――玉の緒よ 絶えなば絶えね 長らえば 忍ぶることの 弱りもぞする
――私の魂よ、いっそ今すぐ絶えてしまえ。このまま生きていたら、あのひとへの恋心を隠し切れなくなってしまうから。
***
ときどき思う。
もし、彼が生徒じゃなかったら……と。
もし教師と生徒じゃなかったら、私たちはどんな関係になっていただろう。
もし、違うかたちで出会っていたら、私たちは――。
なんて、くだらないことを考えるようになったのは、歳をとった証拠だろうか。
四角い箱の向こう側を見る。
教師をしていた頃は、窓の外を見るのが日課だった。窓の向こうには、決まって梅の木とあの子の姿があったから。
今、私の目の前には、なんとも殺風景な乾いた庭が広がっている。
入院して、三ヶ月。
私の世界は、白い箱の中で完結している。
学生の頃から、きっと近い将来こうなるのだろうなとは覚悟していたけれど。
いざそのときになると、案外呆気ないもんだなぁと思った。
ひとりごちながら、点滴の薬液が私の身体に入っていく様子を眺めていると、こんこんと扉が鳴った。
「冬野さん、こんにちは」
顔を出したのは、かつての教え子であり、今は唯一無二の友達である藤原晴くんだった。
「いらっしゃい、藤原くん」
微笑んで迎えると、藤原くんは少し緊張した面持ちでそろそろと病室に入ってきた。
「調子はどうですか?」
「うん、元気だよ」
藤原くんは、口下手で不器用で、とても優しい元生徒。
藤原くんが、学生の頃から私を好いてくれていることには気付いていた。
でも、告白はされていない。
その代わり――。
『友達になってください』
卒業式のあと、唐突にそう言われて驚いた。
あの言葉に、私は救われたような気がする。
もしあのとき、藤原くんに告白されていたら、今頃私たちがこうして会うことはなかっただろう。
私は今頃、ひとりで死を待っていただろう。
教師と生徒ではなくなってから、私たちは友達という間柄になった。
元気だった頃は外でお茶をしたりしていたのだが、私が病に倒れてからは、そんなこともできなくなって一時はメッセージのみのやりとりになった。
それから、控えめにお見舞いに来たいと言われて、病院の住所を伝えると、その日のうちに会いに来てくれた。
今でも、藤原くんは毎週のように私に会いに来てくれる。
「これ、新作です」
こうして、一枚の絵をお土産に。
「……わぁ。これってもしかして、渡月橋?」
藤原くんが見せてくれたのは、紅葉に彩られた渡月橋の絵。
葉脈や川の流れまで描かれた繊細なタッチは、ため息が出るほど優雅に描かれていた。
「冬野さん、前に京都行きたいって言ってたから」
「うん、よく覚えてたね。というか藤原くん、風景苦手なのにすごい。上達したね」
「まだまだです。やっぱり実際にあるものを描くのは難しいです。いい勉強になりましたけど……あ、それからこれ、お土産です」と、藤原くんは私に和柄のハンカチをくれた。
私が入院してから、藤原くんは一度も私に病の話をしない。するのはいつも大学の話や絵の話ばかりだった。
彼なりに気を遣ってくれているのだろうと思う。
私が入院してから、藤原くんはよく旅行へ行くようになった。そして、赴いた各地の絵を描いては、私に描いた絵をプレゼントしてくれる。
「いつもありがとね」
「……いえ。僕、センスとかないからこんなものしかあげられなくてすみません」
「なに言ってるの。これは私の宝物だよ」
これまで藤原くんからもらった絵は、すべて病室の壁に飾っている。入院当時は殺風景だった病室が、今ではとてもカラフルに色付いている。
君に出会えてよかった。
心からそう思う。
この恋が、たとえ身を結ばないものだとしても。
「……冬野さん?」
「……私ね、ずっと分からなかったんだ。生きてる意味……みたいなものが」
いきなり胸の内を漏らした私に、藤原くんは戸惑った顔をしながらも、静かに耳を傾けてくれる。
「昔から持病持ちで……いつか、そう遠くない未来にこうやって死ぬってことが分かってたから。夢なんて一度も持ったことなかったし、すべてに無気力だった」
幼い頃から血糖異常を抱えていた私は、高校生のときに糖尿病を発症した。
それからは、夢なんて持つ余裕はなかった。
制限ばかりの人生のなか、惰性で大学へ行って、なんとなく資格を取って高校教師になって。でも、県職の試験は落ちて、非常勤講師になった。
どうせ長くないのだからと、無茶することも増えた。
