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藍色クロスロード
朱宮あめ
恋愛現代恋愛
2024年07月24日
公開日
22,391文字
完結

事故で幼なじみを失い生きる希望を失っていた翔は、幼なじみの命日の日、自らを『神様』と名乗る赤いマフラーの女性に出会う。

『神様』は、翔の願いを叶えてくれるというが……?

もし、亡くなったひとに一度だけ会えるとしたら、あなたはなにを伝えますか?

『神様』がついた嘘に、きっと驚き、涙する。

第1話

かける!」

 鈴が転がるような声が耳朶を叩き、どくん、と心臓が飛び跳ねた。

 目の前に、会いたくてたまらなかったひとがいる。天使のような顔立ち、小動物を思わせる胡桃色の少し癖のある髪と、優しげに垂れた瞳の少女。

 真冬の星座が瞬く真夜中の交差点に現れたのは、幼なじみの板垣いたがきみどりだった。

「ごめん、待たせたよね」

 真夜中とはいえ、今日は大晦日。周囲には、僕たちのように二年参りへ向かうひとたちでごった返している。

 翠は申し訳なさそうに眉を下げながら、人の波の隙間を縫うように僕のもとへと駆けてきた。

 僕はといえば、翠を見つめたまま、固まっている。

 忙しない雑踏の中にいるはずなのに、僕たちの周りだけ、まるで別次元かのようにやけに音が遠くにある。

「……あれ、どうしたの? 翔」

 固まる僕に、翠は不思議そうに首を傾げている。

 ……信じられない。

「……本当に翠なのか?」

 思わず訊ねると、翠はきょとんとした顔をして、瞬きを繰り返した。

「え、なに? 急に? そんなに私、化粧濃かった?」

 ぺたぺたとほっぺを触る翠を、僕はまじまじと見つめる。

「…………」

 翠がいる。

「ちょっと、そこはそんなことないよって言おうよ、すぐに」

「…………」

 やはり、いる。翠が。僕の幼なじみが、目の前に。

「おーい、翔?」

 ……嘘だ。そんなの有り得ない。

 ……だって。だって、翠は死んだはずなのだ。一ヶ月前に、この交差点で。



 ***



 翠が死んだのは今年の初め、一月九日のことだった。

 翠は、大学受験の帰り道、高齢者ドライバーが起こした事故に巻き込まれた被害者のひとりだった。

 アクセルとブレーキを踏み間違え、暴走した容疑者の乗用車が、赤信号だった交差点に侵入。

 複数の歩行者を次々と撥ねて死傷させた。

 事故発生当時は正月明け間もなく、すぐ近くに大きな神社があったことから、現場の交差点は参拝客でかなり賑わっていた。

 撥ねられた被害者のうち、特に重傷だった翠はすぐに近くの大学病院へ搬送されたが、処置の甲斐なくその日の夜に亡くなった。

 翠のお母さんから連絡を受けた僕は、母親と一緒に急いで病院へ向かった。

 受付で事情を話すと、薄暗い部屋に案内された。それが単なる病室でないということは、雰囲気で分かった。

 状況が理解できないまま部屋に入ると、中央に祭壇のようなものがあった。その前には、一台のベッド。

 ベッドの傍らには、翠のご両親がいた。ふたりは僕たちに気付くと、目元を押さえたまま、静かに頭を下げた。

「……翔くん。来てくれて、ありがとね……」

 僕は入口に立ったまま、動けなくなる。

「……翔」

 お母さんが僕の肩を掴み、そっと歩き出す。覚束無い足取りでベッドに向かった。

 白い布が取り払われ、翠と対面する。

「翠……」

 頭の中が真っ白になった。

 清潔なシーツに包まれた翠は、今にも大きなあくびをしながら起きてきそうな、とても穏やかな顔をしている。

「翠な、たまたま前を歩いていた親子が巻き込まれそうになって、その親子を押し飛ばして、暴走車から助けたそうだ。幸い、その親子は擦り傷は負ったけど、無事だったって……でも、その代わりに翠が撥ねられて……」

 翠のお父さんが震える声で言う。その言葉に、翠のお母さんが声を上げて泣き崩れた。

 翠のお母さんの悲痛な泣き声に、心拍が上がっていく。

「そんな……」

 息をしていないなんて、嘘だ。絶対、嘘だ。

「……起きろよ、翠。おい、翠ってば」

 縋るように彼女の細い肩を揺するが、反応はない。触れた皮膚はところどころ青ざめ、作りもののようにひんやりと冷たかった。

「なぁ……返事しろよ、翠……翠! 翠っ!」

「止めなさい、翔!」

 いよいよ取り乱し、翠の身体を揺する僕を、お母さんが泣きながら引き剥がす。その手は、ぶるぶると震えていた。

「しっかりしなさい、翔!」

「いやだっ! 翠! 返事しろよ!」

 何度も翠を呼ぶ。何度も、何度も呼ぶのに、翠は動かない。目を開けてくれない。

 僕はその場にへたり込んだ。

「……嘘だ」

 嘘だ。翠が死んだなんて――。



 ***


 翠と出会ったのは、幼稚園のときだった。

 翠は園児たちの中でも特に身体が小さく、内気で人見知りな性格だった。

 話すことが苦手でとろいから、いつもひとりぼっち。男子からからかわれては大泣きする翠を、僕はよく遠くから眺めていた。

 外で遊ぶ時間も翠は決まってひとりで、砂場にいた。

 飽きもせず、毎日毎日砂の城を作っては鬼ごっこをする男子に踏み壊される、その繰り返し。

 ある日、僕は勇気を出して、翠に声をかけた。

「お城作ってるの?」

 翠は大袈裟にびくりとして、僕を見上げたまま固まった。

「これ、ひとりで作ったの、すごいね」

 すごい、と言ったら、翠は嬉しそうに頬を染めた。

「……うん」

「こっち側、手伝ってもいい?」

「うん!」

 それから僕は、翠の世話を焼くようになった。翠ははぐれた親鳥と再会したかのように、すぐに僕に懐いた。

『ねぇねぇ翔ちゃん! 今度はこの前よりももっとおっきいお城作ろっ!!』

『しょうがないな』

『翔ちゃん、お歌歌おう!』

『いいよ』

『ねぇねぇ翔ちゃん、翔ちゃん!』

『なあに?』

 翠に頼られるのは、嬉しかった。

 お兄ちゃんになったみたいで。

 小学校でも中学校でも、高校に入学しても、翠の一番は僕だった。

 翔ちゃん、翔ちゃん、と、いつも僕の後ろをくっついて歩いてきた。

 そして一年前、高校二年生になった僕らは、夏祭りの夜に晴れて仲の良い幼なじみから恋人同士になった。

 それを機に翠は、『翔ちゃん』から『翔』へと僕の呼び方を変えた。

 これからも僕たちは、こうやって少しづつお互いの関係を変えていきながらも、結局はとなりにいるんだろうと、そう思っていたのに。



 ***



「翔?」

 ハッと顔を上げる。

 今、僕の前には、振袖姿の翠がいる。

 赤い布地に薄桃色の花がこれでもかと咲いた鮮やかな振袖だ。髪は丁寧に編み込まれていて、うっすらと化粧もしていた。

「…………」

 翠が、いる。いつもより、とびきり可愛く着飾った最愛の幼なじみが、目の前に。

 有り得ない状況に、理解が追いつかない。

 確かめようと翠に手を伸ばしたとき、脳裏にだれかの声が響いた。

『ここは、あなたが望んだあの日の夜よ』

「あの、日……?」

 女性の声にハッとする。

 ……そうだ。僕は、神社にいたはずだった。



 ***



 翠の事故から一ヶ月が経った。その間、僕は生きているのか死んでいるのか、よく分からない日々を過ごしていた。

 家に引きこもり、なにもしないまま一日が終わる。翠が死んでからというもの、食欲がめっきりなくなり、精神安定剤が手放せなくなっていた僕は、ほんの些細なことで自殺したい衝動に駆られるようになっていた。

