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第6話


 ――時鳥ほととぎすそのかみやまの旅枕ほの語らひし空ぞ忘れぬ

 ―― ほととぎすよ。その昔、神の館に旅寝したとき、ほのかに語りかけてきたほととぎすよ。あの空の景色を私は今も忘れないよ。

 ***

 大学当時、私には気になっていたひとがいた。

 同じ大学で、日本画を専攻していた藤原晴くんという男の子だ。

 藤原くんは積極的にクラスメイトと交流をとるようなタイプではなく、いつもひとりでいた。

 私もわざわざ用もないのに異性にじぶんから話しかけるタイプではなかったから、同じ専攻でも話したことはなかった。

 彼はあまりひとと群れないタイプだったけれど、その作品はいつも注目されていた。

 彼の作品は風景であれ、ものを描いたものであれ、際立って繊細で、どこか哀愁を帯びていて、それでいてとても美しかった。

 そんな藤原くんと知り合ったのは、二年の秋だった。

 きっかけは、友人がセッティングした合コンだった。大学で知り合った友人はみんな社交的な子たちばかりで、毎週のように合コンやらカラオケやら華やかな予定を立てていた。

 高校時代、大人しいタイプの子たちとばかり一緒にいた私はそういった場に慣れていなくて、何度か付き合いで行ったけれど、やっぱり好きにはなれなかった。

「――ねぇ百音もね、金曜の夜空いてるよね?」

「え?」

 いつものように大学の食堂でランチをしていると、一緒に食べていた友人が訊ねてきた。

「前言ってた合コンの話だよ!」

「あ……えっと……」

 どうしよう。できれば行きたくない。けれど、咄嗟に言葉が出てこない。断るタイミングを完全に逃し、曖昧に笑って誤魔化す。

「私、今回こそは彼氏ゲットするんだから! ねぇ、百音も彼氏ほしいでしょ?」

「え? あ……えっと、私は、まぁ……」

 べつに、ほしくない。今は絵を描くことに集中したいし、バイトもしているから、正直恋をする余裕なんてない。

「百音可愛いし、ちゃんと話せばきっと男ウケいいんだから!」

「でも私、初対面のひとと話すの苦手だし……」

「数こなせば慣れるよ!」

「……そ、そうかな」

 ダメだ。逃げ場がない。

 頑張って行くしかないか……。

 まぁこれもひと付き合いの一部だし、仕方ない……そう、諦めかけていたそのとき。

大江おおえさん、合コンきらいなんじゃないかな」

 すっと、雲の切れ間から差し込んだ陽光のように、静かな声が落ちてきた。

 顔を上げると、私と椅子をふたつ開けて座り、カツ丼を食べる藤原くんがいた。

 友人は、話したことのない藤原くんに突然話しかけられてきょとんとしている。

「合コンの話。大江さん、あんまり乗り気そうには見えないけど」

「――え、百音、そうなの?」

「えっ!?」

 視線を向けられ、ひやりとする。

 どうしよう、なんて返せばいいんだろう。もし本音を言ったら、この子をいやな気分にさせてしまうのではないか。もし合コンを断ったら、きらわれてしまうのではないか。

 いろんな想像が巡り、頭が真っ白になった。

「百音?」

「あ……えっと、うん……ごめんね。本当は、ちょっと苦手かも……しれない」

 しりすぼみになりながら、私はようやく本音を打ち明ける。黙り込んだ友人の表情に、やってしまったと私は息を詰め、慌てて弁明した。

「で、でもべつに、合コンがいやだから一緒にいたくないとかそういうわけじゃなくて、一緒にいるのはすごく楽しくて」

「なぁんだ! それならそうと早く言ってよ! ごめんね、しつこく誘っちゃって」

「え……あ、うん……ごめん」

「じゃあ次は合コンじゃなくて、映画でも行く?」

「え……いいの?」

「もちろん!」

 私の予想に反して、友人は気を悪くしたふうもなくあっけらかんとして言った。拍子抜けしつつ、私は藤原くんを振り返る。――が、彼はもう廊下のずっと先を歩いていた。

 後日、私は大学に行くと、真っ先に中庭に向かっていた。

 藤原くんに、先日のお礼をしようと思ったのだ。

 藤原くんのおかげで、あれ以来友人は私を合コンや騒がしい場所へ誘ってくることはなくなった。だからといって私を仲間はずれにするようなこともなく、一緒に映画や絵画展に行ったりと、現在も良好な友人関係を築けている。

