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第42話

「二人きりで話したいの。セベリノはここで、待っていてね」

 ついに、ヤーナゥがロサ王国へやってきた。

 エンリケとラミロは、ビクトルが持参した賠償金を確認している。

 ルーベンはヤーナゥの目に触れないよう、別室へ隠れてもらっている。

 もちろんルーベンの側付きのカイザも、一緒だ。

 だから謁見の間には、ベロニカとセベリノが残ったのだが、そこからベロニカはセベリノに退室を促した。

 しぶしぶ部屋を出て、その扉の前で待機するセベリノ。

 これでようやく、ベロニカはヤーナゥと二人きり、向き合うことになった。

「ヤーナゥ女王、ロサ王国へようこそ。あなたを一年間、受け入れるにあたって、立場を私の侍女としました。今後はヤーナゥと呼びます」

「なによ、えらそうに! 私はここへ、納得して来たわけじゃないのよ!」

 ヤーナゥが、大声で叫び出したので、ベロニカは人差し指を口元で立て、シーっと静かにするような身振りをした。

 そしてヤーナゥへ手招きをする。

「こちらへ来てちょうだい。そして手を差し出して」

 ヤーナゥの怒りを笑顔で受け流すベロニカに、気味の悪いものを感じながら、ヤーナゥはベロニカに近づく。

 ここでどれほど反抗しても、一年間は国に帰れないと、ヤーナゥだって分かっている。

 だから最初にベロニカに威嚇しておきたかったのだが、その作戦は通用しなかったようだ。

 渋々とヤーナゥが差し出した手をベロニカは掴み、自らの腹へ押しつけた。

 ふっくらした腹を触って、ヤーナゥはベロニカが妊娠していると気づく。

 これまでベロニカは座っていたから、服のひだに隠れて、腹のふくらみがヤーナゥには見えなかったのだ。

「なっ……何を!」

「大きな声を出さないで。赤ちゃんがビックリするでしょう。もう赤ちゃんには耳があって、お腹の外の声が聞こえているのよ」

 ヤーナゥはハッとして、腹に押しつけられた手とは反対の手で、自分の口を押えた。

 ベロニカはいけ好かないが、赤ちゃんがビックリするのは可哀想だ。

 そう思ったヤーナゥの純粋な気持ちに、ベロニカは微笑む。

(ヤーナゥ女王の矯正は、可能みたいね)

