目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
第3話

「はわぁ……映画すごくよかったです! 私、めちゃくちゃ感動しました!」

「案外作り込まれてたね。最後は僕もすごく感動した」

「ですね! 続編も楽しみです! また見に来ましょうね!」

「もちろん」

 二人は、仲睦まじく感想を言い合いながら駐車場へ戻った。

 車に乗り込み、シートベルトを締めながらも、スズカはまだ映画の話をしていた。

「最後の最後、白ウサギがラッパを吹くシーンなんてもう……私、感動で涙が……」

 余程映画の内容が気に入ったらしい。

 スズカは興奮したままエンジンをかけ、ハンドルを握る。サツキは苦笑しながら、何気なく車窓へ視線を向けた。ちらり、となにかが視界の隅を過ぎったような気がして、サツキは首を傾げた。

 しかし、スズカは気付かずに前進する。動き出した車に、サツキがハッとして声を上げた。

「待って! スズ……」

 車が動き出した瞬間、サツキははっきりと人影を認識した。

「危ないっ!」

 サツキが叫ぶとほぼ同時に、ドン、という鈍い音がした。

「きゃあ!」

 慌てて、スズカが急ブレーキをかける。ガクンと車が揺れ、サツキは前のめりになってダッシュボードに手をついた。

 今まで存在すら忘れていた心臓が、突然ばくばくと激しく鳴り出した。

 車が止まると、恐ろしく深い静寂が車内を満たした。呼吸が止まるほどの恐怖が二人を襲う。

「ど……どうしよう。私、もしかして……轢いちゃった?」

 スズカは顔を真っ青にして、呆然とハンドルを握っている。その横顔は、心配になるほど真っ青だった。

「と、とりあえず、ギアをパーキングに入れて。外に出よう」

「う、うん」

 サツキに言われた通りにスズカはギアをパーキングに入れると、ドアを開けた。車体の前方に出る。

 そこにはやはり、スーツ姿の男性がうずくまっていた。

「あ……あの、大丈夫ですか? ごめんなさい、私、周りをよく見てなくて」

 スズカがおずおずと声をかける。サツキも慌てて男性に駆け寄った。

「どこ打ちました? すぐに救急車と警察呼びますから」

 サツキが声をかけると、男性は額を押さえながらよろよろと鈍い動きで立ち上がる。

「……いえ」

 骨折はしていないようだが、頭や腰は大丈夫だっただろうか。サツキは、男性の顔色をのぞき込みながら訊ねる。

「あの、大丈夫……ですか?」

「えぇ、まぁ」

 男性が答える。意識ははっきりしているようだ。

「良かった……生きてる」

 サツキの隣にいたスズカが、あからさまにホッとした様子で息を吐いた。サツキは眉間に皺を寄せ、スズカを見る。

「こら、スズカ。こんなときに不謹慎だろ」

「あ、そうだよね。ごめんなさい……」

 スズカは仔犬のようにしゅんと肩を竦めた。

「あの、大丈夫でしたか? お怪我はしていませんか」

 スズカは男性にそっと訊ねた。サツキは男性へ視線を戻した。

 男性は上質の紺色のスーツを着ていて、立ち上がるとサツキと同じくらいの長身をしていた。ひょろりと縦に細長く、おまけに細面で、一見人当たりの良さそうなサラリーマンに見える。

