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第3話

 ――玉の緒よ 絶えなば絶えね 長らえば 忍ぶることの 弱りもぞする

 ――私の魂よ、いっそ今すぐ絶えてしまえ。このまま生きていたら、あのひとへの恋心を隠し切れなくなってしまうから。

 ***

 ときどき思う。

 もし、彼が生徒じゃなかったら……と。

 もし教師と生徒じゃなかったら、私たちはどんな関係になっていただろう。

 もし、違うかたちで出会っていたら、私たちは――。

 なんて、くだらないことを考えるようになったのは、歳をとった証拠だろうか。

 四角い箱の向こう側を見る。

 教師をしていた頃は、窓の外を見るのが日課だった。窓の向こうには、決まって梅の木とあの子の姿があったから。

 今、私の目の前には、なんとも殺風景な乾いた庭が広がっている。

 入院して、三ヶ月。

 私の世界は、白い箱の中で完結している。

 学生の頃から、きっと近い将来こうなるのだろうなとは覚悟していたけれど。

 いざそのときになると、案外呆気ないもんだなぁと思った。

 ひとりごちながら、点滴の薬液が私の身体に入っていく様子を眺めていると、こんこんと扉が鳴った。

「冬野さん、こんにちは」

 顔を出したのは、かつての教え子であり、今は唯一無二の友達である藤原晴くんだった。

「いらっしゃい、藤原くん」

 微笑んで迎えると、藤原くんは少し緊張した面持ちでそろそろと病室に入ってきた。

「調子はどうですか?」

「うん、元気だよ」

 藤原くんは、口下手で不器用で、とても優しい元生徒。

 藤原くんが、学生の頃から私を好いてくれていることには気付いていた。

 でも、告白はされていない。

 その代わり――。

『友達になってください』

 卒業式のあと、唐突にそう言われて驚いた。

 あの言葉に、私は救われたような気がする。

 もしあのとき、藤原くんに告白されていたら、今頃私たちがこうして会うことはなかっただろう。

 私は今頃、ひとりで死を待っていただろう。

 教師と生徒ではなくなってから、私たちは友達という間柄になった。

 元気だった頃は外でお茶をしたりしていたのだが、私が病に倒れてからは、そんなこともできなくなって一時はメッセージのみのやりとりになった。

 それから、控えめにお見舞いに来たいと言われて、病院の住所を伝えると、その日のうちに会いに来てくれた。

 今でも、藤原くんは毎週のように私に会いに来てくれる。

「これ、新作です」

 こうして、一枚の絵をお土産に。

「……わぁ。これってもしかして、渡月橋?」

 藤原くんが見せてくれたのは、紅葉に彩られた渡月橋の絵。

 葉脈や川の流れまで描かれた繊細なタッチは、ため息が出るほど優雅に描かれていた。

「冬野さん、前に京都行きたいって言ってたから」

「うん、よく覚えてたね。というか藤原くん、風景苦手なのにすごい。上達したね」

「まだまだです。やっぱり実際にあるものを描くのは難しいです。いい勉強になりましたけど……あ、それからこれ、お土産です」と、藤原くんは私に和柄のハンカチをくれた。

 私が入院してから、藤原くんは一度も私に病の話をしない。するのはいつも大学の話や絵の話ばかりだった。

 彼なりに気を遣ってくれているのだろうと思う。

 私が入院してから、藤原くんはよく旅行へ行くようになった。そして、赴いた各地の絵を描いては、私に描いた絵をプレゼントしてくれる。

「いつもありがとね」

「……いえ。僕、センスとかないからこんなものしかあげられなくてすみません」

「なに言ってるの。これは私の宝物だよ」

 これまで藤原くんからもらった絵は、すべて病室の壁に飾っている。入院当時は殺風景だった病室が、今ではとてもカラフルに色付いている。

 君に出会えてよかった。

 心からそう思う。

 この恋が、たとえ身を結ばないものだとしても。

「……冬野さん?」

「……私ね、ずっと分からなかったんだ。生きてる意味……みたいなものが」

 いきなり胸の内を漏らした私に、藤原くんは戸惑った顔をしながらも、静かに耳を傾けてくれる。

「昔から持病持ちで……いつか、そう遠くない未来にこうやって死ぬってことが分かってたから。夢なんて一度も持ったことなかったし、すべてに無気力だった」

 幼い頃から血糖異常を抱えていた私は、高校生のときに糖尿病を発症した。

 それからは、夢なんて持つ余裕はなかった。

 制限ばかりの人生のなか、惰性で大学へ行って、なんとなく資格を取って高校教師になって。でも、県職の試験は落ちて、非常勤講師になった。

 どうせ長くないのだからと、無茶することも増えた。

