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最終話

 梅の木と、藤原くんと、スケッチブック。

 その日から私は、藤原くんを見つけると自然と目で追いかけるようになった。

 藤原くんが梅の木の下でスケッチをしていると、私のほうから声をかけるようになった。

 たまにお昼を一緒に食べたり、美術展や美術館巡りに誘ったりした。

 ある日藤原くんは、彼がいつも描いているスケッチブックのなかの女性について話してくれた。

 その女性は冬野美月さんといって、藤原くんの高校の古典教師だったという。

 担任だったわけではないけれど、進路についてよく相談に乗ってもらっていたらしく、卒業式の日に藤原くんのほうから友達になってほしいと頼み込み、今も交流しているのだとか。

 冬野先生の話をしているときの藤原くんは、いつも慈しみに溢れた表情をしていた。

 その顔を見て、直感的に気付いた。

 友達とは言っているけれど、きっと藤原くんのなかでは、それ以上の想いがあるのだろう。

 告白しちゃえばよかったのに。

 卒業してから付き合う教師と元生徒なんていくらでもいるのに。

 そう思ったけれど、口には出せなかった。

 きっと、藤原くんはじぶんの体裁を考えているとかではなくて、ただ相手のことを思って今の関係を選んでいるのだと思ったから。

 風がさわさわと吹いた。

 柔らかな陽のなかで、藤原くんは冬野さんの話を続けてくれる。

 藤原くんの思い出話を聞いてみると、冬野先生は、私が想像していた女性像とぜんぜん違っていて驚いた。

 煙草が好きで、教師だというのにいつもサボることばかり考えていたという。時には喫煙場所に困って木の上で煙草を吹かしていたこともあったとか。

 威厳もないし、威張りもしないし、ぜんぜん先生らしくないけれど……だけど、ときどきハッとする言葉をくれるひとだった、と藤原くんはとても懐かしそうに話してくれた。

 意外だった。藤原くんのスケッチブックに描かれた冬野先生は品があって、穏やかな雰囲気をまとっていたから。

「元気なひと……っていうよりは、飄々とした感じだったかな。掴みどころがないっていうか……普段は子供っぽいのに、話してみるとびっくりするくらい大人だったりして」

 藤原くんは、青空にぽっかりと浮かんだ雲を見上げて、そう呟いた。

 今、冬野先生は近くの大学病院に入院しているらしい。

 なんの病気かは聞いていないので分からないが、おそらく治らないものだろうと思うと、藤原くんは静かな声で言った。

「……そっか。辛いね」

 好きなひとに好きと言えないことも、好きなひとが病に苦しんでいる事実も。

 じぶんにはなにもできないからこそ、藤原くんの立場を考えたら、とても歯痒いだろうと思う。

「でも、出会えてなかったらって思うと、そっちのほうが怖いよ」

 弱っていく姿を見るのは辛いけれど、と藤原くんは言う。

「きっと、冬野さんに出会ってなかったら、僕は今ここにいなかったと思うし、君とこうして出会うこともなかったと思う」

 今の僕は、間違いなく冬野さんの言葉に生かされているんだ――と。

 その後、藤原くんと冬野さんがどうなったのかは私は知らない。

 藤原くんは卒業して数年後、海外に留学したと聞いた。最初こそメッセージのやりとりもしたけれど、就職だのなんだので忙しくしていて、いつの間にか疎遠になっていった。

 大学を卒業して、三十年。

 私は、大学を卒業したあとは地元の新聞社に入社し、その後職場の同僚と結婚。

 ふたりの子宝にも恵まれ、しばらくは子育てに奮闘する毎日を送っていた。

 今年子供が大学に進学し、夫婦ふたりきりの穏やかな生活が戻ってきた。

 時間に余裕ができ、もう一度絵を描いてみようかと思い始めたとき、ふと彼のことを思い出した。

 調べてみると、藤原くんは既に全国の美術館に複数の作品が展示されるほど名の知れた画家になっていた。

 そして先日、藤原くんが個展を開くとの情報を得た。

 かれこれ三十年近く会っていない友人の名前が載ったチラシを見て、久しぶりに胸がときめいた。

 あの頃と作風は変わっているのだろうか。

 藤原くんは、私のことを覚えているだろうか。

 個展に行くのが楽しみになった。

 ――けれど、彼との再会は叶わなかった。

 個展が開催される直前、藤原くんは急な病で亡くなってしまったのだ。

 今度個展に顔を出すよ。よかったらお茶でもしよう、と送った私のメッセージは、どうやら間に合わなかったらしい。

 後日、彼のマネージャーを名乗る人物から、訃報を知らせるメッセージとともに丁寧な謝罪文が返ってきた。

 それから、個展は予定通り開催されるということも。

 私は藤原くんの最後の作品を見に、東京まで足を運んだ。

 会場は真っ白な箱のような空間で、どこか病室のような無機質な世界を連想させた。