「あーうん、足をちょっとやっちゃったみたいだけど、まぁ大丈夫ですよ、このくらい」

 男性は言いながら少し足を動かして、一瞬、苦悶の表情を浮かべた。その一瞬の顔に、スズカが気付く。

「私がよそ見していたばっかりに、本当にごめんなさい! 今すぐ救急車呼びますから」

 スズカは男性に深く頭を下げ、スマホを取り出した。しかし、男性は困ったように笑って両手を振る。

「いえいえ、大丈夫ですよ。実は今、会社に戻る途中でして、あまり時間がないんです。僕の方は本当に大丈夫ですから、あなた方はもう行ってください」

「いえ、でもそういうわけには……」

 スズカは、困ったようにサツキを見た。とはいえ、サツキも初めての状況に困惑を隠せない。

 サツキは人身事故など起こしたことはないが、こういうとき、この人の言うままになにもせずこの場を去るのが正しいことだとは思わない。

 とはいえ本人は大事にしなくていいと言っているし、こういう場合はどうするべきなのだろう。

 警察と救急車がまず一番に頭に浮かぶが、本人がそれはいいと言っている。法を守るべきなのか、それとも被害者の意志を優先させるべきなのか……。

 そのとき、サツキは閃いた。

「あ、では、会社までお送りします。その足じゃ歩くのは大変でしょうし。それで、もし良ければ、お仕事が終わったら一緒に病院に行っていただけませんか」

「え……」

 サツキの申し出に、男性は困ったように眉を下げた。

「お願いします。せめて、そうさせてください」

 スズカも男性に頼み込む。すると、男性は困惑気味に眉を下げてサツキとスズカを交互に見た。

「……分かりました。でも僕の職場、本当にすぐ近くなんですけどね。ほら、あのビルだから」と、男性は駐車場から見えるすぐ近くのビルを指さした。

「良かった。あそこなら案内してもらうまでもないですね。乗ってください」

 サツキは後部座席のドアを開けた。男

「あの……サツキくん」

 男性に肩を貸しながら車の後部座席に乗せていると、スズカが控えめにサツキの袖を引く。

「ん?」

 見ると、スズカの手は小刻みに震えていた。

 軽傷であったとはいえ、人を轢いてしまったのだ。無理もない。

 サツキはスズカへの配慮が欠けていたことに申し訳ない気持ちになった。

「いいよ、スズカは助手席に乗って。俺が運転するから」

 優しく言うと、スズカはホッとしたようにこくりと頷いた。



 * * *



「――あの、本当に気にしないでください」

 サツキの運転で車が動き出すと、後部座席から男性が言った。

「僕、全然元気ですから。本当に。スピードもなかったですし、こんなの、青あざくらいで済みますよ」

「はい……ありがとうございます。本当にすみませんでした」

 男性が気を遣ってスズカに話しかけるが、スズカは小さく謝罪の言葉を返すだけで口を閉ざしてしまう。

「スズカ……」

 サツキはスズカの落ち込んだ声に、胸を痛めた。

 規模によらず、他人を巻き込む事故を起こしてしまったのだから、相当ショックだったはずだ。

「大丈夫だよ、スズカ。俺もいるから」

 サツキの言葉に、スズカはかすかに「うん」と頷いたものの、そのまま俯いてしまった。

 サツキはちらりとバックミラーを見た。

「あの……失礼ですが、お名前をお伺いしても?」「あぁ。僕は、タカミといいます」

「タカミさんですね。俺はサツキです。こっちはスズカ。あの、あとで連絡先を聞いてもいいですか? 治療費とか、お支払いしますので」

「あ、はい。もちろん。あ……えっと、お二人は学生さん?」

「はい。この近くの聖和せいわ大学の学生です。今日は彼女と映画を見に来ていて」

 サツキはちらりとスズカを見るが、スズカの反応はない。

「そうでしたか。実は僕も、今日ちょっと映画館に行っていたんですよ」

「え? でも仕事って……」

「はは。バレちゃいましたね。サボってたんです。どうしても見たい映画があって」

 タカミはぺろりと舌を出した。茶目っ気たっぷりなその仕草に、サツキはくすっと笑う。

「真面目そうに見えたのに、意外ですね」

「たまにはいいんですよ」

「ですね」

「それより、せっかくのデートを台無しにしてしまいましたね。すみませんでした」

「いえ、とんでもない。こちらこそ、危険な目に遭わせてしまって申し訳ありませんでした」

 タカミは人当たりの良い好青年だった。サツキは、人身事故の相手が変な人ではなくて本当に良かった、と内心で安堵するのだった。

 ほどなくして、タカミが勤務するというビルの地下駐車場に入る。建物は近くで見るとかなり古く、ところどころヒビが入っている。耐震などの基準は大丈夫なのかと心配になるようなビルだった。

 駐車場に車を停め、エンジンを切る。

「結構暗いですね」

 昭和の建物といった雰囲気を感じる。タカミはこのビルで、一体どんな仕事をしているのだろう。

「あぁ……そうでしょう。古いんですよね、このビル。地震とか起きると、結構揺れるから怖くて」と、タカミは苦笑する。

「たしかに、これは結構揺れそうですね……ね、スズカ」

 タカミと会話をしつつ、サツキは隣に座るスズカを見た。ずっと黙り込んだままのスズカに気が付き、サツキは訝しげに声をかけた。

「スズカ?」

 シートベルトを外し、スズカの肩を揺する。

「どうし……」

 すると、かくん、とスズカの首が折れた。長い黒髪が垂れ、顔は見えない。

「スズカ……?」

 サツキは恐る恐る、スズカの髪をかきあげた。そして、その顔を見てサツキは息を呑んだ。スズカはまるで死人のように青白い顔をして、目を固く閉じていた。

 心臓が、どくん、と大きく音を立てた。

「スズカ? おい、スズカ!」

 スズカの肩を揺すり、声をかける。

「どうしました? サツキさん」

 サツキの声に驚いたタカミが、なにごとかと乗り出してきた。

「スズカの様子がおかしくて……」

 動揺しながらサツキはタカミを見る。

 そのときだった。

 ちくりとサツキの首元に鈍い痛みが走った。

 次の瞬間、ぐらりと目が回り、平衡感覚が分からなくなる。

「なっ……ん……?」

 ぐわんぐわんと目が回り、急激に眠気が襲ってきた。声を出そうにも、舌が上手く回らない。身体が突然鉛に変わってしまったかのように、ゆっくりと重くなっていく。瞼すら重い。

 サツキは、助手席でぐったりとしたスズカに寄りかかるようにして倒れ込んだ。

 タカミは、倒れた二人をじっと見下ろして呟いた。

「……よし。これで二千万」

 いつの間にかタカミの顔からは、表情が消えていた。

コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?