 煙草を吸い始めたのは、軽いストレス発散のつもりだったと思う。

 すぐに主治医にバレてやめたが。

 余った煙草を持て余し、中庭でただ火をつけて煙を眺めていたとき、君がやってきた。

 藤原くんの存在自体は知っていた。国語準備室の窓から、よくスケッチしているところを見かけていたから。

 私にとって藤原くんは、一生徒に過ぎなかった。

 だけど、いつも熱心にスケッチブックと向き合っていたから、それが気になっていたのも事実で。

 こっそり彼の絵を覗いた瞬間、私の世界は変わった。

 藤原くんの絵は、生に溢れた絵だった。

 特別に上手いわけじゃない。天才的なセンスがあるわけでもない。

 高校三年生という節目に立つ彼の中には、さまざまな葛藤や不安が渦巻いているだろうに、彼の目はどこまでもまっすぐ、自由だった。

 藤原くんは、だれよりがむしゃらに生きていた。

 だから、彼にだけは腐ってほしくなくて、柄にもなく教師っぽいことをしてみたりして。

 それなのに、救われたのは私のほうだった。

『大丈夫かって声をかけると思います』

『だれになにを言われても、描き続ける』

『厄介だけど……面白いです』

『冬野先生と僕もきっとぜんぜん違う考え方だけど、冬野先生の言葉で僕、だいぶ前向きになれました。だから、価値観が違うっていうのは案外、厄介なだけじゃないかもです。新しい価値観に出会えるってことでもあるから』

『友達になってもらえませんか――』

 藤原くんは、私に新しい世界を見せてくれた。

 私では絶対浮かばない言葉たちをくれた。

 私すら捨てていた私の人生を、藤原くんが掬いあげてくれた。

「いつからか……藤原くん、私に絵をプレゼントしてくれるようになったでしょ?」

「……はい」

「藤原くんの絵をもらったとき……私、生きてるんだって初めて思えたんだよね」

 そう言うと、藤原くんは戸惑ったような顔をした。

「学生の頃からずっと、深い人間関係を作らずに孤独に生きてきたから……私が死んでも、きっとだれも気付かないんだろうなって思ってた。だけど、君の絵を見て、気付いた」

 私は生きている。この子のなかではたしかに、冬野美月という人間が息をしている。

 私が死んだら、きっとこの子は泣いてくれる。悲しんでくれるだろう。

 ……やっと気付いた。

 生きてる意味が分からないだとか、ひとりでいいやとか、強がりを散々言っておきながら、私は……ずっと、生きた証がほしかったのだ。

 藤原くんの絵に、初めてじぶんの本心に気づかされた。

 もっと生きていたい。もっと、藤原くんと話したい。もっと、藤原くんと……。

 気が付いたら、涙が落ちていた。涙なんてもうずっと昔に枯れ果てたと思っていたのに、私の両目からは、心が震えた証が次から次へと溢れてくる。

「……ごめんね、いきなり。でも伝えたかったんだ。私は、君の価値観に救われた。君のおかげで、ちゃんと生きられたよって」

 さすがの藤原くんも、私の涙に驚いたような顔をして固まっていた。

 私は笑って涙を拭いながら、

「私、藤原くんが描く絵が世界でいちばん好きだよ」

 そう言うと、藤原くんは顔を真っ赤にした。相変わらず分かりやすいなぁなんて思いながらも、少し寂しい気分になる。

 私がいなくなったら、このひとはべつのひとにこういう顔を見せるのだろうか、と。

 そうであってほしいと思いながらも、生涯私だけなんて都合のいいことが頭をよぎる。

 結ばれたいなんて望んでない。

 ……でも、今だけは。

「……私だけの絵を描いてくれて、ありがとう。藤原晴くん」

「冬野さん……、僕」

 覚悟を決めた顔をして口を開いた藤原くんを、私は首を振って静止する。

 すると藤原くんは泣きそうな顔をして、唇を引き結ぶ。

「……すみません」

 藤原くんが謝る必要なんてないのに……。

 そう思いながらも、健気な姿に愛おしさを募らせる。

「想いは充分伝わってるよ。ありがとう」

「……はい」

 ここまできても告わせない私は、鬼だろうか。

「……ごめんね」

 謝ると、藤原くんは困ったように笑ってから、真剣な眼差しを向けてきた。

「……また描きます。今度は、もっといいものを。そうしたらまた、もらってくれますか?」

 可愛いなぁと思いながら、乾いた指先でスケッチブックをなぞる。

「もちろん。楽しみに待ってるね」

 私は、あとどれくらいこの子の絵を見ることができるんだろう。あとどれくらい、この子と言葉を交わせるんだろう。

 先のことは分からないけれど、強く思った。

 産まれてくることができて、この子と同じこの時代に生きていてよかった――。

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