『えー速報です。昨日深夜、東京都蒲田区のマンションで火災が発生し、焼け跡から一人の遺体が発見されました』
ノイズ混じりの声が、狭い車内を満たしている。東京都港区の国道を、可愛らしい赤色の軽自動車が駆けていく。
運転席では、一見すると子どものようにも見えるほど華奢な少女がハンドルを握っている。その隣の助手席では、さらさらの黒髪の二十歳前後の男性が腰を沈めていた。
男性は窓枠に肘をつき、外を眺めていた。
『被害者は火元の部屋に住むミノリ・トガシさんと見られています。ミノリさんは今年の一月十日、港区のタワーマンションに爆薬を積んだ遠隔操作型の小型ドローンを突入させ、マンションの損害に加えて、住人・通行人合わせて七百人が死亡・負傷した事件に関与した国際テロリスト集団である赤色オオカミの実行犯のひとりと見られており、警察が事情を聞きに自宅を訊ねたところ、火災に気が付いたということです。この火災でミノリさん以外の被害は出ていないとのことですが、警察は第三者の関与もあるとみて、火災の原因を調査しているとのことです。続いてのニュースです。都内の養護施設に、黒ウサギを名乗る人物から五千万円の寄付があったとのことです。黒ウサギは、今若者を中心としたSNS『HAKONIWA』で話題の正体不明の人物で、一部ではダークヒーローなどとも呼ばれ……』
ラジオの速報を聴き流しながら、助手席に座っている男――サツキは車窓に映った運転席の彼女をちらりと見た。
「どうかしましたか?」
彼女はハンドルを握ったまま、首をこてんと傾げて訊ねてきた。視線は前に向いたままなのに、ガラス越しに見惚れていたことがバレていたらしい。
「あ……いや、可愛いなと思って」
サツキは慌てて車窓に写る彼女から視線を外し、姿勢を正した。すると、運転席の彼女――スズカもサツキの緊張が移ったように、陶器のように白い頬を桃色に染め、目を泳がせ始めた。
「な、なんですかいきなり。運転中に変なこと言わないでくださいよ。ハンドル操作間違っちゃったら、サツキくんのせいですからね!」
ごにょごにょと口の中で文句を言いながら、スズカは落ち着きなくハンドルを握ったり離したりした。
「はは……ごめんごめん」
サツキは謝りながらも、スズカの横顔を見つめた。
なんと可愛い反応だろうか。新鮮過ぎる。新鮮過ぎて、ずっと見ていたい。
相変わらず照れた表情も可愛らしいスズカに、サツキはしみじみと幸せを感じたのだった。
しかし次の瞬間、視界がぐるりと廻った。
キィッ!
車内に、大きなブレーキの音が響く。急に全身に重力を感じ、前のめりになってしまう。シートベルトが身体にめり込み、ぐっと息が詰まった。
「うぐっ!」
「あわわっ、すすすみません!」
スズカは慌てて謝り倒しながら、サツキを見た。
「だだ、大丈夫ですか? サツキくん!」
「う、うん、大丈夫。話しかけた俺が悪かったよ。スズカは運転に集中して」
「はい……。ご配慮、痛み入ります」
スズカはもう一度申し訳なさそうに謝ってから、ハンドルを握り直した。
二人を乗せた車は、とある建物の駐車場へ入っていく。
* * *
「――では、行きます!」
狭い車内に、気合いの入った声が響く。サツキはごくりと唾を飲んだ。
赤いランプとハザードのランプがちかちかと点灯する。弱々しくギアを引く音のあと、ゆっくりと鉛の塊が静止した。
ふぅ、とスズカが深く息を吐く。同時に、隣でサツキも息を吐いた。どうやら無意識のうちに息を止めていたらしい。
「お疲れ様でした」
サツキが労うと、
「いえ、気を抜くのは早いですよ」
スズカはまだ眉間に皺を寄せたままだった。スズカはシートベルトを外して降車する。見ると、白線との平行具合を確認しているようだった。意図を理解し、サツキも降車した。
スズカは自分で確認したあと、
「ど、どうでしょうか、サツキくん」
と、オドオドとした様子で背後にいたサツキを振り返った。
サツキは駐車された車を見て、柔らかく微笑む。
「……うん。いいんじゃない」
スズカはサツキの言葉に、ぱぁっと花が咲いたような笑顔になる。
そして、「本当ですか!?」と声を弾ませた。
「あ、でも運転に関してはちょっと言いたいことがある。スズカは全体的に判断が遅いし、少し左側に寄り過ぎてる。歩行者とか動物が飛び出してくることを想定して、対向車がいないときは基本中央線寄りに走った方がいい。それから、止まるときはもう少し早めに穏やかにブレーキを踏めるようになるとなお良し」