 中庭の梅の木に寄りかかり、スケッチブックを広げる藤原くんの姿を見つける。

 よくこの場所で藤原くんがスケッチしているところを見ていたから、たぶんここだろうと思っていたのだ。 

 いつも同じ梅の木の下で、熱心になにを描いているのだろうと気になっていた。

 私は藤原くんに声をかける前に、こっそり背後からスケッチブックを覗いた。

 そこには、きれいな女性が水彩で描かれていた。

 髪が長くて、黒々とした瞳が印象的な女性だ。歳は三十代くらいだろうか。

 どのページにも、梅の木の下でうたた寝をしたり、花を眺める同じ女性が描かれている。

 空、花、風……すべて淡い色使いで、中心にいる彼女を包み込むように優しいタッチで描かれていた。

「きれい……」

 これは、だれなんだろう……。 

 実在するひとなのだろうか。同級生ではなさそうだけれど……。

 絵の中の女性は美しいけれどどこか儚げな印象で、目を離したら消えてしまいそうな不安感がある。

 不意に、藤原くんが振り返った。

「……え、あれ、大江さん?」

 藤原くんが驚いた顔をして私を見る。思いのほかその距離が近くて、私は慌てて一歩後退った。

「あ……ご、ごめんなさい。勝手に見て」

「いや、いいけど……どうしたの?」

 藤原くんは穏やかに微笑み、スケッチブックを木の根元に置いた。

「えっと……この前の、お礼をしようと思って。これ、ドーナツ。よかったらどうぞ」

「お礼? ……えっと、僕、なんかしたっけ?」

 藤原くんは私が差し出したドーナツの紙袋を見て、不思議そうに首を傾げている。

 どうやら本当に心当たりがないらしい。私にとって大きなできごとだったばっかりに、その反応は少しショックだった。

「あの、この前の合コンの話……断り切れなかったとき、助け舟出してくれたでしょ」

「あぁ……あれね。勝手に口出しして悪かったなって思ってたんだけど、大丈夫だった?」

 藤原くんはようやく思い出したのか、表情を崩して私を見た。

「悪くなんて、ぜんぜん。すごく助かった。ありがとう」

「いいよ。僕、お礼を言われるようなことはなにもしてないし。むしろ、悪いことしたなってずっと思ってたんだ」

「え……どうして?」

「僕、あの場の空気ぶち壊しちゃったでしょ。変な空気にしちゃったし」

「そんなことないよ」

 たしかに最初は焦ったけれど。でも、結果的にはすごく助かった。

「……正直、君が置かれてる立場も知らないのに口出ししたことはちょっと後悔してた。……でも、苦手なこととかいやなことは、ちゃんと主張したほうがいいよ。友達同士なら、なおさら」

 藤原くんは申し訳なさそうにしながら、でもまっすぐに私を見てそう言った。その言葉に、私は頷く。

「……うん。私もそう思う。でも、嫌われたらって思うと怖くて……」

「あぁ……うん。その気持ちは、僕もよく分かるよ」

「……藤原くんも?」

「うん。僕も高校時代は否定されるのが怖くて、だれにも本音を言えなかったから。否定されるかもしれないって、勝手に相手の反応を想像して。でも、それは勘違いだってあるひとが教えてくれたんだ」

「勘違い……?」

「理解されないことは、自分自身を否定されたことなんだって、ずっとそう思ってた。でも、違うんだ。好きなものが違うのは当たり前。みんな、それぞれ違う人生を歩いてきたんだから……って」

 どんなことを思っていたとしても、黙っていたらだれも分かってはくれない。

 想いは、言葉にして初めて伝わるものだ、と、藤原くんはどこか遠くを見つめながら呟いた。

「だからね、君が想いを口にしたとして、それを受け入れてもらえなかったからってその子が大江さんを否定したってことにはならない。その子とはただ、ちょっと好きなものが違っただけ。ほかの『同じ』を探せばいいんだって」

 受け売りだけどね、と言って、藤原くんは柔らかく笑った。

「そっか……うん、たしかにそうだね」

 納得し、頷きながらちらりと藤原くんを見る。藤原くんはほんの少し口元を緩ませて、再びスケッチブックを取ると、筆を走らせ始めた。

「あ、あのね、私、嬉しかったよ。私の本音を、藤原くんが代わりに言ってくれて」

 すると藤原くんは驚いたように顔を上げた。私は、慌てて目を逸らす。

「その……これが、私の本音……です」

「そっか。じゃあ、よかった」

 柔らかい声に、胸がどきんと大きく弾んだ。

 たぶん、藤原くんがあのとき口を出してくれなかったら、私は今も合コンにいやいや付き合っていただろう。

 それで、影で文句や不満を言ったりして。

 本人にはなにも言えないまま、影で文句を垂れるなんて、そんなじぶんはいやだ。だから、私は藤原くんに結果がどうこうじゃなく、感謝している。

「……あ、それ、すごくいい絵だね」

 藤原くんが振り向く。

「本当?」

「うん。私、好き。夕陽の柔らかい感じとか、特に」

「……そっか。ありがとう」

 そのどこか悲しげな横顔は、どうしてか私の胸に焼き付いた。


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