 マスコミは翠のご両親だけでなく、僕のことまで追い回してきた。

 翠さんとは幼なじみだったようですが、容疑者に対してどういうお気持ちですか? お付き合いされていたという話もありますが……。

 僕を金としてしか見ていないマスコミからの質問に、僕はそのうち気が狂いそうになった。するとマスコミは、さらに僕を悲劇の恋人として祭り上げた。

「翔、しばらくおばあちゃんちに行ってなさいよ」

「え? ……どうして」

 僕のメンタルを心配したお母さんが、僕に岡山の祖父母宅へ行くように進めてきた。

「今月はもう自由登校なんだし、報道が落ち着くまででも」

 言われて初めてカレンダーを見る。気が付けば、翠が亡くなってもう一ヶ月が経とうとしていた。

 僕は少し考えて、「いいや」と断る。

 祖父母とは盆と正月くらいしか顔を合わせたことがないから逆に休めなさそうだし、正直それすらも面倒くさい。

「……そう。……あ、少し換気しようか。こっち側には、マスコミもいないだろうから」

 お母さんが窓を開ける。

 まだ春になれていないひんやりとした風が、肌をさす。

「……僕、ちょっと散歩行ってくる」

「気を付けるのよ」

 一ヶ月ぶりに家を出て向かったのは、翠が事故に遭ったあの交差点。

 今日は、二月九日。翠の月命日だった。

 事故現場は駅から繁華街へ繋がる五叉路の巨大交差点で、車よりも歩行者のほうが多いことで有名な場所だった。

 歩行者用信号機の下には、たくさんの花やお菓子、飲み物が供えられている。中には、翠をよく知る人物が供えたらしい生前彼女が好きだった食べ物や、ラッコのぬいぐるみなんかもあった。

 その中に、僕も持ってきた花束をそっと置く。

 手を合わせてから、ふと周囲を見渡す。

 交差点は、道路が見えないほどのひとで溢れ返っていた。

 スーツを着た会社員や学生たち。

 ずっと見ていると、あまりにも多くのひとたちが忙しなく交差点を過ぎていく。

 その光景を見て、思った。

 ……こんなにたくさん、ひとがいるのに。

 なんで、翠だったんだろう。

 あの事故に巻き込まれて死んだのは、翠だけだった。

 どうして神様は、翠ひとりを連れていったのだろう……。

 翠じゃなくて、違うひとにしてくれたらよかったのに。

 奥歯を噛み締める。

 ふと、ニュースのワンシーンを思い出した。

『参拝客で賑わっていながら、死者がひとりしか出なかったことは不幸中の幸いだった』

 偉そうなコメンテーターは、そうコメントしていた。

 死者がひとりしか出なかったことが幸い?

 十八歳の少女の未来を奪ったことが幸い?

 被害者遺族の未来も、なにもかもすべてを奪ったことが……。

 ふざけるな。ふざけるな、ふざけるな。

 怒りで身体が震えたのは、初めてのことだった。

「神様のくそったれ……」

 小さく吐いた暴言は、誰の耳にも触れることなく、真冬の寒空に溶けて消える。

 ほどなくして歩道用信号機の音が鳴り始め、足を踏み出す。交差点の真ん中に差し掛かったところで、足を止めた。

 足が向いた先の歩道用信号機の下にも、同じようにたくさんのお供えものがあった。

 今回の事故では、翠以外に犠牲になったひとはいない。

 つまり、あれも翠へのお供えものなのだろう。

 お供えものとは、両側に置くものなのか。あとでもう一束、花束を買ってきてこちら側にも供えなくちゃ。

 そんなことを思っているうちに、僕の周りからはひとがいなくなっていた。音が止み、信号機が点滅を始める。

 早歩きをして交差点を渡り切ろうとしたときだった。

 女性とすれ違ったような気がした。

 すれ違いざま、視界の端で女性の赤いマフラーがひるがえる。

 その色彩に引き寄せられるように振り返る。しかし、振り返ってもだれもいなかった。ひとも、赤も。

 首を傾げ、再び歩き出す。そのまま、彼女と初詣に行った神社へと向かった。

 年が明け、一ヶ月が過ぎた神社は閑散としていた。

 人気のない参道を進み、本殿を睨むように見上げる。

 あの日、僕は神様に願った。

 これからもずっと、翠と一緒にいられますようにと。

 でも、神様はそれを叶えてはくれなかった。

 初詣から十日経たずして、翠はこの世を去った。

「なにが神様だ……くそったれが」

 どうしたらこの虚しさは発散されるのだろう。考えても考えても分からない。考えるほど、出口のない迷路を彷徨っているような心地になる。

 いったい、出口はどこにあるの?

 そもそも、あるの……?

「だれか、教えてくれよ……」

 思わずそう呟いたとき、ぴゅうっと冷たい風が僕の横を吹き抜けていった。

『こんにちは、お兄さん』

 どこからか女性の声がした。ハッとして、顔を上げる。

 お賽銭の手前側に、薄いベージュ色のロングコートと赤いマフラーをかけた女性が佇んでいた。

 長い髪が風に揺れる。

 驚くことに女性の身体は半透明に透けていて、向こう側がうっすらと見えていた。

 僕は思わず、何度も目を擦る。けれど、どれだけ目を凝らしても、女性の身体は透けたまま。しばらく目の前の状況に放心していたら、ふと気が付いた。

 女性の姿に、見覚えがあるような気がしたのだ。

「あ……もしかして、さっき、交差点で」

 彼女はさっき、交差点ですれ違ったあの女性ではないだろうか。

 女性と目が合う。

『私は、美空みそら。この神社の神様』

「かみ、さま……?」

 美空というその女性は、真顔で非現実的なことを言った。けれど、ふつうなら笑い飛ばしてしまうはずのセリフも、その透けた身体を見たら信じざるを得ない。

 神社に人気はほとんどないが、ひとりもいないわけではない。

 疎らにいるひとたちの様子を窺うけれど、ほかのひとたちは彼女の声を聞くことができないのか、こちらを気にしている様子はない。というか、彼女をすり抜けてお賽銭を投げ入れるひとまでいる。

「もしかして、本当に……?」

 少し背筋が冷えたが、透けてはいるものの、しっかりと足まで見えるためかそこまで恐怖は感じない。

「……あの、僕になにか用ですか?」

 美空さんは静かな笑みを浮かべて、言った。

『ねぇあなた、さっき私に喧嘩を売ったわよね』

 どきりとする。

『神様のくそったれ……って』

 ついさっき、口をついたセリフを思い出す。

「……それは、だって……本当のことだろ。僕はここで、翠とずっと一緒にいられますようにってあんたに願ったのに!」

 言い返すと、美空さんは思いのほか弱気に目を伏せた。

 それが余計に腹が立って、僕は畳み掛けるように言う。

「なんで翠が死ななきゃいけなかったんだよ。翠があんたになにかしたのか? 嫌われるようなことしたのか? ……本当に神様だって言うなら、翠を返してくれよ。そうしたら、土下座でもなんでもするから」

