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第44話

 ヤーナゥが海国ハーランの女王だと知る者は、恐れ多くてその行為を止められない。

 おろおろする使用人たちが取り囲む中、ヤーナゥは声がかすれても応援し続け、やがて根負けしたのか医務室の扉が内側から開かれた。

 そこから顔を出したのはルーベンだった。

「ベロニカが君を呼んでいる。中に入っていいよ」

 そうして招かれた医務室では、汗で濡れた黒髪を頬や首筋にはり付けたベロニカが、寝台に横たわっていた。

 ベロニカの苦しそうな息遣いに、ヤーナゥは震えあがる。

「あれは、痛みを逃がすための呼吸で、赤ちゃんのためでもある。そう心配しなくてもいい」

 看護師が持ってきてくれた椅子へ、ルーベンはヤーナゥを誘導する。

 そこにヤーナゥがしっかり腰かけたことを確認して、ルーベンはベロニカのもとへ戻った。

 しっかりとベロニカの手を握り、布で汗を拭ってやっている。

「これで良かった? 今は出産のことだけ、考えていればいいのに。ベロニカは人が良すぎるよ」

「ヤーナゥの応援を聞いて、気持ちが励まされたから。ヤーナゥがこれまで見守ってきた赤ちゃんが生まれるところを、本人に見てもらいたいの」

 ベロニカが視線をヤーナゥへ移す。

 ヤーナゥは手を組み合わせ、祈るようにベロニカを見ていた。

 食いしばられた唇から、ヤーナゥが固く奥歯を噛みしめているのが分かる。

「ヤーナゥ、全ての人はこうして生まれてくるのよ。戦をしてはいけない理由が、分かるでしょう?」

 ベロニカに言われて、ビクリとヤーナゥは体を強張らせた。

 ヤーナゥは面白半分でレオポルドに軍の指揮権を渡し、ロサ王国へ戦を挑んだ。

 ロサ王国が短期決戦で終わらせてくれたから良かったものの、長引けばそれだけ、多くの兵の命が脅かされたのだ。

 兵は人だ。

 そして、人は母から生まれてくる。

 ひとりひとり、母が腹を痛め、周りが見守り、時間をかけて生まれてくるのだ。

「あ……あ……」

 ヤーナゥの頬を涙が伝う。

 それは、とんでもないことをしてしまったという、後悔の涙だ。

「ベロニカさま、いきんでください! 赤ちゃんが下りてきています!」

 産婆の掛け声がかかる。

 ベロニカはルーベンの腕にすがり、力を込める。

 一度や二度では生まれない。

 何度も繰り返すそれを、ヤーナゥはしっかりと見ていた。

 人の命の重さを、決して忘れないというように。

 おぎゃああああ!