煙草を吸い始めたのは、軽いストレス発散のつもりだったと思う。
すぐに主治医にバレてやめたが。
余った煙草を持て余し、中庭でただ火をつけて煙を眺めていたとき、君がやってきた。
藤原くんの存在自体は知っていた。国語準備室の窓から、よくスケッチしているところを見かけていたから。
私にとって藤原くんは、一生徒に過ぎなかった。
だけど、いつも熱心にスケッチブックと向き合っていたから、それが気になっていたのも事実で。
こっそり彼の絵を覗いた瞬間、私の世界は変わった。
藤原くんの絵は、生に溢れた絵だった。
特別に上手いわけじゃない。天才的なセンスがあるわけでもない。
高校三年生という節目に立つ彼の中には、さまざまな葛藤や不安が渦巻いているだろうに、彼の目はどこまでもまっすぐ、自由だった。
藤原くんは、だれよりがむしゃらに生きていた。
だから、彼にだけは腐ってほしくなくて、柄にもなく教師っぽいことをしてみたりして。
それなのに、救われたのは私のほうだった。
『大丈夫かって声をかけると思います』
『だれになにを言われても、描き続ける』
『厄介だけど……面白いです』
『冬野先生と僕もきっとぜんぜん違う考え方だけど、冬野先生の言葉で僕、だいぶ前向きになれました。だから、価値観が違うっていうのは案外、厄介なだけじゃないかもです。新しい価値観に出会えるってことでもあるから』
『友達になってもらえませんか――』
藤原くんは、私に新しい世界を見せてくれた。
私では絶対浮かばない言葉たちをくれた。
私すら捨てていた私の人生を、藤原くんが掬いあげてくれた。
「いつからか……藤原くん、私に絵をプレゼントしてくれるようになったでしょ?」
「……はい」
「藤原くんの絵をもらったとき……私、生きてるんだって初めて思えたんだよね」
そう言うと、藤原くんは戸惑ったような顔をした。
「学生の頃からずっと、深い人間関係を作らずに孤独に生きてきたから……私が死んでも、きっとだれも気付かないんだろうなって思ってた。だけど、君の絵を見て、気付いた」
私は生きている。この子のなかではたしかに、冬野美月という人間が息をしている。
私が死んだら、きっとこの子は泣いてくれる。悲しんでくれるだろう。
……やっと気付いた。
生きてる意味が分からないだとか、ひとりでいいやとか、強がりを散々言っておきながら、私は……ずっと、生きた証がほしかったのだ。
藤原くんの絵に、初めてじぶんの本心に気づかされた。
もっと生きていたい。もっと、藤原くんと話したい。もっと、藤原くんと……。
気が付いたら、涙が落ちていた。涙なんてもうずっと昔に枯れ果てたと思っていたのに、私の両目からは、心が震えた証が次から次へと溢れてくる。
「……ごめんね、いきなり。でも伝えたかったんだ。私は、君の価値観に救われた。君のおかげで、ちゃんと生きられたよって」
さすがの藤原くんも、私の涙に驚いたような顔をして固まっていた。
私は笑って涙を拭いながら、
「私、藤原くんが描く絵が世界でいちばん好きだよ」
そう言うと、藤原くんは顔を真っ赤にした。相変わらず分かりやすいなぁなんて思いながらも、少し寂しい気分になる。
私がいなくなったら、このひとはべつのひとにこういう顔を見せるのだろうか、と。
そうであってほしいと思いながらも、生涯私だけなんて都合のいいことが頭をよぎる。
結ばれたいなんて望んでない。
……でも、今だけは。
「……私だけの絵を描いてくれて、ありがとう。藤原晴くん」
「冬野さん……、僕」
覚悟を決めた顔をして口を開いた藤原くんを、私は首を振って静止する。
すると藤原くんは泣きそうな顔をして、唇を引き結ぶ。
「……すみません」
藤原くんが謝る必要なんてないのに……。
そう思いながらも、健気な姿に愛おしさを募らせる。
「想いは充分伝わってるよ。ありがとう」
「……はい」
ここまできても告わせない私は、鬼だろうか。
「……ごめんね」
謝ると、藤原くんは困ったように笑ってから、真剣な眼差しを向けてきた。
「……また描きます。今度は、もっといいものを。そうしたらまた、もらってくれますか?」
可愛いなぁと思いながら、乾いた指先でスケッチブックをなぞる。
「もちろん。楽しみに待ってるね」
私は、あとどれくらいこの子の絵を見ることができるんだろう。あとどれくらい、この子と言葉を交わせるんだろう。
先のことは分からないけれど、強く思った。
産まれてくることができて、この子と同じこの時代に生きていてよかった――。