 喚く僕を、美空さんはただ黙って見つめている。

「なんなんだよ……黙ってないでなんとか言えよ!」

 掴みかかる勢いで彼女に詰め寄ると、美空さんは喉を引き絞るような声で言った。

『……ごめんなさい』

 苦しげな表情から思わず目を逸らす。

「……やっぱり、くそったれじゃないか」

 虚しさが広がった。

 ……本当は分かっている。

 翠の事故は、ただ車を運転していた男だけが悪かった。前を歩いていた親子のせいでも、彼女のせいでもない。

『……残念だけど、死んだ人間を生き返らせることはできない。でも、もう一度だけ会わせることならできる』

「え……?」

 驚いた顔をして美空さんを見ると、彼女は切れ長の目をさらに細くして、言った。

『あなたが望むなら、会わせてあげる。あなたの大切なひとに』

「会わせる……? なに言ってるんだ? 翠はもう死んでるんだ。そんなの」

 無理だ、と否定する前に、美空さんはきっぱりと言った。

『私ならできる。だって私は、神様だから』

「……だからその神様ってなんなんだよ」

 美空さんは僕を無視して続ける。

『ただし、いくつか条件がある』

「はぁ?」

『死んだ人間に会うことができるのは、私が力を使うことができる夜のみ。つまり、過去会いたいひとと夜に会ったことがなければ会うことはできない。それから、死んだ本人に事故の事実を告げることはできないし、本人が死んだ現実も変わらない。事故当日に会って、過去を変えるための細工をしたとしても、生き返ることはない』

 美空さんは、淡々とした口調で言った。

 翠が巻き込まれた事故が起こったのは、昼間の交差点だ。

「……あの、それだとつまり、僕が事故現場に居合わせるのは不可能ってこと?」

 美空さんが頷く。

『事故が昼間に起きているのなら、その事故に居合わせることはムリね。とはいえ、そもそも事故の瞬間死んだ本人と一緒にいても、現実は変わらないのだから、わざわざ居合わせるなんてことはそもそも無意味よ。注意は以上だけど、ほかになにか質問は?』

 なにも考えられず、首を横に振る。

『そう。それじゃ、本気で彼女に会いたいなら、今夜またここに来なさい』

 それじゃあね。

 美空さんはそう言って手をひらひらと振ると、ふっとロウソクの炎が消えるように消失した。

「消えた……!?」

 困惑して周囲を見るが、それ以降、彼女の声が聞こえることはなかった。

 その日の夜、僕は再び昼間美空さんに会った糸繋いとつなぎ神社に来ていた。

 真夜中の神社は昼間よりもいっそう寂しく、乾いた空気が漂っている。

 ひとの気配がまるでない境内のなかでは、歩くたびじぶんの足音が大袈裟に響く。

 参道からずっと美空さんを探して歩いてきたが、姿は見当たらない。

「……いない」

 やっぱり、あれは病んだ心が見せた幻だったのだろうか。

 そもそも、冷静に考えたら死んだ人間に会えるだなんて有り得ないことだ。

 ……それなのに、翠と夜に会ったときのことを思い出して、有り得ない話を鵜呑みにして。

「……なに考えてんだろ、僕」 

 頭は、冷却水に浸かったようにどんどん冷静になっていく。

 そもそも彼女だって、たとえ再会できたとしても、翠が死んでしまった事実は変わらないと言っていたではないか。

 どんなに願ったって、翠が戻ってくることはないのだ。

「……そうだよ。今さら、どんな顔して翠に会えばいいんだ」

 ぽつりと呟き、帰ろうと踵を返した。

 柳の枝葉が揺れ、肌が粟立った。

『本当に来たのね』

 声が聞こえ、ハッとする。振り向くと、柳の木の下に、身体が半透明に透けた美空さんがいた。

「本当に……いた……」

 呆然とする僕に、美空さんが歩み寄ってくる。

『やぁ。決心は着いた?』

「……分かりません」

 素直な心境を言うと、美空さんは目を瞬かせた。

『分からない? それなのに来たの?』

「なんか……衝動的に。でも……翠が助かるわけじゃないなら、今さら会ったって、辛いだけなんじゃないかな、って、迷ってしまって」

 すると、美空さんはふぅん、と呟いた。

『……驚いたな。つまりあなたは、彼女に言い残したことも、伝えたいこともないってことなんだね?』

「えっ……?」

 おもむろに美空さんが冷たい口調になり、背筋がぞわりとした。言葉もなく、美空さんを見つめる。

『たしかに、彼女は戻ってこないわ。でも、それを踏まえても彼女に伝えたいことはないの? あなた、これまでずっと彼女と一緒にいたのよね? 彼女が亡くなったのはあまりにも突然だったはず。これからもずっと一緒にいられると思ってたのに、それは永遠に叶わない。本当なら、これから伝えるはずだった想いがあるはずでしょ? それなのに、なにも伝えないままのさよならでいいの?』

「……でも、なんて言ったらいいか……というか、ちゃんと、翠の前で笑える気がしないし、辛気臭くなっちゃうのは、やだし……」

『そんなの、会ってみなきゃ分からないでしょ! 大丈夫よ。いつだって、デートで主導権を握るのは女の子なんだから。あなたはただ、彼女に会いたいか会いたくないか、それだけ決めればいいのよ』

