたし、本人には気付かれていないと思っていたのだが。

 翠は驚く僕を見て、穏やかに笑った。

「知らないと思ってた? ふふ、知ってたよ、ぜんぶ。翔、私が熱出したからやめたんだよねー!」

「……だから、あのときは悪かったと思ってるって」

 小学校に入ってから、翠はずっと僕にだけべったりで他の子と仲良くなろうとしなかったから、いろいろ仕掛けたのだ。

 昼休み、わざと席を外して話すきっかけを作ったりして。

 でも結局、次の日翠が風邪を引いて寝込んだと聞いて、それからは無理にクラスメイトと仲良くさせようとするのはやめた。

「私、翔以外のひとと話すの慣れてないから、神経使い過ぎて熱出しちゃったんだ。そうしたら翔、めちゃくちゃ慌てて私が大好きな桃のゼリーとかアイスとかたくさん買ってきてくれたっけ。懐かしいなぁ」

 あの頃、翠はしょっちゅう熱を出していた。今思えばきっと、学校の人間関係でたくさん気を遣っていたのだと思う。

 翠は一度仲良くなれば心をどこまでも開くけれど、それまでは相手の顔色をうかがったり、かなり気を遣うタイプなのだ。

「無理させてごめんな」

「ううん。私のことを思っての行動だもん。……ねぇ、あの日のことも覚えてる?」

「あの日?」

 訊き返すと、翠は静かに言った。

「私たちが、付き合った日のこと」

「……知らない」

 咄嗟にとぼけてすっと視線を外すと、翠がムッとして僕の肩を押す。

「私は忘れたことないのに!」

「……嘘。覚えてるよ」

 忘れられるわけがない。僕たちが付き合ったのは、一昨年の夏祭りの日だった。

 正直あまり思い出さないようにしていた記憶の箱が、ぱかっと開く。



 ***



 夏祭りを楽しんだ帰り道、翠は泣いていた。

 その日、翠は、白い布地に青紫色の桔梗の花が咲いた鮮やかな浴衣を着ていた。足元は真新しい下駄。その下駄がきっかけだった。靴擦れして、機嫌を悪くしたのだ。

 仕方なく僕がおぶって帰ることになった。

 おぶるよと申し出ると恥ずかしいからいやだと喚くので、仕方なく僕はひと通りの少ない線路脇や農道を通るからと約束をして、おぶって帰る羽目になった。

 それでも、背中で翠がいつまでもぐずぐずと泣くものだから、僕は翠の機嫌を取るためにいろんないろんな話をした。

 ふたりで可愛がっていた近所の犬の話、クラスメイトのくだらない武勇伝、神社で見かけたラブラブカップルの話。

 だけど、どんな話をしても翠はムスッとしたままで。

 なんで僕が翠の機嫌を取らなきゃならないんだと内心思いつつ、気まずいのもいやなので機嫌を取り続けた。

 それでもぐずぐずする翠に、いい加減苛立ちがふくらんでくる。

「……なぁ、翠。いい加減機嫌直してよ」

「べつに、怒ってないもん」

 けれど、翠はやはりムスッとして答える。

「怒ってるじゃん」

 若干不機嫌に言うと、翠は負けじと、

「怒ってないよ!」

 と、さらに怒った。僕はため息を漏らす。

「…………お祭り、楽しくなかった? 本当は来たくなかった?」

「……だから、そんなことないって言ってるじゃん」

「じゃあなんでそんなに怒ってるんだよ、たかが靴擦れくらいで」

「たかが……」

 すると、翠は僕の背中で再びすんすんと泣き始めた。

「えっ……ちょ、な、泣くなよ」

「……翔ちゃんのバカ」

「だから、なんで僕……!?」

「そもそも、翔ちゃんがぜんぜん褒めてくれないのが悪いんじゃん!」

 翠は言ってから、僕の肩に載せた手にぎゅっと力を入れて黙り込んだ。

「褒める……?」

 というか、やっぱり怒ってるんじゃないかと思いながら翠を背負い直すと、ふと腕に触れる浴衣に目が行く。

「……あ、もしかして、浴衣のこと?」

 訊ねると、翠は小さな声で本音を吐露した。

「…………浴衣だけじゃないもん。髪だってたくさん時間かけて、頑張って可愛くしてきたのに、翔ちゃんなんにも気付かないんだもん……」

 どんどん小さくなっていく翠の声に、罪悪感が押し寄せる。

「……翠、あの」

「いいもんべつに。翔ちゃんが私を意識してないことなんて知ってるし……浴衣も髪も、ぜんぶ私の自己満足だもん」