 けれど、冷たい印象はない。天井から淡い色合いの布地がいくつも垂らされていて、やわらかに演出された風にはためいている。彼らしい優しい演出が施された会場だった。

「来てくださったんですね、大江さん」

「あ……こんにちは」

 受付で名前を記入してから中へ入ると、すぐに藤原くんのマネージャーの男性が声をかけてきてくれた。メッセージで数回やりとりしただけなのに、丁寧な方だ。

 どことなく、雰囲気が藤原くんに似ている気がしないでもない。

「藤原も喜んでますよ。たまにあなたの話をしてましたから」

「えっ、藤原くんが?」

「えぇ。大学時代に、縁があって素敵なひとと友達になったと。藤原は、縁をとても大切にするひとでしたから、疎遠になってしまったことを少し寂しそうにしておりました」

「……そうですか」

 藤原くんが愛していた彼女――冬野さんは、私たちが大学を卒業して二年後の春に亡くなったらしい。

 藤原くんは一度高校の美術教師になったものの、冬野さんが亡くなった翌年、海外へ留学して絵の勉強をしていたそうだ。

 淡い世界に並ぶ彼の作品を見ていたら、彼のどこか憂いのある横顔や、彼がくれた言葉が蘇ってきた。

『――今の僕は、間違いなく冬野さんの言葉に生かされているんだ』

 かつて、藤原くんはそう言っていた。

 ……私もだ。私の心のなかでは、今でも藤原くんの言葉が生きている。あのときの彼は、こんな気持ちだったのか……。

 思わず胸を押さえた。

 そして、彼が亡くなる直前まで描いていたという作品の前で、足を止める。

 たくさんの作品の中、彼が最後に世に残した絵は、やっぱり彼女を描いたものだった。

 作品タイトルは、『優しい世界』。

 柔らかな陽だまりが落ちた、学校の中庭。

 一本の梅の木のそばに、セーラー服の美しい少女が佇んでいる。少女のまわりにはうさぎや鶴やカメ、猫や馬など、たくさんの動物たちや植物が描かれていた。

 そして、少女の肩には可愛らしい小鳥が一羽、とまっていた。

 穏やかな表情で、少女は小鳥を愛でている。

 まるで、孤独を怖がる少女に世界が寄り添うように。動物たちはすべて、藤原くんの分身のような気がした。

 少女を守り、あたため、癒す世界そのものがそこにある。

「……素敵」

 堪えていないと、涙が出そうになってくる。

「個展のタイトルを『亡き友達へ捧ぐ』にすると藤原が言ったとき、もしかしたらこれを最後の作品にする気なのかなと思ったんです。……結局そのとおりになってしまって……残念です」

 そう言ってマネージャーさんは、心底残念そうに目を伏せた。

「……そうですね。でも、そろそろ彼女に会いたくて我慢ができなかったのかもしれません」

 そうであってほしいと思いながら呟くと、マネージャーさんは一度きょとんとした顔をしてから、ふっと気が抜けたように笑った。

「……そっか。そういう考え方もありますね。なるほど、やっぱり大江さんは藤原の言うとおり面白い方だ」

「え?」

「藤原が昔よく言ってたんですよ。大江さんという、臆病なようでいて、とても素直で大胆な考え方の友達がいるって」

 その言葉に感極まって、私は気付いたら涙を流していた。

「……これからふたりは、今度こそなににも隔てられることなく、ずっと一緒にいられると思います」

 そうであってほしい。この世界にいたときより、ずっと永く。

 そっと、作品に話しかける。

 ――藤原くん、あなたは。

 最後まで『友達』という言葉で、彼女を愛し続けたんだね。

 彼女亡きあとも、想いを絵に込め続けて……何十年も。

『友達』

 このたった二文字に、どれだけの想いが詰まっているのだろう……。

 私は、なんて幸せだったんだろう。好きなひとと出会って、好きなひとと一緒になれて、子供にまで恵まれて。

 ……今日、なにか旦那さんにプレゼントでも買っていこうかな、なんて考える。

 私は今、当たり前のように好きなひとのとなりにいる。

 けれど、これってとても、尊いものなんだよね。

 すべては、君がここまで純粋な『愛』というものを、私に教えてくれたから気付けたことだ。

 帰り道、夕陽を眺めていたら、なぜか感極まって涙が出てきてしまった。

「……ありがとう、藤原くん」

 私、忘れないよ。藤原くんのことも、藤原くんが愛した彼女のことも。

「……お疲れさま」

 次また会うときは、あなたの最愛の友達と一緒に、三人でお茶がしたいです。



 ***



 ――来ぬひとをまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ

 ――松帆の浦の夕なぎの時に焼いている藻塩のように、私の身は来てはくれないひとを想って、恋い焦がれているのです――。

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