 と、美空さんは当たり前のように言った。

「会いたいか、会いたくないか……」

 呟いた言葉は、寒空に溶けていく。

 さらり、と赤いマフラーが揺れた。

『さて、もう一度聞くけど、会わせてあげられるのは一度きり。夜が明けるまでの間だけ。条件付きの再会、する?』

 美空さんは、静かな声で僕に訊く。

 翠に会うには、条件がある。

 本人に事故の事実を告げることはできないし、本人が死んだ現実も変わらない――。

 たとえ会ったとしても、翠は生き返らない。

 でも、でも……やっぱり僕は、翠に会いたい。

 素直にそう思った。

「……翠に会わせてください」

 そう、言った瞬間。

 世界が暗転した。

 車の音やひとの声、サイレンの音が響く交差点のど真ん中に、僕は立っていた。

「ここ、は……」

 視界のあちこちに、晴れ着を着たひとたちがいる。

 すれ違った瞬間、カップルの会話が聞こえてきた。

「新年まであと三十分だって!」

「紅白どっちが勝ったのかなぁ」

「帰ったら一緒に見よーねっ!」

 新年、紅白、晴れ着、と、飛び交うワード。

 もしかして、ここは。

「昨年の大晦日……?」

 歩行者用信号のメロディが止み、赤に変わる。僕は慌てて横断歩道を渡った。

 もしここが昨年の大晦日なら、と、僕はある場所へ向かった。

 翠と待ち合わせた場所――駅前の銅像が見えてくる。銅像の前に佇む、見覚えのある女の子がいる。ふと、女の子がなにか感じたようにくるりと振り向き、僕に気付く。

「――翔ーっ!」

 この一ヶ月、聞きたくてたまらなかった声が僕の名前を呼ぶ。

「みど、り……」

 どくん、と心臓が飛び跳ねる音がした。

 目の前に、会いたくてたまらなかったひとがいる。

 天使のような顔立ち、小動物を思わせる胡桃色の少し癖のある髪と、優しげに垂れた瞳の少女。

 僕の元へ駆けてきたのは、華やかな赤色の振袖を着た翠だった。

「嘘だろ……」

 僕は、目の前の光景に呆然とした。

 本当に、翠がいるなんて。

「ごめん、待たせたよね」

「…………」

 息を呑んだ。

 手を伸ばせば、触れられる距離に翠がいる。

 呆然と立ち尽くしていると、翠が不思議そうに首を傾げた。

「……あれ、どうしたの? 翔」

 ハッと我に返る。

「――翠! お前、本当に翠なのか?」

 急いで翠に駆け寄り、その肩を揺すった。触れた肩があたたかいことに、どうしようもない感動を覚える。肩を掴む手が震えた。

 ちゃんと、生きている。翠が、生きている……。

「え、なに? 急に? そんなに私、化粧濃かった?」

 若干戸惑いがちに笑う翠はあまりにも翠らしくて、涙が出そうになる。

 本当に、翠だ。美空さんが、僕の願いを叶えてくれたんだ。

「……翠……翠」

「なぁに? 翔」

 何度も確かめるように名前を呼びながら、僕は頼りない息を吐く。すると、翠はどこかくすぐったそうに息を吸うようにして笑った。

 あぁ、この顔、この笑いかた……。翠だ。間違いなく、翠だ。

「ねぇ! 早くしないと年明けちゃうよ! 早く神社行こっ!」

 と、翠は軽やかに袖を振って駆け出した。

「あっ……待って!」

 横断歩道へ駆け出そうとする翠の手を、反射的に掴む。

 翠が振り向く。

「翔?」

 翠はほんの少し戸惑ったような顔をして僕を見た。

 その顔を見て、気付く。

「あ……ご、ごめん。でもほら、信号。危ないからさ」

 翠はきょとんとした顔をして、僕を見つめる。

「さすがに赤のときは渡らないよ?」

「いや、それはそうなんだけど……翠は危なっかしいから」

 そう言って、僕はもう一度強く翠の手を握った。

 並んで信号待ちをしていると、遠くで鐘の音が低く響いた。

 鐘の音を聞いたからか、翠が周囲を見て言う。

「……神社混んでるかな?」

「まぁ、大晦日だからね。たくさんいるでしょ」

 僕たちの周りには、ひと、ひと、ひと。

 翠のように華やかな振袖姿の女性や、寄り添い合うカップルたちでごった返している。

 交差点を過ぎ、糸繋神社へ続く道に入ると、歩行者天国になっていた。両脇には、あたたかなオレンジ色の提灯と、露店がいくつも軒を連ねている。

 さっそく露店の食べ物に瞳を輝かせる翠に、「食べるのはお参りの後でな」と言って手を引く。

 神社に入ると、参道はものすごいひとたちでごった返していた。

「これはなかなか先に進めそうにないね……」

「まぁ、仕方ないね」

「あっ! ねぇ翔! あっちで甘酒配ってるよ! 貰ってこよーよ! あったまるよ!」

「ちょっ、そんなに引っ張ったらほかのひとにぶつかるって!」

 言ったそばから、翠はすぐ真後ろにいた初老の男性にぶつかった。

「わっ! ご、ごめんなさい!」

「いえいえ」

 男性はにこやかに微笑んだ。

「すみません」と僕も頭を下げつつ、翠へ視線をやる。翠は男性に頭を下げたままちらりとこちらを見て、舌を出していた。

「可愛いカップルねぇ」

 男性のとなりにいたご夫人が、にこにこと言った。

「私たちにもこんな時代があったのかしらね。懐かしいわねぇ」

「そうだなぁ」

「今日はひとがたくさんだから、気を付けてね」

「はい。ありがとうございます」

 僕たちは改めてご夫婦にぺこりと頭を下げて、そそくさとその場を去る。

「もう、言ったそばから!」

 歩きながら小言を漏らすと、翠はぺろっと舌を出した。

「ごめん〜!!」

「ほら、手を離すなよ」

「うん!」

 翠は元気よく頷き、しっかりと僕の手を握った。

 甘酒をもらったあと、僕たちはお参りの列に並んだ。ほどなくして順番が回って来る。お賽銭を入れ、両手を合わせた。

 ちらりと隣を見る。

 ……なにを祈っているんだろう。

 その横顔を見ながら、複雑な気持ちになった。

 社へ視線を戻す。

 社の中に、美空さんの姿は見当たらない。

「…………」

 昨年の大晦日、僕はここで、翠とずっと一緒にいられますようにと願った。その願いは翠の死によって叶わなくなったけれど……。

 美空さんは、どうして今になって、僕の願いを叶えてくれたんだろう。どうせなら、あのとき願ったほうを叶えてくれたらよかったのに……。

 ふと視線を感じて隣を見ると、翠が僕をじっと見ていた。

「わっ、な、なに?」

「……翔、なにお願いしたの?」

「……いや、べつに大したことじゃないけど。翠は?」

 と、訊ねると、翠はにこーっとらしい笑みを向けた。

「秘密ー!」

「なんだ、それ……」

 子供っぽい仕草に呆れつつ、懐かしさに胸がいっぱいになる。

「さて! チョコバナナと綿あめ買いに行かなくちゃ!」

「せめて年が明けてからにしろよ」

「じゃあ甘酒もらってこよ。さっき、あっちの参道のほうで配ってたから」

 甘酒をもらったあと、僕たちは社のすみっこで甘酒をちびちびと飲みながら、新年を待った。

 翠と他愛ない話をしていると、あっという間にカウントダウンが始まり、そして新たな年が始まった。

 二年参りからの帰り道、僕たちの間に会話はなく、ただただ静かな沈黙が横たわっていた。

 なにか話さなきゃと思うのに、いざ口を開くと、頭が真っ白になって言葉がなにも出てこない。

 別れの時間が刻一刻と近付いてくる。

 夢にまで見た翠が今目の前にいるのに。

 もっと伝えるべきことがあるはずなのに……。

「……あっ! ねぇ、翔ちゃん! あれ見て!」

 不意に、翠が昔の呼び方で僕を呼ぶ。まだ新しい呼び方に慣れていないのか、翠はたまに、僕を昔の呼び方で呼ぶことがあった。

 そんな些細なことにすら、彼女がいたかつての日常を思い出して、涙が出そうになる。

 僕は正直、翔と呼ばれるよりも昔の呼び方のほうが好きだった。なんか、幼なじみって感じがして。

 顔を上げると、翠は興奮気味に一点を指し示し、駆け出した。

「えっ……なに!?」

 翠が駆けて行った方角を見ると、僕たちが通っていた幼稚園があった。

 どくん、と大きく心臓が跳ねる。

「見てみて! やばい、ちょー懐かしい!」

 はしゃぐ翠を前に、僕も自然と笑みが漏れる。

「……ほんとだ」

「ねぇ翔。覚えてる? あの頃の私さぁ、人見知りでいつもひとりぼっちで砂のお城作ってたんだよね」

 翠は前のめりに幼稚園のフェンスを掴み、懐かしそうに砂場を見つめたまま呟いた。

「……そうだね」

 隣に並び、幼稚園の庭を眺める。

 あの頃とても大きく見えていた遊具や砂場は、今見るととても小さく思えた。

「私たち、成長しているんだね、今、この瞬間も……」

「……うん」

「翔はいつも、いつの間にかいるんだよね。出会った頃もそう。気付いたら向かい側に翔がいて、私のお城作るの手伝ってくれたんだ」

「そうだっけ」と、とぼけながらも僕は懐かしさに口角を緩ませた。

「そうだよ。……翔は昔からそうだった」

「そうって、なにが?」

「ひとりぼっちの子を見つけるの、すごく上手なの」

「……そんなことないよ」

 柔らかな視線に後ろめたさを感じて、僕は思わず目を逸らす。

「あるよ。翔は昔からずっと優しかった。あのね、ひとりぼっちを見つけるのって、結構難しいんだよ。すぐ陰に隠れちゃうから。……でも、翔は見つけてくれた。私だけじゃなくて、小学校でも、中学校でも、ひとりぼっちの子がいると一番に声をかけてた。それですぐ仲良くなっちゃうの。すごいよ」