 ぐったりしたベロニカが、もう死んでしまうのではないかと思われたとき、赤ちゃんは出てきた。

 体力も気力も消耗し、意識が薄れかけていたベロニカだったが、大きな赤ちゃんの声で目を覚ます。

「ベロニカ、女の子だ。とても元気がいい」

 ルーベンが嬉しそうに教えてくれる。

 そしてベロニカを抱きしめ、偉業を成し遂げた体を労う。

「疲れただろう。よく頑張ってくれた。もうゆっくりしていい」

 ルーベンの大きな手が、ベロニカの頭をよしよしと撫でる。

 おかげで少し、うとうとしてしまったベロニカだったが、すっかり体を洗われた赤ちゃんが産婆によって連れて来られると、その可愛さに目を見開いた。

 たっぷりとした黒髪をベロニカから、赤みを帯びた瞳をルーベンから、赤ちゃんはそれぞれ引き継いでいた。

 まだ薄っすらとしか瞼を持ち上げきれない赤ちゃんだったが、その隙間からは美しい赤が覗いている。

「ルーベン、見て。目の色は、あなたに似ているわ」

「成長するにつけ、もう少し濃い色になるかもしれない。俺もそうだった」

 赤ちゃんを抱いて、愛おしそうに語り合っている夫婦を見て、ヤーナゥがしゃくりあげて泣いていた。

 母子ともに無事だという連絡は、廊下で待つ人々に伝えられる。

 すぐに祝砲が鳴らされ、王都へと喜びの声が広がった。

 それぞれの街道を通り、領地を護る領主たちへも、それは伝播していく。

 国中が新たに誕生した王族に歓喜し、その日はお祭り騒ぎとなった。

 ◇◆◇

 新暦874年――生まれた女の子は、『アデライ』と名付けられる。

 アデライの生後、半年が経って、ヤーナゥの留学の期限がやってきた。

「可愛いアデライさまと離れたくない」

 寝ころんだまま、自分の足を持って遊んでいるアデライを見つめ、ヤーナゥが呟く。

 最近はよく溜め息をついている姿もあって、ベロニカは苦笑する。

「またすぐに会えるわよ。アデライの誕生日に催す披露目の会には、来てくれるのでしょう?」

「もちろんです! たくさんの贈り物を、船に載せてきます!」

 すっかりアデライの虜になっているヤーナゥが、張り切って声を上げる。

 するとアデライがヤーナゥの存在に気づき、そちらに手を伸ばす。

「あー!」

「アデライさま、ヤーナゥはここですよ」

 ベロニカと乳母が側にいないときは、付きっきりでヤーナゥがアデライの相手をしている。

 そのせいか、ルーベンには人見知りをし始めたアデライに、ヤーナゥは懐かれている。

「どうかヤーナゥのこと、忘れないでください。ヤーナゥもアデライさまのこと、忘れません」

 帰国の日まで、ヤーナゥはアデライに自分の存在をすり込み続けた。

 そして迎えに来たビクトルに引っ張られ、泣きながらヤーナゥは海国ハーランへと帰っていったのだった。

 ◇◆◇

「お変わりになりましたね、ヤーナゥさま。ロサ王国での日々は、良いものだったようで、安心しました」

 帰国する船の中で、ビクトルは見違えたヤーナゥを褒める。

 その隣では侍女のコンスェレが、嬉し涙を拭っていた。

 そんな臣下のふたりに向かって、ヤーナゥは胸を張る。

「ビクトルは、赤ちゃんが生まれるところを見たことがある? 人の命の重さはね、計れないのよ」

 鼻息荒くそう宣言するヤーナゥに、ビクトルは照れくさそうに頭をかく。

「いつかは、と思っているのですが、なかなか授かりものなので」

 その隣ではコンスェレも顔を赤くしている。

 ヤーナゥが真顔になる。

「なんなの? なんで二人とも恥ずかしそうにしているのよ? もしかして、あなたたち、私を差し置いて――」

「先々月、結婚したんです」

 声をそろえて報告するビクトルとコンスェレに、ヤーナゥが唖然とする。

「い、いつの間に、そういう関係に!?」

「ヤーナゥさまにお仕えしているときに、お互いを励まし合っていたら、何となくそこから交際に発展して……」

 ヤーナゥは戦慄く。

 ベロニカとルーベンの、お互いを思い合う夫婦像に憧れを感じていたら、こんな身近でも同じ現象が起きていた。

「なによ! みんなして! うらやましい!」

 私だって、私だって……とブツブツ恨めし気に呟きながらも、「おめでとう」と素直に寿ぐ17歳のヤーナゥは、やはり成長していた。

 ◇◆◇

 それから半年して、アデライの披露目の会に大量の贈り物と共に颯爽と現れたヤーナゥは、1歳になったアデライから存在を忘れられていて、人目もはばからずに号泣する。

「成長と共に、記憶力も良くなるわ。そんなにしょげないで」

 ベロニカに慰められ、ヤーナゥが嗚咽を上げながら肉を貪っていたら、なぜかマドリガル王国の第三王子ウリセスに話しかけられた。

「君、よく食べるね。いつも、そうなの?」

 黒髪で異国風の顔だちをしている痩身のウリセスは、切れ長な一重の黒眼で、ヤーナゥの食べっぷりをジッと見つめる。

 立食形式なので、ヤーナゥ以外に食事をしている者は、ほとんどいない。

 いたとしても、お酒の肴だったり、一口大の菓子だったり、摘まむ程度だ。

 そんな場で、盛りに盛った皿の上の肉を、もりもり食べているヤーナゥは目立っていた。

「私の国では主に魚を食べるの。だから肉は珍しいのよ。ロサ王国に留学している間、たくさん肉を食べさせてもらったから、今は思い出を懐かしんでいるところよ」

 ぐすぐすと洟をすすりながら、それでもモグモグと食べ続けるヤーナゥを、ウリセスは会が終わるまで、微笑ましく眺めていた。

 この披露目の会の後、もうアデライに忘れられないように、自分の肖像画をロサ王国へ残していこうと考えていたヤーナゥの元へ、マドリガル王国の王太子から急ぎの書状が届く。

 内容を噛み砕くと、『第三王子ウリセスが、ヤーナゥ女王と結婚したいと言っている。検討してもらえないだろうか』というものだった。

 アデライと肉に意識の全てを注いでいたヤーナゥは、突然の申し込みに卒倒する。

 しかしコンスェレから、「これでヤーナゥさまにも、恋人ができますね」と言われ、ヤーナゥは突然始まった自分の恋物語に、顔を真っ赤にさせるのだった。

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