それからも僕は、梅の木の下でスケッチを続けた。今はべつに、教室や家が息苦しいからではない。
親にはちゃんと理解してもらえたし、教室でも絵が好きということを隠すことはなくなった。みんなべつに興味を示さないけれど、否定もしない。
中庭に来るのはただ、冬野先生に会えるから。それだけ。
しばらくは冬野先生も僕に付き合ってちょこちょこ顔を出してくれていたけれど、二学期になるとぱったりと来なくなった。
なんでも、木に登って煙草を吸っていることが校長にバレて、中庭を出禁になってしまったらしい。
放課後、たまたま渡り廊下ですれ違ったとき、冬野先生はそう僕に愚痴を零して嘆いていた。
だからもう、ここに冬野先生が来ることはない。
でも、この中庭からは冬野先生がいる国語準備室が見える。
窓際の席の冬野先生は、たまに眠そうに、たまに真剣に、たまにほかの先生たちと笑ったりしながら仕事をしていた。
だから僕は、冬野先生が来なくなっても変わらずここでスケッチを続けている。
今の冬野先生は、少し遠い。
国語準備室のガラス窓には、たまに邪魔者が入ってくる。西陽が強い日なんて、光が反射して冬野先生の姿はぜんぜん見えない。
それでも、彼女の笑い声が風に乗って聞こえてくるだけで、僕の心は優しく、あたたかくなった。
たまに、冬野先生は僕に気付くと、窓を開けて声をかけてくれたり、飴をくれたりした。
冬野先生との何気ない会話や小さな贈り物は、僕の心の栄養となっていた。
冬野先生は僕よりずっと歳上で、自立していて、そしてとても美人だ。
僕にはとても手の届かないひと。
しかも教師だから、生徒である僕をそういう目では見てくれないだろう。
卒業してからも、僕たちの立ち位置は変わらないような気がした。
教師と生徒として出会ってしまった時点で、僕の恋は終わっていた。
恋人同士になることなんて望んでいない。
ただ、生徒でいる間だけは、だれより近くにいたかった。
それから半年。桜が舞う季節がやってきた。
あっという間に受験が終わり、卒業の日。式が終わって、僕は真っ先に冬野先生の姿を探す。
しかし、いない。国語準備室にも、中庭にも、屋上にも。
どこに行っているんだろう――と、屋上のフェンスから、街を見渡す。
蕾を付け始めた桜が風にそよぐ校庭。卒業生たちの華やかな声が響く校門。その先――。
ふと、見慣れたシルエットが視界に映った気がした。
「冬野先生!」
「おー卒業おめでとう」
どこにもいないと思ったら、冬野先生は学校の敷地外にあるコンビニで煙草を吸っていた。
華やかなスーツを気だるげに着崩して煙草を吹かすその姿は、とても教師とは思えない。まぁ、らしいといえばらしいが。
「そんなに慌ててどうしたの」
「どうしたのって……冬野先生を探してたんですよ。どこにもいないから」
「そうだったの? ごめんごめん。式が長くてニコチン不足で死にそうだったのよ」
「このニコチン中毒め……卒業式の日くらい、先生らしくしてくださいよ」
「ははっ。無茶言うな〜」
冬野先生は笑いながら煙草を消して、僕に向き合う。
「それで、どうしたの」
向かい合い、目が合うと心臓が大きく跳ねた。
「あ、あの……冬野先生にお願いがあって」
「お願い?」
「……僕、今日で高校を卒業しました」
「うん、おめでとう?」
「学生の期間はまだまだ続くけど……えっと、でももう僕は、先生の生徒ではなくなります」
「そうだね?」
「だから、友達になってもらえませんか」
僕の渾身の告白に、冬野先生は一瞬きょとんとしたあと、どっと声を上げて笑った。それはもう、周囲のひとたちが驚いて振り返るくらいに。
「ちょっ、笑わないでくださいよ! こっちは真剣に……」
「ごめんごめん。いやぁ、なんていうか、予想の斜め上だったからさ」
冬野先生はそう言って、目元を拭いながら僕を宥めた。涙を指の腹で拭い切ると、晴れやかな顔をして言った。
「いいよ。友達になろっか、藤原くん」
こうして僕たちは、『教師と生徒』から、新たに『友達』になった。
***
――わすれては、
――この長い月日の間、“片思い”と気付いては嘆く夕べだった。あのひとが私の気持ちなど知らないということを忘れてしまうくらい、私はあなたのことを好きでたまらない。
***
別れの季節の象徴である桜が散り、僕は晴れて美大生になった。
ひとり暮らしを始めた僕は、新たな学び舎で、新たな同級生たちと絵の勉強をしている。
大学は高校よりずっと自由だと聞いていたけれど、案外忙しかった。けれど、今はそれが楽しくてたまらない。
そんななかでも、僕と冬野先生の交流は続いている。
卒業式の日に連絡先を交換した僕たちは、メッセージでやりとりをするようになった。
それから、月に一回お茶に行く約束をした。
そこでお互いの近況を話し合い、ときに相談する。
高校のときは毎日どこかで顔を合わせていたから、離れたらどうなるのだろう。この気持ちもいつか醒めて、べつの(たとえば同じ美大の)女の子を好きになったりするんだろうかなんて思ったりもしたけれど。
離れてみると、会うたび新たな発見がいろいろとあって、むしろもっと想いが募っていった。
冬野さんは、美人だ。
美大やアルバイト先でたくさんの女性と接する機会が増えて、気付いた。
真っ白な雪のような肌と対照的に、漆黒の長い髪。りんごのように赤い唇はつやつやしていて、煙草を持つ指先は、触れたら壊れてしまいそうなほど細い。
「なぁに、じっと見て」
「あ、い、いえ……」
目を逸らす僕に、冬野さんは肩を揺らしながらひとつ咳をした。
「相変わらずだね、藤原くんは」
僕にとっては、もう冬野先生ではなく冬野さんとなっているのに、冬野さんのほうは僕に対しての態度はあまり変わらない。
相変わらず愛煙家だというのに、冬野さんがやってくると不思議と煙草の葉の香りではなくて、梅の花の香りがした。その香りを嗅ぐたびに、僕はあの中庭にいるような錯覚を覚えた。
「ねぇ、最近絵は描いてる?」
「はい、まぁ……大したやつじゃないですけど」と、僕はカバンを漁る。タブレットを取り出し、いちばん最近描いた絵のデータを見せた。
「わぁ。なにこれ可愛い。トイプー!?」
「はい。友人に頼まれて……この子たち、カップルなんだそうです」
「へぇー。そうなんだ」
冬野さんはタブレットをスライドさせながら、嬉しそうな笑みを含んで言った。
「……私、藤原くんが絵を描いてるの見るの、好きだったんだよね」
「……描いた絵じゃなくて、描いてるとこが好きなんですか?」
「描いた絵も好きだけどね……」と、冬野さんは僕が描いた絵を細い指先で優しくなぞる。
「ねぇ、藤原くん」
「あの、冬野さん」
お互いの名前が呼ばれたのは、ほぼ同時だった。
僕は息を詰め、冬野さんを見る。
「なんですか?」
冬野さんは穏やかに微笑んで、言った。
「私に、絵を描いてくれない?」
「え……いいんですか?」
「うん。頼みたい」
冬野さんは唐突に、僕に絵を描いてと頼んできた。
――それから三ヶ月後、冬野さんは突然高校教師を辞めた。