 翠は珍しくしっとりとした声で言った。その横顔は、少し大人っぽく見える。

「……べつに、すごくないよそんなの。既にできあがった輪の中に入るのが怖かったから、ひとりでいる子に声をかけただけだ」

 息を吐くように言うと、翠は首を振った。

「私、ぼっちだった過去があるから分かる。ぼっちは基本他人は敵って思ってるし、じぶんの殻に閉じこもってるから、そう簡単に心を開いたりしないの。……だけど、翔に話しかけられると、どうしてか心の壁が取り払われちゃうんだよ。なんか、よく分かんないけど安心して笑えるの。のんびりした声とか、優しい笑顔とか、空気感とかなのかな」

「……大袈裟。園児はそこまで考えてひとと話しないでしょ」

「……まぁ、そうかも。……だけど、小学校のときも私がクラスになじめるように、みんなにこっそり話してくれてたでしょ。お昼休みとか、わざと席を外して、私をひとりにしたこともあったよね」

 たしかにあった。でも、とある事情ですぐにやめたし、本人には気付かれていないと思っていたのだが。

 翠は驚く僕を見て、穏やかに笑った。

「知らないと思ってた? ふふ、知ってたよ、ぜんぶ。翔、私が熱出したからやめたんだよねー!」

「……だから、あのときは悪かったと思ってるって」

 小学校に入ってから、翠はずっと僕にだけべったりで他の子と仲良くなろうとしなかったから、いろいろ仕掛けたのだ。

 昼休み、わざと席を外して話すきっかけを作ったりして。

 でも結局、次の日翠が風邪を引いて寝込んだと聞いて、それからは無理にクラスメイトと仲良くさせようとするのはやめた。

「私、翔以外のひとと話すの慣れてないから、神経使い過ぎて熱出しちゃったんだ。そうしたら翔、めちゃくちゃ慌てて私が大好きな桃のゼリーとかアイスとかたくさん買ってきてくれたっけ。懐かしいなぁ」

 あの頃、翠はしょっちゅう熱を出していた。今思えばきっと、学校の人間関係でたくさん気を遣っていたのだと思う。

 翠は一度仲良くなれば心をどこまでも開くけれど、それまでは相手の顔色をうかがったり、かなり気を遣うタイプなのだ。

「無理させてごめんな」

「ううん。私のことを思っての行動だもん。……ねぇ、あの日のことも覚えてる?」

「あの日?」

 訊き返すと、翠は静かに言った。

「私たちが、付き合った日のこと」

「……知らない」

 咄嗟にとぼけてすっと視線を外すと、翠がムッとして僕の肩を押す。

「私は忘れたことないのに!」

「……嘘。覚えてるよ」

 忘れられるわけがない。僕たちが付き合ったのは、一昨年の夏祭りの日だった。

 正直あまり思い出さないようにしていた記憶の箱が、ぱかっと開く。



 ***



 夏祭りを楽しんだ帰り道、翠は泣いていた。

 その日、翠は、白い布地に青紫色の桔梗の花が咲いた鮮やかな浴衣を着ていた。足元は真新しい下駄。その下駄がきっかけだった。靴擦れして、機嫌を悪くしたのだ。

 仕方なく僕がおぶって帰ることになった。

 おぶるよと申し出ると恥ずかしいからいやだと喚くので、仕方なく僕はひと通りの少ない線路脇や農道を通るからと約束をして、おぶって帰る羽目になった。

 それでも、背中で翠がいつまでもぐずぐずと泣くものだから、僕は翠の機嫌を取るためにいろんないろんな話をした。

 ふたりで可愛がっていた近所の犬の話、クラスメイトのくだらない武勇伝、神社で見かけたラブラブカップルの話。

 だけど、どんな話をしても翠はムスッとしたままで。

 なんで僕が翠の機嫌を取らなきゃならないんだと内心思いつつ、気まずいのもいやなので機嫌を取り続けた。

 それでもぐずぐずする翠に、いい加減苛立ちがふくらんでくる。

「……なぁ、翠。いい加減機嫌直してよ」

「べつに、怒ってないもん」

 けれど、翠はやはりムスッとして答える。

「怒ってるじゃん」

 若干不機嫌に言うと、翠は負けじと、

「怒ってないよ!」

 と、さらに怒った。僕はため息を漏らす。

「…………お祭り、楽しくなかった? 本当は来たくなかった?」

「……だから、そんなことないって言ってるじゃん」

「じゃあなんでそんなに怒ってるんだよ、たかが靴擦れくらいで」

「たかが……」

 すると、翠は僕の背中で再びすんすんと泣き始めた。

「えっ……ちょ、な、泣くなよ」

「……翔ちゃんのバカ」

「だから、なんで僕……!?」

「そもそも、翔ちゃんがぜんぜん褒めてくれないのが悪いんじゃん!」

 翠は言ってから、僕の肩に載せた手にぎゅっと力を入れて黙り込んだ。

「褒める……?」

 というか、やっぱり怒ってるんじゃないかと思いながら翠を背負い直すと、ふと腕に触れる浴衣に目が行く。

「……あ、もしかして、浴衣のこと?」

 訊ねると、翠は小さな声で本音を吐露した。

「…………浴衣だけじゃないもん。髪だってたくさん時間かけて、頑張って可愛くしてきたのに、翔ちゃんなんにも気付かないんだもん……」

 どんどん小さくなっていく翠の声に、罪悪感が押し寄せる。

「……翠、あの」

「いいもんべつに。翔ちゃんが私を意識してないことなんて知ってるし……浴衣も髪も、ぜんぶ私の自己満足だもん」

 翠はそれきり黙り込んでしまった。

「…………ごめん。僕、そういうの疎くて」

 華やかな浴衣も、いつもと違う髪型も化粧も、もちろんぜんぶ気付いていた。すごく可愛いと思ったし、新鮮でどきどきした。

 だけど、それを言葉にする余裕がなかったのだ。

「浴衣……その、すごく、いいと思う」

「……いいよもう、無理しなくて。私が言わせたみたいで、余計に傷つくから」

 怒られてしまった。

 しんみりとした沈黙が落ちる。

 言葉を探しながら、バレないように唇の隙間から息を吐く。息を吐き終わってから、思い切って口を開いた。

「……無理なんかしてない。でも、その……」

 途中で躊躇う。

 本音を言うのが怖くなったのだ。出会ったときから積み上げてきた今の関係が変わってしまうかもしれないから。

 と、考えながら翠と目が合って、心臓が跳ねる。

「……翔ちゃん?」

 翠が僕を呼ぶ。

 まっすぐな眼差しに、僕は唐突に自覚する。

 ――翠が好きだ、と。

 昔からずっと、彼女のとなりは僕だった。今さら、だれにも渡したくない。ここは僕の特等席だ。だれにも譲らない。

 でも、いつから?

 いったい僕は、いつから翠のことを女の子として、みていた?