 翠はそれきり黙り込んでしまった。

「…………ごめん。僕、そういうの疎くて」

 華やかな浴衣も、いつもと違う髪型も化粧も、もちろんぜんぶ気付いていた。すごく可愛いと思ったし、新鮮でどきどきした。

 だけど、それを言葉にする余裕がなかったのだ。

「浴衣……その、すごく、いいと思う」

「……いいよもう、無理しなくて。私が言わせたみたいで、余計に傷つくから」

 怒られてしまった。

 しんみりとした沈黙が落ちる。

 言葉を探しながら、バレないように唇の隙間から息を吐く。息を吐き終わってから、思い切って口を開いた。

「……無理なんかしてない。でも、その……」

 途中で躊躇う。

 本音を言うのが怖くなったのだ。出会ったときから積み上げてきた今の関係が変わってしまうかもしれないから。

 と、考えながら翠と目が合って、心臓が跳ねる。

「……翔ちゃん?」

 翠が僕を呼ぶ。

 まっすぐな眼差しに、僕は唐突に自覚する。

 ――翠が好きだ、と。

 昔からずっと、彼女のとなりは僕だった。今さら、だれにも渡したくない。ここは僕の特等席だ。だれにも譲らない。

 でも、いつから?

 いったい僕は、いつから翠のことを女の子として、みていた?

 出会ったときの翠は、あまりにも幼かった。小さくて、危なっかしくて、見守ってあげたい子。あの頃は翠を、妹のように思っていたはずだ。

 小学校のときもそう。高学年になると、女子と仲良くしているとクラスの男子からからかわれるようになったから、それがいやで一度翠を遠ざけた。けれど、そうしたら翠が寂しいとギャン泣きしたから、やめた。

 そこで気付いたんだ。僕にとっては、やっぱり翠が一番に守りたい存在で、意地悪なクラスメイトなどどうでもいい存在なのだと。

 中学に入ると、翠はクラスの男子からたびたび告白されるようになった。

 そのたび、少し寂しい思いをしていた気がする。

 僕にとっての一番は変わらず翠なのに、翠の中の一番が僕ではないだれかに成り代わってしまうような心もとなさを感じて。

 ……翠を女の子として意識したのは、あのときかもしれない。

 そして、高校生。

 夏休みに入る前のことだったか。翠がサッカー部のエースに告白されたとかいう噂がクラスで広まった。

 その男子は頭が良くて、しかもイケメンなのだとクラスの女子の間でもよく名前が上がっていた。

 これまで翠はすべての告白を断っていた。けれど、今回ばかりはどうだろう。

 翠はイケメン俳優やアイドルの話をよくするし……もし、彼の顔が好みだったら。

 もし、翠が彼と付き合ったら、僕たちは今までのように会うことはできなくなる。

 そんなの――いやだ。

 いつまでも逃げるな。今度こそちゃんと向き合えよ、と内側にいるもうひとりのじぶんが言う。

 大きく息を吸い、深く息を吐く。

「……だから、そういうこと」

「……どういうこと?」

 翠が首を傾げる。

「……だから、好きってこと、翠が」

 若干怒った口調で白状する。

「……翔ちゃんが……、私を好き?」

「……そうだよ」

「好き……?」

「だから、そうだって」

 からかわれている気になって、僕は恥ずかしさのあまり早足になる。

「翔ちゃんっ!」

 不意に、翠が僕の名前を呼びながら僕にぎゅっと抱きついた。満足気な、ふふっという声が聞こえてくる。

「私も翔ちゃんのこと好きっ!」

「…………ふぅん」

 顔に全身の血が集まってきたような心地になる。今が夜でよかった、と心から思った。

「ふぅんってなにさ」

「……べつに」

 プライドもなにもあったもんじゃない。真冬の寒空の下で、丸裸にされた気分の帰り道だった。

「……じゃあ、付き合うってことでいいの?」

 告白自体初めてだった僕は少し不安に思って、少し偉そうに、ぶっきらぼうに訊ねた。

 翠は嬉しそうに足をぶらぶらとさせて、「ほかにないでしょ!」と僕の首に腕を回した――。

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