 腹にあてたヤーナゥの手に、温かいベロニカの体温が伝わる。

 ヤーナゥよりも体温が高いのは、妊婦だからだろうか。

 そう考えていたヤーナゥの手のひらが、奇妙な動きを察してビクリと硬直する。

 ポコッとベロニカの腹の中で、何かが蠢いた。

「ヒッ!」

「あら、ちゃんとご挨拶をしたわね。いい子、いい子」

 慄いて情けない声を出したヤーナゥと違い、ベロニカは優しい声で子を褒めて、腹を撫でている。

「い、今のは?」

「胎動と言うの。赤ちゃんがお腹の中で、遊んだり、泳いだりしているのよ」

「泳ぐ……?」

 実はヤーナゥは泳げない。

 大切にされすぎて、島国の生まれなのに、海に近寄らせてもらえなかった。

 それだけでなく、水で遊ぶことも禁じられたので、ついに泳ぎを覚えないまま成人した。

 ヤーナゥはベロニカのお腹を凝視する。

 ヤーナゥは出来ないのに、この子は出来るのか。

 ちょっと嫉妬じみた感情がせり上がってきたヤーナゥだったが、それをベロニカが遮る。

「ヤーナゥもこうして、ヤーナゥのお母さまのお腹にいたのよ。もう覚えていないでしょうけど」

「私も? 泳いでいた?」

「お腹の中には、お水があるから。赤ちゃんはみんな、泳ぐのよ」

 それを聞いてギョッとした。

 泳げないヤーナゥが、お腹の中では泳いでいたなんて。

 しげしげとベロニカのお腹を見つめる。

 この中では、何が起こっているのか、不思議だった。

「お母さんはね、お腹の中で赤ちゃんを護り育てて、命を懸けて世に生み落とすの」

「私の母上は六人の子を生んだが、死んではいないぞ」

 むしろピンピンしている。

 権限を乱用して戦をしたのが知られて、ヤーナゥは母に怒られた。

 うるさい母を思い出し、唇を尖らせていたヤーナゥだったが、ベロニカはそれに感嘆する。

「すごいわね、ヤーナゥのお母さまは。六回も命を懸けて、六回とも生き残ったのね」

「え……」

「お母さまは女王だものね。女児を生まなくてはならない、使命もあったでしょう。そんな重圧の中、頑張られたのね」

 いつも夫たちを侍らせ、ゴロゴロしている母からは、そんな壮絶さは想像もできない。

 ベロニカがゆっくりお腹を撫でて、少しだけ声を落とした。

「私はね、初めての妊娠というのもあって、不安で仕方がないのよ。この子をちゃんと、生んであげられるのか、考え出すと眠れない夜もあるの」

 ベロニカのお腹に置いたヤーナゥの手が、またしてもポコンと蹴られた。

「でもね、沈んでいると、この子が慰めてくれるのよ。今もそうだったでしょう。母子の体は繋がっているけど、きっと心も繋がっているのね。だからね、なるべく明るい気持ちでいようって、思っているの。そうしたらこの子も、元気になるかなって」

 そうして笑うベロニカの顔は、ヤーナゥに毅然と物を申した女王の顔とは違っていた。

 同じ女王という立場にあるベロニカに対して、戦で負けた劣等感や、気に入った男を奪えなかった恨みを抱いていたヤーナゥだったが、今のベロニカには、そんな気持ちが浮かばない。

 ただ、むずむずした思いを持て余し、そっけない口調になってしまうだけだった。

「ふん、知らないわ。こんなに動いているのだから、元気なんじゃないの?」

「それがね、急に動かなくなったりするのよ。そうしたら、死んでしまったのではないかと、心配になるの。また動いてくれるまで、気が気ではないのよ」

「死んだりするの? お腹の中で?」

 びっくりしているヤーナゥの顔を見上げて、ベロニカがさみしそうに微笑む。

「悲しいけれど、そういう場合もあるのよ」

「……どうしたらいいの? どうしたら、赤ちゃんは死なないの?」

「分からないわ。だけど、まずは私が元気でいないとね。栄養のあるものを食べて、しっかり眠って、適度に体を動かして。これからもっとお腹が大きくなると、どれも難しくなってくるの。だからヤーナゥには、私に付いて、いろいろ手伝ってもらうと思うわ。どうぞよろしくね」

 急にヤーナゥの肩に、赤ちゃんの命という、重たいものが圧し掛かった気がした。

 それはベロニカの誘導によって、背負わされたものだったが、護られるばかりだったヤーナゥには、とても緊張を強いられるものだった。

 決してそんなことはないのだが、これからの一言一句、一挙手一投足が、赤ちゃんに影響を与えるのではないかという恐怖に、ヤーナゥが襲われたのは間違いない。

 自国民ですら、遊戯盤の駒程度の認識だったヤーナゥにとって、初めて感じた責任だった。

 ◇◆◇

 こうして、ヤーナゥの侍女としての生活が始まった。

 なんの礼儀も知らないヤーナゥは、主に裏方での仕事を任された。

 つまり、ベロニカが女王としての仮面を外し、妻としてルーベンの前でくつろいでいる時間の世話をするのだ。

 ルーベンを見れば、欲しくなるのではないかと思ったが、ルーベンはヤーナゥを視野に入れもしない。

 毎日ひたすらベロニカに愛を囁き、腹の子にも情をかける。

 完全に無視をされた形だったが、お互いに唯一の存在として愛し合う夫婦の姿に、ヤーナゥは衝撃を受けた。

 密度の濃い愛が、そこにあったのだ。

 ヤーナゥの母が、十人の夫を愛していない訳ではない。

 なにしろ母の好みで選ばれた男たちだ。

 どこかしら、愛するところがあったから、夫にしたのだ。

 だが、その愛は散漫だ。

 男たちは母の愛を得るのに必死だが、母は愛をばら撒く。

「この男は顔が好き。この男は会話が弾む。この男は――」

 つまり、男の一部分しか愛していないのだ。

 一人の人間として、すべてを愛された夫はいない。

 ヤーナゥはそんな母を見て育った。

 そして気に入った男がいれば、何人でも夫にしてよいと、大臣たちに言われた。

 好きなだけ侍らせればいいのよ、と母は教えてくれた。

 だが、ヤーナゥは今、それらに疑問を抱いている。

 目の前にいるベロニカとルーベン夫婦の姿こそ、真実の愛の姿なのではないか、と。

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