 出会ったときの翠は、あまりにも幼かった。小さくて、危なっかしくて、見守ってあげたい子。あの頃は翠を、妹のように思っていたはずだ。

 小学校のときもそう。高学年になると、女子と仲良くしているとクラスの男子からからかわれるようになったから、それがいやで一度翠を遠ざけた。けれど、そうしたら翠が寂しいとギャン泣きしたから、やめた。

 そこで気付いたんだ。僕にとっては、やっぱり翠が一番に守りたい存在で、意地悪なクラスメイトなどどうでもいい存在なのだと。

 中学に入ると、翠はクラスの男子からたびたび告白されるようになった。

 そのたび、少し寂しい思いをしていた気がする。

 僕にとっての一番は変わらず翠なのに、翠の中の一番が僕ではないだれかに成り代わってしまうような心もとなさを感じて。

 ……翠を女の子として意識したのは、あのときかもしれない。

 そして、高校生。

 夏休みに入る前のことだったか。翠がサッカー部のエースに告白されたとかいう噂がクラスで広まった。

 その男子は頭が良くて、しかもイケメンなのだとクラスの女子の間でもよく名前が上がっていた。

 これまで翠はすべての告白を断っていた。けれど、今回ばかりはどうだろう。

 翠はイケメン俳優やアイドルの話をよくするし……もし、彼の顔が好みだったら。

 もし、翠が彼と付き合ったら、僕たちは今までのように会うことはできなくなる。

 そんなの――いやだ。

 いつまでも逃げるな。今度こそちゃんと向き合えよ、と内側にいるもうひとりのじぶんが言う。

 大きく息を吸い、深く息を吐く。

「……だから、そういうこと」

「……どういうこと?」

 翠が首を傾げる。

「……だから、好きってこと、翠が」

 若干怒った口調で白状する。

「……翔ちゃんが……、私を好き?」

「……そうだよ」

「好き……?」

「だから、そうだって」

 からかわれている気になって、僕は恥ずかしさのあまり早足になる。

「翔ちゃんっ!」

 不意に、翠が僕の名前を呼びながら僕にぎゅっと抱きついた。満足気な、ふふっという声が聞こえてくる。

「私も翔ちゃんのこと好きっ!」

「…………ふぅん」

 顔に全身の血が集まってきたような心地になる。今が夜でよかった、と心から思った。

「ふぅんってなにさ」

「……べつに」

 プライドもなにもあったもんじゃない。真冬の寒空の下で、丸裸にされた気分の帰り道だった。

「……じゃあ、付き合うってことでいいの?」

 告白自体初めてだった僕は少し不安に思って、少し偉そうに、ぶっきらぼうに訊ねた。

 翠は嬉しそうに足をぶらぶらとさせて、「ほかにないでしょ!」と僕の首に腕を回した――。



 ***



「……そんなこともあったっけ」

「懐かしいね」

 あのときのことを、僕はあまり思い出さないようにしていた。

 ふわふわした優しい気持ちになれるのではなく、ほんの少しの罪悪感に苛まれるから。

「……ねぇ、翠」

「ん?」

 翠に向き合い、覚悟を決める。

「……あのさ、僕……あのときのこと……ずっと謝らなきゃって思ってたんだ」

 翠が目を丸くする。

「謝る? なんで?」

 翠はきょとんとした顔で僕を見る。

「あの頃翠、サッカー部の田口たぐちから告白されてたでしょ。そのとき……夏祭りにも誘われてたよね」

 夏休み前、学校最終日の放課後だった。午前中で学校が終わった僕は、そのままいつものように翠と下校するつもりだった。

 だけど、トイレから戻ると翠は教室にいなかった。近くにいたクラスメイトに訊ねると、隣のクラスの田口という男子生徒に呼び出されて出ていったらしい。

 最初は大人しく待っていようと思っていた。だけど、どうにも落ち着かなくて、教室を出た。

 べつにふたりを探そうとしていたわけではなかったけれど、校舎内をふらふらとしていたら、中庭でたまたまふたりを見つけてしまった。

 田口から告白を受ける翠を見て、僕は頭が真っ白になった。それまで、翠が告白を受ける姿を直接見たことはなかったから。それに、翠が告白をその場で断らなかったことにも動揺した。

「……田口が翠を夏祭りに誘ったって知ってたのに、僕は翠を夏祭りに誘った。このままだと、翠が取られちゃう気がして、怖くなったんだ。翠を失いたくなかった。……卑怯だよな。今までなにもしてこなかったくせに」

 あのあと、翠は田口をフッた。僕が告白したから。もし、僕が告白していなかったら、翠はどう返事していただろう……。

「…………ほっとしたんだ。僕と付き合ったあと、翠が田口をフッて」

「…………」

「あのとき田口が翠に告白していなかったら、僕はきっと、翠に告白できてなかった。それまでの関係を変えることも怖くて、踏み出せないままでいたと思う。だから、翠と付き合うきっかけをくれた田口には感謝してた。でも……」

 同時に、じぶんの欲深さにゾッとした。

 僕は、なんてかっこ悪い男なんだろう。

 告白する勇気もなくて、でもいざ翠を失うかもしれないと思ったら、必死で足掻いて田口から奪った。

 翠が僕に甘いことを知っていて。

 現状を守ろうと、必死になっている。

 翠はなにも言わず、僕をじっと見つめていた。

「翠にも田口にも、ずっと謝らなきゃと思ってた。でも……謝ったら、じぶんの愚かさを認めることになるし。本当のことを知ったら、翠がどう思うのかも怖かった。翠に卑怯な奴だって思われるかもって……。だから、ずっと言えなかった。……ごめん」

 頭を下げ、謝る。翠はしばらく押し黙ったままだったが、やがて小さく口を開いた。

「それで……翔は後悔してる?」

 顔を上げると、翠は少し濡れた瞳を僕に向けていた。翠がもう一度、僕に訊く。

「私と付き合ったこと、後悔してる?」

 僕は静かに首を横に振った。

「……してない。翠のそばにいられて幸せだった」

 翠がふっと笑う。

「じゃあ、なんの問題もないじゃん!」 

 まるで、真冬の寒さに凍てついていた空気が、春の日に包まれた雪解け水のように柔らかく解けていくように、僕の心はゆっくりと解れていく。

 おもむろに歩き出す翠を、視線で辿る。

「それに、謝るのは私のほうだよ」

「え?」

「私があのとき、その場で田口くんに返事をしなかったのはね、理由があるの。……このことが噂になったときの翔の反応を見たかったんだ。私にチャンスがあるのかないのか」

 今まで私がどんなひとに告白されても、翔は興味なさそうにしていたから。もしかしたら翔は私のことをなんとも思っていなくて、私の片想いなのかもしれない。

 と、翠が呟く。

「もしそうなら、私は翔から離れるべきなのかもしれないなって。……あの日、翔が私に告白してくれなかったら、田口くんと付き合うつもりでいた」

「え……」

 翠が吐いた吐息が、寂しげに空を淡く染める。

「……ほらね、最低なのは私。田口くんを利用して、翔のことも試した。本当は、このことを言うつもりもなかった。翔が卑怯なら、私はもっと卑怯だよ」

「翠……」

「幻滅した?」

 ぶんぶんと首を横に振る。

「まさか。幻滅なんてするわけない」

 そう返すと、翠はニカッと笑った。

「それじゃ、私たちはお互い卑怯者ってことで!」

 そう、翠はからりとした声で言って、再び歩き出す。その背中に、僕はまだ伝えそびれていたことを伝えようと足に力を入れた。

「……あのさ、今まで僕、翠にはずいぶん威張った口をきいてたよね。……翠はワガママで甘えん坊で、僕がいなきゃダメダメだとか。本当の翠はただ、繊細で優しくて、素直なだけだったのに」

「あはは。恥ずかしいけど、そのとおりだよ。今までどれだけ翔に助けられてきたことか……」

「そんなことない。翠は、ぜんぜんダメダメなんかじゃないよ。ダメなのは僕のほうだ」

 翠が振り向く。

「……急になにを言うの。私、翔に出会えて本当に良かったと思ってるよ。翔と出会ってなかったら、私はきっと、今もひとりぼっちのままだった。だからね、もし今あの頃の翔に会えるなら、言いたい。園児の翔に、ありがとうって。これからもこの子をよろしくねって」