サツキのアドバイスに、スズカは真剣な眼差しで大きく頷いた。
「でもまぁ、バック駐車に関しては合格かな。運転お疲れ様。頑張ったね」
えらいえらい、とサツキはスズカの頭を撫でた。
「やった! ようやくサツキくんに褒めてもらえました。感激です。今日はお祝いしましょう!」
はしゃぐスズカにサツキは思わず頬を緩めた。
「大袈裟だってば。ほら、映画始まっちゃう。そろそろ行くよ」
サツキはスズカの手を優しく引き寄せると、そのまま歩き出した。
「はい!」
スズカは自身の手を包み込む大きな手をしっかりと握り返すと、サツキの隣に肩を並べる。
歩きながら、スズカはおもむろにくすりと笑った。サツキは首を傾げ、スズカを見下ろす。
「なあに? その顔」
訊ねると、スズカはえへへっとふやけたような笑みを見せた。その顔は、とても成人を迎えた大人の女性には見えない。
「なんだか、とっても幸せだなって思ったので」
にこにこといつまでも嬉しそうなスズカの横顔に、サツキは目を細める。僕だって、と心の中で思いながら、サツキはスズカの小さな手を握り返した。
* * *
今日は、二人が付き合ってから初めてのデートだった。
同じ大学に通うサツキとスズカは、ゼミの先輩後輩という間柄だ。
二週間前、サツキの告白により二人は晴れて付き合うことになった。
記念すべき初デートの今日はまず、スズカが以前より観たがっていた恋愛映画を鑑賞することになっていた。その後は軽くランチを済ませて美術館へ。
夜はすぐ近くの眺めのいい展望デッキのフレンチレストランを予約して、帰り際にスズカの好きなチョコレート屋で買っておいた期間限定のチョコレートとハグならびにキス(できれば)をプレゼントするという、これ以上にない完璧なデートプランを遂行する予定なのである。
もちろん、今日のデートではサツキ自らが運転するつもりだった。理由は、スズカをもてなしたいからともうひとつ。スズカの運転テクニックがなかなか恐ろしいからだ。
初めて彼女の運転する車に乗ったとき、急ブレーキに急ハンドル、サツキは安全保証のないジェットコースターに乗っている気分になった。何度嘔吐しそうになるのを堪えたか分からない。
しかし、運転免許を取り立ての彼女にバック駐車の練習を見てほしいと頼まれ、サツキは仕方なく助手席に腰を沈めることにしたのだった。
映画館に入り、無事チケットを入手すると、ふたりはそのまま売店に並んだ。
「ポップコーンは何味にする?」
サツキが訊ねると、スズカは満面の笑顔で迷わずに言った。
「キャラメル一択!」
可愛らしい、とサツキは表情をほころばせる。
「飲み物は?」
「絶対コーラ!」
スズカは童顔だ。年齢よりも、ずっと子供っぽい。それがこの言動のせいで、さらに幼く見える。まぁそれも可愛いのだけれど、なんて思いながら、サツキは店員に注文をする。
「……キャラメルポップコーンと、コーラとコーヒーで」
隣から、スズカの視線を感じた。
「ん?」
「……今ちょっと呆れましたよね?」
見ると、スズカは少し不貞腐れたような顔をして、サツキを睨んでいた。睨んでも迫力が出ないところがこれまた可愛らしいところだ。
「……まさか。可愛いなと思っただけだよ」
もちろん、本心だ。サツキはスズカが可愛くて仕方ない。
「……むぅ。それならいいですけど」
スズカの頬が、ぽっと桃色に染まる。
ふたりは、大学では先輩後輩の間柄である。しかし、今日は別だ。今日このときばかりは、スズカはサツキだけの女の子なのだ。
小さな手も、大きな黒目がちの瞳も、つやつやの長い髪も。いや、それだけじゃない。彼女の華奢な体を彩る白いワンピースも、なにもかもがサツキのためだけに揃えられた極上のプレゼントなのだ。
今日は間違いなく、二人にとって最高の記念日になるはずだ。今日という日を彼女にとって人生最高の日にしてやる、と意気込みながら、サツキはスズカの手を握り直した。
スズカはきょとんとした顔でサツキを見上げた。黒々とした大きな瞳が、不意にとろりと揺れる。スズカはサツキの笑みにつられたように微笑むと、サツキの手をきゅっと握り返した。
いつにも増して距離が近いスズカを噛み締めながら、サツキは激甘の恋愛映画を鑑賞するのだった。