 優しい眼差しで言う翠に、僕の視界は次第に潤んでいく。翠が笑う。

「……私ね、ようやく気付いたんだ。私には私の人生があるように、翔にも翔の人生があるってこと」

 翠は一度言葉を切り、僕を見た。柔らかく微笑み、続ける。

「私ね、これまで……翔がいれば友達なんていらないと思ってた。ずっとふたりだけでいられればいいって。……だけど、それじゃダメだよね。ふたりだけじゃ、私たちの世界はずっと小さいまま。ふたりだけの世界はすごく脆いから、些細なことで呆気なく崩れちゃう。もっとほかのひとの視点を知って、もっとほかの価値観の言葉をもらって、吸収していかないといけなかったんだ。翔はずっと、それを私に教えようとしてくれてたんだよね」

 今さら気付いたって遅いのに、今ようやく分かったんだよ。

 翠はどこか寂しそうに俯き、ふふと笑う。

 僕はぶんぶんと首を振った。

「そんなことない。僕は、これからもふたりきりでいたい。僕がぜんぶ、なんとかするから。翠が分からないことは僕が教えるから。だから……前みたいに頼ってよ」

『翔ちゃん、ずっと一緒にいてくれる?』

『翔ちゃん、私たち、ずっと一緒だよね?』

『翔ちゃん、翔ちゃん』

 翠はいつもそうやって僕を頼った。

 その声が、どれだけ僕に力をくれていたか、今になって、ようやく分かる。

「頼ってたのは僕。甘えてたのは、僕のほうなんだよ……」

 翠の『翔ちゃん』が聞きたくて、僕はずっと翠を守ってきた。本当は勉強なんて興味なかったけれど、翠に『ありがとう』と言われるのが嬉しくて、ひと一倍頑張った。

 翠の『翔ちゃん』は、僕にとって魔法の言葉だったのだ。

 あの言葉があれば、僕はどれだけだって頑張れた。あの言葉がなければ、きっと今の僕はここにいない。僕を作っているのは、翠だ。

「そんなことない、私が助けられてたんだよ。翔はいつも、私のために頼らせてくれてたんだよ」

「違う。僕は翠に頼られることでしか、じぶんの価値を見いだせなかったんだ。翠がいなきゃ、僕は生きる意味さえ分からないんだよ」

 どんな記憶の中にも、僕のとなりには必ず翠がいる。翠がいない過去はない。翠がいない未来なんて、考えられない。それなのに、翠がいない現実なんて、どうして耐えられようか。

 翠は困ったように頬をかく。

「生きる意味が分からないなら……探そう? たくさんのひとと話して」

 翠の視線は、まっすぐ僕だけを捉えている。翠のこんな表情を見るのは、初めてのことだった。

 なにも答えられないでいると、翠が続けた。

「私たちはたぶん、他人と関わってしか、じぶんを認める方法はないんだと思う。みんなじぶんがきらいで……生きる意味が分からないから、ひとと関わって変わっていくんじゃないかな」

 他人と過ごすのはリスキーだよ。たくさん傷付けられるし、比較するたび、たくさん落ち込む。

 ……でもたぶん、それが自立するってことなんだよ。と、翠はひっそりとした静かな口調で言う。

「……僕は、翠がいればなんにもいらない」

 駄々をこねるように言うと、翠は申し訳なさそうに目を伏せた。

「……ごめんね。私が翔をひとりぼっちにさせちゃってたんだよね」

「違う……」

「翔は今まで、私のために頼れるいい子を頑張り過ぎてたんだ。これからはもう、辛いときは辛い、悲しいときは悲しいって言っていいんだよ。塞ぎ込まないで、もっと感情を出して。翔の心は今、すごく悲鳴を上げてる。泣き叫んでるよ。これ以上我慢したら、きっと心が壊れちゃう」

 なにも知らないはずなのに、どうしてこんなことを言うのだろう。

 両目から、涙がとめどなく溢れ出してくる。声を詰まらせながら、僕は翠をじっと見つめた。

「翔、今までたくさんありがとう」

「……なんで、君がそれを言うの」

 本当は、僕のほうがこれまでの『ありがとう』を伝えるつもりだったのに。

 翠はふっと笑って、僕の頭を優しく撫でた。

「……翔、そろそろ帰ろ。私、もうすぐ受験だし、早く寝ないと」

 どうせ、翠は受験しても未来はない。だから、引き止めればいい。それなのに、それができない。

 翠のしっとりとした笑顔に、あぁ、と気付く。

 死んでいたのは、僕のほうだった。翠が死んだあの日、僕の心も一緒に死んでいたのだ。

 僕の心が死んでいることに気付いて、翠は必死に生き返らせようとしていたのだ。

 翠の細く長い指先が、僕の頬をそっと撫でる。その指先はあたたかく、同時に少しだけ震えていた。

 触れる体温の心地良さに、僕は静かに目を伏せる。

 指先から命が吹き込まれていくようで、彼女の思いが伝わってくるようで、胸がいっぱいになる。

「……ねぇ、翠。ひとつだけ聞いてもいい?」

「なに?」

 振り返った翠に、僕は訊ねる。

「……僕のこと、どう思ってた?」

 罪悪感からか、僕はこれまで一度も翠の本音を聞いたことがなかった。

 それを今、ようやく……。

 僕の問いに、翠はほんの少し驚いたような顔をした。そして、ふっと息を漏らすと、

「……世界で一番、大好きに決まってるじゃん」

 涙が溢れる。

「……僕も、世界で一番君が好き」

 全身にあたたかい水が満ちていくようだった。

「私たち、とことん似たもの同士だ」

「……うん」

 目を見つめ、微笑み合う。

「じゃあ、帰ろっか」

「うん」

 夜明けまであと少し。

 目の前には、あの日の分かれ道。

 僕が翠といられる時間は、もう……ない。

 交差点で、向かい合う。

「じゃあ」

「うん。次に会うのは、新学期だね」

 かつてとはまったく違う別れかたになる。

 もう二度と、翠と会うことはできない。そんな未来を、今の僕は知っている。

 翠が僕に背を向ける。

「翠っ!」

 たまらず僕は、翠の背中に叫んだ。翠が振り向く。

「あの、さ。もし……もし、生まれ変わったら、また僕と、巡り会ってくれる?」

「えー、どうしよっかな」

「えっ、ひどっ」

 冗談ぽく、翠が笑う。

「それなら、またひとりぼっちの私を見つけてよ。翔が私を見つけられたら、付き合ってあげてもいいよ」

 最後まで翠らしい答えに、僕は思わず声を出して笑った。

「強気だな」

「当たり前じゃん」

 覚悟を決め、翠を見る。

 涙で滲む視界を、何度も手のひらで拭った。

 翠が手を振り、背中を向け去っていく。その背中に、叫んだ。

「翠っ!」

 翠が振り向く。

「なーに?」

「大学! 絶対合格して、一緒に行こうな」

 翠の顔にみるみる笑顔が広がっていく。

「うんっ! 約束ね! またね!」

 僕たちはあの交差点で、翠と別れた。



 ***



 気が付くと、僕は翠が亡くなった場所――交差点の真ん中にいた。空には既に太陽が昇り、周囲にはたくさんのひとがいる。

 みんな、交差点の真ん中で立ち尽くす僕を不審そうに見ながらも、そのまま追い抜かしていく。

 両目から、ぽろぽろと涙が溢れてくる。

 目の前に、現実が落ちている。翠がいない現実を、今になってようやく実感したような気分になった。 

 事故から一ヶ月。翠の葬儀はとっくに終わって、翠がいない毎日を三十回も繰り返した。

 毎朝目を覚ますたびに現実を思い出して、泣いた。それでも、ずっとそうしてはいられないと、必死に受け入れなきゃと心に言い聞かせて、花を供えに来た。

 美空さんの提案に乗ったのは僕だ。

 過去をやり直すんじゃなくて、伝えそびれてしまった『ごめん』を、今までの『ありがとう』を伝えるためにきた。

 ふぅ、と息を吐く。

 伝えたかったことは伝えられただろうか。頭が上手く回らない。

 後悔だらけだ。この先もきっと、後悔ばかりになるだろう。でも、これが今の僕の精一杯だった。

 空を見上げる。抜けるような高い青に、吸い込まれるような感覚になる。

 ぼんやりと空を見上げていると、視界に赤いなにかが過ぎった。

『おかえりなさい』

 目の前に、美空さんがいた。ハッとする。僕は美空さんに向き直ると、抱いていた疑問を訊ねた。

「……あの、ひとつ聞きたいことがあります」

『なに?』

 美空さんはゆっくりと瞬きをしている。「翠との会話の中で、以前と少しだけ違うやり取りになったところがありました。あれは、どういうことなんですか? 僕では未来を変えられないけれど、翠の行動次第では未来を変えることができるってこと? それなら翠は……」

 矢継ぎ早に訊ねる僕に、美空さんは静かに首を横に振った。

『言ったでしょ。彼女が死んだ現実は、なにがあっても変わらない』

「……そうですか」

 覚悟はしていたけれど、やっぱり押し潰されそうに胸が痛い。

『でも、あなたが会った彼女は、かつての彼女とは違う』

「……どういうことですか?」

『あなたが今から過去に行ったように、彼女も死んだあと過去に戻ったということよ』

「え……?」

 どきりとした。

「じゃ、じゃあ、翠はもしかして……じぶんが死んだことを……」

『知っていたわ。その上で、あなたに会ったの。あなたにどうしても、『ありがとう』と『ごめんね』を伝えたいからって。……あのね、死んだ側にだって、伝えたいことがあるのよ。もしかしたら、残された側よりもあるかもしれない。だって、転んでも手を差し伸べることもできないし、ただ寄り添うことすら叶わない。じぶんのいない未来を生きていくのを見守るって、とてももどかしくて辛いことだから』

 それに、と美空さんはどこか遠くを見つめて言った。

『残されたひとたちはみんなじぶんの想いに囚われて、そのことに気が付かないのよね……』

 美空さんの言葉に、僕は愕然としていた。

 翠は、最初からぜんぶ知っていた?

 僕のおかしな行動にも、涙の理由を聞かなかったのも……。

『――私ね、ようやく気付いたんだ。私には私の人生があるように、翔にも翔の人生があるってこと』

『――翔がいれば友達なんていらないと思ってた。ずっとふたりだけでいられればいいって。……だけど、それじゃダメだよね。ふたりだけじゃ、私たちの世界はずっと小さいまま。ふたりだけの世界はすごく脆いから、些細なことで呆気なく崩れちゃう。もっとほかのひとの視点を知って、もっとほかの価値観の言葉をもらって、吸収していかないといけなかったんだ。翔はずっと、それを私に教えようとしてくれてたんだよね』

『ありがとう』

 あれは、あの言葉たちはぜんぶ……、僕のための言葉だったのだ。

 驚きで一度止まったはずの涙が、再び溢れ出してくる。

 息が詰まり、思わずうずくまったそのとき。

「あのー……」ふと、声をかけられた。振り向くと、四十代くらいの女性と幼い男の子がいた。手には、かすみ草の花束を持っている。

「……はい?」

 女性は申し訳なさそうに眉を下げて訊いてくる。

「もしかして、この前の事故で亡くなった板垣翠さんのご家族ですか?」

「……いえ、翠は……僕の、恋人でした」

 言葉をつまらせながら答えると、女性は傍らの小さな男の子を抱き締め、深々と頭を下げた。そして、名前を笠井かさい美奈子みなこと申します、と名乗った。

「ごめんなさい。翠さんは、私とこの子を助けてくださったんです。そのせいで、亡くなりました。私たちを助けなければ、彼女が暴走車に巻き込まれることはなかったんです。本当に、なんと言ったらいいか……」

 彼女と男の子は、翠が助けたひとたちだった。

「……そう、でしたか」

 立ち上がり、女性を見る。

「本当に、申し訳ありませんでした」

「……翠が死んだのは、あなたのせいじゃありません。だから、顔を上げてください」

 女性が顔を上げる。僕は、そのまま傍らの男の子に視線を流した。

「君のせいでもないよ。だから、なにも気にしないで。そんな顔をしなくていいから」

 女性は静かに頭を下げて、語り出した。

「実は、この子の父親は、かつて前妻との子を事故で亡くしているんです。私たちが事故に遭ったとき、夫は顔を真っ青にして病院に駆け込んできました。……きっと、前の奥さんと――美空ちゃんを亡くしたときのことを思い出しちゃったんでしょうね。翠さんにお礼がしたいと、何度も言って」

「――え?」

 聞き覚えのある名前に、耳を疑う。

「あの……今、美空って言いました? その亡くなったお嬢さん、美空さんって言うんですか」

「えぇ。夫の連れ子でした。美空ちゃんも、ここで運悪く車に轢かれてしまって……私は写真でしか会ったことないけれど、とても綺麗なお嬢さんなんです。あの日も、月命日だったので花を手向けに。それで、事故に」

「……そう、だったんですか……」

 その後、美奈子さんは丁寧にお礼を言って男の子と帰って行った。

 僕はその場で、呆然と立ち尽くした。

 美空さんは、神様じゃなかった……?

 彼女もまた、この場所で命を落とした被害者だったのだ。

 じゃあ、今回の件は。

「自分の家族を守ってくれた翠への、恩返し――とか?」

 ……考えすぎかもしれない。

 そもそも、彼女の言う美空さんと、あの美空さんが同一人物かも分からない。

 記憶の端で、赤いマフラーが揺れている。

 顔を上げると、晴れやかな空が広がっていた。

 ……彼女はいったい、何者だったのだろう。

 分からないけれど、

「……嘘つき」

 であることだけは、間違いなさそうだ。

 だって、僕はてっきり、過去の翠に会っていると思っていたのに。教えてくれたってよかったのに。

 ……まぁ、確信をつく言葉を言っていなかっただけと言われたらそれまでだけど。

 ……でも。

『私は、美空。この神社の神様』

 ……こんな嘘、ふつうは付けない。

 じぶんを、『神様』だなんて。

 思わず笑みを漏らし、空を仰ぐ。

「……でも、ありがとう」

 それから、

「ごめんなさい」

 神社で初めて会ったとき、僕は彼女にひどい言葉をぶつけてしまった。

『くそったれ』

 美空さんに詰め寄ったとき、彼女は言った。

『ごめんなさい』と。

 あれはきっと、心からの言葉だったと思う。

 きっと彼女にも大切なひとがいて、伝えそびれてしまったことがあったのだ。

 その想いがあったから、僕の前に現れてくれた。

 チカチカと、信号が点滅する。

 僕は少し早足で横断歩道を渡り切った。

 すぐとなりの歩道用信号機の下には、たくさんのお供えものがある。これはきっと、翠だけではなく美空さんへ送られたものも混じっているのだろう。

「……また、花束買ってこなくちゃな」

 その場で立ち止まって、彼女に手を合わせる。

「ふたりとも、どうか安らかに」

 今日、ここに翠はいない。それでも変わらず、季節は巡る。けれど、君が託し、信じてくれた未来を、僕は生きなければならない。

「また来るね」と呟いて、歩き出す。

 頬を撫でていく風に、僕は小さく笑みを漏らした。

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